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イタリアの画家ジョヴァンニ・ボルディーニが生まれた。

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ArtDailyは2021年12月31日に、ほとんどの作品をパリで製作したイタリアのポートレート画家ジョヴァンニ・ボルディーニ(Giovanni Boldini/1842 - 1931)が、14〜16世紀にエステ(Este)家統治下時代に、ルネッサンス文化の中心地となった知的で芸術的なイタリアの街フェラーラ(Ferrara)で、宗教的な主題や肖像画の有名な画家であり、修復家であり、偉大な写字家でもあったアントニオ・ボルディーニ(Antonio Boldini/1799- 1872)とベンベヌータ・ボルディーニ(Benvenuta Boldini/1811 - 1878)の子として1842年12月31日に生まれた。

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彼は、フェラーラで名の知れた画家一族の家系であった。

彼には兄弟として、
姉のベアトリーチェ・ボルディーニ(Beatrice Boldini/1830 - ?)
兄のルイジ・ボルディーニ(Luigi Boldini/1832 - ?)がいた。
彼の妻は(Emilia Boldini/? - ?)

父や義兄から画法を教わった。

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1858年から、フェラーラで、フェラーラ市立劇場のフレスコ画の画家(painter of the frescoes from the Teatro Comunale di Ferrara)であるジロラモドメニチーニ(Girolamo Domenichin/1813 - 1891)と、現在のピナコテカ・ナチオナレ・ディ・フェラーラのあるディアマンティ宮(Palazzo dei Diamanti, current location of the Pinacoteca Nazionale di Ferrara)とガレリア・デ・アート・モデルナ(Galleria d'Arte Moderna)で開催されたジョバンニパリアリニ(Giovanni Pagliarini/1809 - 1878)のコースに参加した。

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ボルディーニは早熟な画家であり、父親の家に住んでいたときの彼の最初の絵画のいくつかは今も残っている。特に興味深いのは、16歳のときの彼の「自画像」や、彼が有名になり始めたフェラーラの社会の他の肖像画である。

20歳までは、父親のアドバイスに従い、司祭であった叔父からの小さな遺産のおかげで、ジョヴァンニ・ボルディーニは、周囲の勧めで1862年にフィレンツェ(Firenze)に移り、美術学校に入学し、そこで絵を描き続け、1862年に彼は街の美術アカデミーに通い、ステファノウッシ(Stefano Ussi/1822 - 1901)とエンリコポラストリーニ(Enrico Pollastrini/1817 - 1876)の生徒であり、1868年まで在籍した。

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この学校でジョヴァンニ・ボルディーニは、外光派(Pleinairisme)の画法に傾倒した。

彼はめったにアカデミー・オブ・ファインアーツのクラスに出席しなかったたが、フィレンツェ滞在中、彼は街の芸術家の出会いの場であるカフェ・ミケーランジオロ(Caffe Michelangiolo)に頻繁に行き、そこで彼の切っても切れない友人クリスティアーノ・バンティ(Cristiano Banti)とミケーレ・ゴルディジャーニ(Michele Gordigiani)と一緒に、印象派の前身である「マッチャイオリ(Macchiaioli)」と呼ばれる芸術家のグループに入り、マッキアイオーリとして知られる他の写実的な画家セラフィノ・デ・チボリ(Serafino De Tivoli)、ヴィンチェンツォ・カビアンカ(Vincenzo Cabianca)、ニノ・コスタ(Nino Costa)、ヴィト・ダ・ンコーナ(Vito d’Ancona)、オドアルド・ボラーニ(Odoardo Borrani)、ジュゼッペ・アバティ(Giuseppe Abbati)、ラファエロ・セルネージ(Raffaello Sernesi)、ジョヴァンニ・ボルディーニ(Giovanni Boldini)、ジュセッパ・デ・ニッティス(Giuseppa de Nittis)、ジョヴァンニ・ファットーリ(Giovanni Fattori)、シルヴェストロ・レーガ(Silvestro Lega)、テレマコ・シニョリーニ(Telemaco Signorini)、そして新しいヨーロッパの芸術運動に興味を持っている貴族や中流階級のメンバーなどに会った。

