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神を描いたヘブライ語写本。

イスラエルの国立図書館「The National Library of Israel(イスラエル国立図書館)」は2022年08月24日に、「あなたは自分のために、刻まれた像やどんな似姿も作ってはならない。(You shall not make for yourself a carved image or any likeness)」と言う明確な戒律を大胆に破った写本を検証することにしたと報告した。

画家や作家が、神を描くときの参考になるかもしれないので、全文を訳してみます。

https://time-az.com/main/detail/77571

出エジプト記20:2-3(Exodus 20:2-3)
十戒の第二(The second of the Ten Commandments states)には、「あなたは、わたしの前に他の神々を持ってはならない。あなたは自分のために、刻んだ像やどんな似姿も造ってはならない(You shall have no other gods before Me. You shall not make for yourself a carved image or any likeness)」

この戒めの第二部分の従来の理解は、何よりもまず神の姿に関わるものであった。これこそ、選ばれた民を他の民と区別するものではなかったのか。
一神教と多神教を区別するのはこの点ではなかったのか。
伝統によれば、イスラエルの神には、比喩的な意味を除いて、顔も形もない。

もちろん、この包括的な主張には反対で、すでに古代にイスラエルの子らは神々を彫刻していたが、その道具は言葉であったと言う人もいるだろう。聖書は神のイメージで創造された人間について語るとき、神の擬人化で始まり、モーセが神の背中を見たこと、神の怒りが鼻に喩えられたこと(חרון אפו - charon apo)など、神の擬人化のイメージで満ち溢れている。
確かに、マイモニデス(Maimonides)をはじめとするユダヤ教の偉大な賢者や思想家がそうであったように、これは「律法が人間の言葉で語る」典型的な例であると主張することはできる。例えば、タルムード時代(Talmudic period)に書かれたと思われるヘカロット(Hekhalot)やメルカバ(Merkavah)という秘教的な書物には、神が第七天宮の中央にあるカーテンの後ろに立っていると書かれているのだ。
『マーセ・メルカヴァ(Ma’aseh Merkava)(Account of the Chariot/戦車の記)』の目的は、宮殿の中で王を観察すること、つまり、名誉の座に座る神を見ることである。

しかし、最も大胆なテキストは、神の巨大な体格を描写することに特化した作品である「シウール・コマ(Shiur Koma/体の寸法)」である。この本によると、神の右目の瞳孔は数千パルソット(parsot/古代の距離測定法)であり、「一パルソット(parsot)は三マイル、一マイルは一万アマ(amah/キュビット/cubits)、一アマは三ゼラト(zeratot/スパン、ただし単数のゼレット(zeret)は「小指(little finger)」の意) [...] そしてそのゼレット(zeret)は世界全体の幅である」とある。つまり、神の体の大きさや形は、人間の言葉では把握できないのである。

しかし、もしこのように神が言葉で表現されるのであれば、ヘブライ語の写本は、神の像を作るという聖書の禁忌をどのように扱ったのだろうか。また、その禁忌を無視したものもあったのだろうか。まず、禁忌を回避する方法から見てみると、ヘブライ語写本の文脈では、神を表現するいくつかの伝統的な方法があり、その第一は神の手のイメージの描写である。中世のヘブライ語写本では、アブラハムが火のかまどから救い出される場面で、神の手がよく登場する。

また、それ以前にも、シリア南東部のドゥラ・エウロポスのシナゴーグ(synagogue of Dura Europos/3世紀)や、イスラエル北部のベトシェアン近郊のベイト・アルファのシナゴーグ(synagogue of Beit Alpha, near Bet She’an in northern Israel/6世紀)に、シナゴーグ美術(synagogue art)として描かれている例がある。

ユダヤ人の祖先であるアブラハム(Abraham)は聖書に登場する人物であるが、ニムロド王(King Nimrod)の命令で火の燃える炉に投げ込まれたところを助け出す話は、ミドラッシュ(Midrash)の『ベレシテ・ラッバ(Bereishit Rabbah)』や『バビロンのタルムード(Babylonian Talmud)』に登場し、聖書には出てこない。

