見出し画像

ヘンリー・ハドソンが西洋人で初めてマンハッタンを見た。

ArtDailyは2021年09月11日に、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson/1565 - 1611)がThe Half Moonで到来し、西洋人で初めて1609年09月11日に、マンハッタンを見たと報告した。

ヘンリー・ハドソンという名前が多いことから、米国では「The Explorer」として知られている。

2019年までは、1609年09月12日であったが、2020年には1609年09月11日に修正された。

ヘンリー・ハドソンは1575年09月12日にイギリス、スタフォードシャー州タムワース(Tamworth, Staffordshire, England)で、ヘンリー・ハドソンII世(Henry Hudson, II/1541 - 1584)とキャサリン・ハドソン(Katherine Hudson/1543 - 1624)の子として生まれている。

兄弟は、義兄弟のウィリアム・ハドソン2 世(William Hudson, II/1560 - 1630)、
ジョン・ハドソン(John Hudson/1565 - ?)、
トーマス・ハドソン(Thomas Hudson/? - ?)

ヘンリー・ハドソンは、アグネス・タイトン(Agnes Taiton/1533 - 1591)と最初に結婚し、キャサリン・ハドソン(Katherine Hudson/1572 - 1624)と再婚し、
ウィリアム・ハドソン3世(William Hudson III/1575 - 1630)、
スティーブン・ハドソン(Stephen Hudson/1563 - ?)、
ジォアン・ハドソン(Joan Hudson/? - ?)、
ジョン・ハドソン(John /1560 - ?)、
リチャード・ハドソン(Rachel Leigh Hansen? - 1644)
ロバート・ハドソン(Robert Hudson/? - 1644)
オリバー・ハドソン(Oliver Hudson/? - ?)他7名の父である。

https://time-az.com/main/detail/15006

そして、その日はまた、同時多発テロが行われた2001年の日と重なった。
そして、911は、米国の緊急電話番号でもある。

歴史のない国は、こうして歴史が修正され、作られていくのかもしれない。

しかし、歴史学的には何も意味がなく、単に偶然の積み重ねである。

ただし、コロンブスに関しては、インドと誤解していたがアメリカ大陸を発見した2年後に、発見報告書スイスのバーゼルで出版され、今も原本がバーゼルの紙の博物館にあるが、ヘンリー・ハドソンに関しては、残っているものが少ない。

19世紀後半から20世紀前半に活躍した歴史画家ジーン・レオン・ジェローム・フェリス(Jean Leon Gerome Ferris/1863 - 1930)が、1895年までに、彼は歴史的な画家としての評判を得て、歴史的な物語を伝える一連の絵画を作成するという彼の夢に乗り出した。多くのアメリカの歴史を描いて、あたかもそれが真実のように修正した。

1898年に彼は、1777年のハウ将軍の堤防(General Howe's Levee, 1777)を売ったが、彼は後で別々の絵を一緒に保つことができなければそのようなシリーズが完了することができないことに気づいた。

その結果、彼は別のものを決して売らず、彼は様々な出版社に複製権を売った。

これらの会社は、広告で使用するためにプリント、ポストカード、カレンダー、および裏紙付きの名刺を作成したため、彼の作品を大いに普及させる効果であり、これらの作品のラミネートされたカードは、1984年の時点でもまだ販売されていた。

しかし、そこに足掻かれたものは全て、ジーン・レオン・ジェローム・フェリスが頭の中で描いた風景であった。

つまり、そのほとんどは真実ではない。それがアメリカの歴史である。

それは、NHKの大河ドラマが真実と信じるのに似ている。

日本には、それでも多くに曖昧な文献が残されていたが、アメリカにはそれもない。

どこを掘っても人骨が出てくるロンドンと、どこを掘っても何も出てこないニューヨーク。
いや、コロナ以降、あるところを掘ると膨大な骨が出てくる歴史的な場所ができた。

この何年間は、歴史的な事件が増えた。

ヘンリー・ハドソンは1607年に、モスクワ大公国との貿易を独占するイングランド最初の勅許会社モスクワ(Muscovy Company)に雇われた。

この会社の設立目的は、大航海時代の一つとして、シベリア沖の北極海を通ってヨーロッパと中国を最短で結ぶ北東航路の探検であった。

当時は、夏の3ヶ月間に、太陽が沈まないので、北極圏の氷が溶け、イングランドから北極点を通って太平洋のモルッカ諸島へ直行できる海路が開けるだろうと信じていた。

1607年にヘンリー・ハドソンは北極海に向かって80トンのホッペベル(Hopewell)号船出したが夏でも融けない厚い海氷に閉ざされて先に進めず、1607年09月にイングランドに戻ってきた。

1608年には、北東航路に再挑戦するためロシア北方に出港した。ノヴァヤゼムリャ(Novaya Zemlya)の付近まで達したが、厚い氷で再びイングランドに帰らざるを得なかった。

1609年には、オランダ東インド会社(Dutch East India Company)に雇われ、アメリカ大陸の北を周ってアジアに向かう北西航路を発見するため、ハーヴ・ミーン号(Halve Maen/The Half Moon)で大西洋横断航海に出た。

以前の航海者がすべて氷で行く手を阻まれたことから、ジェームズタウンのヴァージニア植民地が建設されたことを聞いた彼は、北米中央部から太平洋へ出る航路を探すことにした。