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カフェ・ミケーランジオロ(Caffe Michelangiolo)は、現在も健在である。
Caffè Michelangiolo I Macchiaioli Caffè Letterario, Literary Coffee - カフェ・喫茶
Via Camillo Cavour, 21
50129 Firenze FI
イタリア

+39 055 295264
20:00 まで営業
caffemichelangiolo.com
私はここで、カンパリ。ソーダを飲んだことがある。

さらに、外光派や印象派の技法を探究した結果、彼独自の神経質、スケッチ風、花火を散らしたような画法を確立した。

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しかし、この技法を、最初は風俗画や風景画にのみ適用していたが、後に人物の顔や姿を描く際にも多用するようになると、これについて激しい批判にさらされた。

ロンドンに長期滞在し、肖像画家として成功を収めた後、1872年よりパリに移動したボルディーニは、瞬く間にパリの芸術界や社交界の著名人となり、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler/1834 - 1903)、ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent/1856 - 1925)、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵(Robert Anatole, Comte de Montesquiou/1855 – 1921)、フィリップ・ド・ラースロー(Philip Alexius de László/1869 - 1937)、ポール・セザール・エルー(Paul César Helleu/1859 - 1927)らの芸術家、文人と友誼を結んだ。特にエドガー・ドガ(Edgar Degas/1834 - 1917)とは親友の間柄だった。

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1889年のパリ万国博覧会ではイタリア館の総監督を委ねられ、その功によってレジオンドヌール勲章将校級勲章(Légion d'honneur)を授与された。

米国の雑誌「TIME」の1933年の記事によると、彼が絵画を描いている時の流れのスタイルから、「風を切る音のマスタ(Master of Swish)」として知られていた。

ジョヴァンニ・ボルディーニは、2007年にイタリアの作曲家ロレンツォフェレーロ(Lorenzo Ferrero)によって書かれたバレエ「フランカフロリオ(Franca Florio)」、レジーナ・ディ・パレルモ(regina di Palermo)のキャラクターであり、その並外れた美しさが彼や他の多くのアーティスト、ミュージシャン、詩人に影響を与えた有名なシチリアの貴族ドナ・フランカ(Donna Franca/ベルエポック時代の皇帝/emperors during the Belle Époque)の物語を描いている。

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2010年末、ボルディーニによる、かつてのミューズ(muse)であるフランスの女優マルテ・ド・フロリアン(Marthe de Florian)の肖像画が、50年以上も人の目に触れることのなかった敷地内に隠されていたのが、パリのアパートで発見された。

その肖像画はリストに掲載されたことも展示されたことも出版されたこともなく、そのフラットは女優マルテ・ド・フロリアンの孫娘が所有していたもので、彼女は1966年に父の死後、フラットを相続し、第二次世界大戦勃発後は南フランスで暮らし、パリに戻ることはなく、忘れられていた。

彼女が24歳だった1888年に描かれたこの作品には、ラブノートと伝記が添えられており、その信憑性を確固たるものにしている。ニューオーリンズ美術館(New Orleans Museum of Art)には、同じ服とアクセサリーを身につけた女性の肖像画が展示されているが、挑発的ではない。

70年間空いたままであったアパートでの彼の絵の発見は、ミシェル・ゲーブル(Michelle Gable)の2014年の小説『A Paris Apartment』の背景を形成している。

知的で芸術的なイタリアの街フェラーラ(Ferrara)の緯度、経度。
44°50'17.3"N 11°37'11.2"E
または、
44.838125, 11.619786

フィレンツェのカフェ・ミケーランジオロ(Caffe Michelangiolo)の緯度、経度。
43°46'34.4"N 11°15'24.1"E
または、
43.776222, 11.256697

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