しかし、この物語は挿絵画家たちの想像をかき立て、ヘブライ語の写本にはいくつかのバージョンが見られる。

しかし、このような大胆な絵柄でも、バルセロナ・ハガダー(Barcelona Haggadah)の例のように、神の手の代わりに天使を登場させることもあった。この場合、アブラハムと炉に関するミドラッシュの別の側面を強調するために、イラストレーターは、アブラハムが火の中に投げ込まれたとき、無傷だっただけでなく、天使と座って会話することさえできたというエピソードを選んでいる。

また、聖書の本文に忠実に、「涼しい時間帯に庭を歩く神の声」を表現したのが、先に紹介した二つの写本と同じ世紀に書かれ、彩色されたサラエボ・ハガダー(Sarajevo Haggadah)である。

この壮大なハガダは、その名前とは裏腹に、おそらく1350年頃にスペインのバルセロナで書かれたものと思われる。このハガダは、サラエボ市内のボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館(the city of Sarajevo at the National Museum of Bosnia and Herzegovina)に展示されている。


サラエボのハガダには、アダムとイブがマンガを思わせるようなイラストで描かれている。

まず、右上にアダムの肋骨からイブが作られ、その直後にアダムがイブと蛇が見守る中、禁断の木から食事をするシーンがある。
右下のアダムとイブは、自分たちが裸であることに気づき、イチジクの葉で身を隠している。
そして、最後の左図は、二人がエデンの園から追い出される場面である。

イブは服を着ており、アダムは汗を流して土を耕している。

右下の絵では、アダムとイブが自分たちが裸であることに気づいて身を隠しているが、鋭い観察眼を持つ人は、左側の木の上から光線が発せられていることに気づくだろう。

作者は、聖書の一節をよく読むことで、神を描くための興味深い妥協点を見出したのである。「そして彼らは、涼しいうちに庭を歩く神の声を聞いた。『汝はどこにいるのか?』神はアダムに尋ね、アダムはすぐに説明する。『園であなたの声を聞き、私は裸だったので恐れて、身を隠した』サラエボ・ハガダーの作者不明のイラストレーターは、神の声を天の光として視覚化している。

サラエボのハガダが登場する30年ほど前、1320年頃に、同じくカタルーニャ(Catalonia)で、過越祭のハガダが書かれ、絵が描かれました。このハガダは、全322ページのうち128ページが金色の背景で飾られていることから、「黄金のハガダ(Golden Haggadah)」と呼ばれている。この写本も冒頭に聖書の場面を描いたイラストが描かれている。

2枚目のイラストには、以前サラエボのハガダで出会った、アダムの肋骨からイブが創造されるシーンと、"善悪を知る木(tree of the knowledge of good and evil.)"の実を食べるシーンが描かれている。その絵の上には、「アダムとその妻は裸(Adam and his wife naked.)」と書かれている。しかし、ここで驚くべきは、アダム、イブ、蛇という3人の罪人を諭すために、雲の中から現れた人物が描かれていることである。これは神の姿ではなく、天使の姿であり、合理的な選択であるとさえ言える。これは聖書のもう一つの物語、ヤコブが神の天使と格闘し、その天使が神そのものであることを示す物語を思い起こさせる。

しかし、神の擬人化について最も明確かつ不可解な例は、18世紀にコルフ島で書かれたヘブライ語の彩色写本にある。チューリッヒのブラギンスキー・コレクション(Braginsky Collection in Zurich)に保存されている『ピユティム・レ・ハタン(Piyutim Le’Hatan)』(花婿のための典礼讃歌/Liturgical Hymns for the Bridegroom)と題する写本には、多くのピユティムや詩のほかに、創世記のさまざまな場面をグワッシュで描いた60枚の挿絵が含まれており、ベニスで学んだであろう才能ある画家の手になるものであった。

王冠をかぶったこの人物は、一見すると、詩篇8篇4節(Psalm 8:4)の「あなたの天、あなたの指のわざ、あなたがお造りになった月と星を見るとき(When I behold your heavens, the work of your fingers, the moon and the star, which you have made.)」のように、創造の驚異の前に立つダビデ王(King David)と見間違うかもしれない。もしダビデでなければ、伝統的にダビデ王の子孫である待望のメシア(Messiah)を描いたものと解釈することもできる。

しかし、3枚目の図版では、もはやこの人物がダビデであることに間違いはない。ユダヤ人の賢者や聖書注解者たちは、創世記の初期の章について多くのことを語っているが、アダムの肋骨からイブを創造したのがダビデ王やメシアであるとは、決して言っていない。

5番目の図は、エデンの園から追放される前のアダムとイブを諭すように描かれており、この人物が神であることを疑う余地はない。

このようなあからさまな第二の戒律の違反が、実践的なユダヤ人の間でどのように合理化されたのであろうか。

この写本の所有者は、次に述べる例とは異なり、創世記の57枚の挿絵(そのほとんどがヨセフの生涯を描いたもの)のうち、問題のある3枚の挿絵を削除したり隠したりしようとはしなかった。それどころか、それぞれの絵の下には、対応する聖書の一節が挿入されている。

もう一つ興味深いのは、図版の順序が本文と逆になっていることである。つまり、「神が天と地(と太陽と月)を創造した」という最初の挿絵は、原稿の最初ではなく、最後に描かれている。これこそ、私たちが求めていた手がかりではないだろうか。この絵は、本の中で左から右へ並べられるよう意図されており、挿絵画家はキリスト教徒で、明らかに原作者のユダヤ人とは密接に仕事をしていなかったことがわかる。

また、キリスト教の画家が独自に挿絵を描き、その後、ユダヤ人が買い取り、後から文章を書き加えた可能性もある。

そうすると、挿絵の下にヘブライ語のキャプションがあり、挿絵と本文が無関係であることが説明できる。挿絵はすべて聖書からの引用で、本文は花婿のための典礼的な賛美歌である。

次に、聖書の禁止事項に違反することが見過ごされなかった逆の例もある。

1984年、ハンガリー科学アカデミーに所蔵されているマイモニデスの『ミシュネ・トーラ』写本の聖書挿絵(biblical illustrations in a manuscript of Maimonides’ Mishneh Torah in the David Kaufmann Collection at the Hungarian Academy of Sciences)を研究していたエヴリン・コーエン(Evelyn Cohen)は、ある不可解な点に気がついた。モーゼがイスラエルの民に契約の板を渡す場面で、彼女は、後の修正で消され、覆い隠された人物の跡を見つけたのである。

ユダヤ人最大の思想家マイモニデス(Maimonides)の没後90年に書かれた『ミシュネ・トーラ(Mishneh Torah)』初の絵入り写本には、確かに神がモーセに律法の石版を与える姿が描かれている。しかし、その絵は消されており、右手に律法の板を持つ手、左手にモーセが描かれているだけなので、区別がつかない。この手はもともと栄光の神の像があったようで、それが覆い隠され、山になった。ここでも、コルフ島出土の写本と同様、作者はキリスト教徒で、彫像や肖像を作ることを禁じられていることを知らなかったのだろう。あるいは、キリスト教にもこの禁忌は存在するので、その意味を違った形で解釈した可能性もある。

言い訳はいつでもできる。キリスト教の影響を受けたということもできるし、ユダヤ教の哲学者であるラビ・サーディア・ガオン(Jewish philosopher Rabbi Saadia Gaon)が主張したように、神の栄光が問題なのであって、神の肉体ではない、神は形あるものを持たないし、持つこともできないからだ(God’s glory and not his body, as God does not and cannot have tangible form)、ということもできる。それはともかく、私たちは今、神の像が確かに創造されたいくつかの例を見てきた。

実際、カバラの理論に関連するイラストである限り、様々な抜け穴があり、何世紀にもわたって神の姿を芸術的に表現することが可能であった。セフィロトの視覚化(Visualization of the Sefirot)は、ユダヤ教の伝統では常に許されてきた。

たとえそれがアダム・カドモン(Adam Kadmon /原初の人)の姿を含む場合でも、カバラによれば、アダム・カドモンは、神がアインソフ(Ein-Sof/無限)から抽出した四つの世界(存在の下降連鎖における霊的領域)の最初のものである。つまり、アダム・カドモンは神とは別の存在ではなく、神格そのものを構成する存在なのである。

従って、単純化しすぎるかもしれないが、これは唯一の真の神の像である。

違うか?

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