ハーヴ・ミーン号はチェサピーク湾(Chesapeake Bay)とデラウェア湾(Delaware Bay)周辺を航海したが、これらの湾は太平洋にはつながっていないことが分かった。彼はその北にあるニューヨーク湾へ入りハドソン川(Hudson River)を遡り、オールバニー(Albany)にまで達したが、これより先は川幅が狭いため戻らざるを得なかった。

ハドソン川の探検で、ヘンリー・ハドソンはモヒカン族やワッピンガー族など多くのアメリカ先住民と交易を行い、貝殻、ビーズ、そしてビーバーやカワウソの良質の毛皮を得た。

オランダはこの航海をきっかけに毛皮交易を始め、この地域への権利を主張するようになる。

こうして1625年にニューネーデルラント(New Netherland)が誕生し、ハドソン川河口の島マンハッタンに首都ニューアムステルダム(New Amsterdam)が建設された。

1565年頃---ヘンリー・ハドソン、イギリスで生まれる。
1577年頃---ヘンリー、キャビンボーイとして海上生活を始める。
1591年頃---息子ジョンが生まれる。母親はキャサリン(Katherine)と呼ばれていたと思われる。彼女とハドソンは他にオリバー(Oliver)とロバート(Robert)の2人の子供をもうけた。
1607年初期---イギリスのマスコヴィー(Muscovy)社は、アジアへの有名な北西航路の探索をハドソンに依頼した。バフィン湾(Baffin Bay)からカナダ北部を横断し、ベーリング海(Bering Sea)を通るルートが見つかれば、ヨーロッパからアジアへの航行時間が大幅に短縮されるはずであった。ハドソンの祖父は、この会社の創設者の一人であったと思われる。
1607年05月01日---ハドソンが船長を務めるホープウェル(Hopewell)号が、10人の乗組員とともにイギリスを出発。ハドソンの息子ジョンも航海に同行した。
1607年06月14日---ホープウェル(Hopewell)号はグリーンランドに到着し、東海岸を北上する。
1607年07月27日---し、南へ向かわざるを得なかった。
1607年09月15日---ヘンリー・ハドソンはティルベリー(Tilbury)に停泊し、イギリスへ帰国した。
1608年初頭---ハドソンは、東インド(East India)会社とマスコヴィー(Muscovy)会社のイギリス商人たちから、ロシアの北を航行するアジアへのルートを見つけることができないか、と勧誘を受ける。
1608年04月22日---ヘンリー・ハドソン、息子のジョンと14人の乗組員は、ホープウェル(Hopewell)号でロンドンを出航した。
1608年07月---ザムルヤ(Zemlya)に到着するが、流氷に遭遇して引き返す。
1608年08月26日---ハドソン号はイギリスに戻り、グラーヴセンド(Gravesend)に停泊した。
1609年---オランダ東インド会社は、アジアへの北西航路を探すためにヘンリー・ハドソンを雇う。彼はロシア北部のルートを探すよう指示された。
1609年04月06日---ヘンリー・ハドソンがハルヴェ・メーン(Halve Maen)号(Half Moon)でアムステルダム(Amsterdam)を出航。
1609年05月中旬---前回の航海と同様、ハドソンは北へ向かったが、流氷によって航路が塞がれた。ヘンリー・ハドソンはアムステルダムに戻るよりも、西へ航海し、北アメリカを通るルートを探すことにした。
1609年07月02---ハルヴェ・メーン(Halve Maen)号はニューファンドランド(Newfoundland)に到着。
1609年07月中旬---ハドソンとハルヴェ・メーン(Halve Maen)号は南下を続け、壊れたマストを修理するために停泊しているノバスコシア(Nova Scotia)州に到着した。
1609年07月25日---ハドソンの乗組員たちはマスケット銃(muskets)で武装して上陸し、近くの村に近づいた。彼らは原住民と交易をする代わりに、彼らを村から追い出し、動物の毛皮やその他の品物を盗んだ。
1609年08月04日---Halve Maen号はケープ・コッド(Cape Cod)に到着し、さらに南下した。
1609年09月03日---ハドソン号はチェサピーク湾(Chesapeake Bay)に到着したが、その後北上し、デラウェア湾(Delaware Bay)を過ぎてノースリバー(North River /現在のハドソン川/Hudson River)へと航海していた。
1609年09月11日---ハルヴェ・メーン(Halve Maen)号はハドソン川を遡上し始めた。
1609年09月21日---ハドソン川を10日間遡上し、このルートはアメリカを通過するものではないことが明らかになった。ハドソンは船を反転させ、ヨーロッパに戻るために航海した。
1609年(11月7日)
ヘンリー・ハドソンはイギリスのダートマス(Dartmouth, England)に停泊した。彼の船は、ハドソンが他国のために航海を引き受けたことに怒ったイギリス当局によって押収された。
1610年初頭---ヘンリー・ハドソンは、バージニア会社(Virginia Company)とイギリス東インド会社から、北西航路を探すための再度の航海を支持される。今度はアメリカ大陸の北を探索することになる。
1610年04月17日---ハドソンとその息子ジョン(John)、乗組員が「ディスカバリー号」で出航。
1610年05月11日---ディスカバリー号はアイスランド(Iceland)に到着し、グリーンランド(Greenland)に向けて出航。
1610年06月04日---ヘンリー・ハドソン、グリーンランドの南を通過。
1610年06月25日---「ディスカバリー号」はラブラドール(Labrador)の北を通過し、現在ハドソン海峡として知られている場所に入る。
1610年08月02日---ヘンリー・ハドソンは大きな湾(ハドソン湾)に入り、北西航路を発見したと信じた。彼は海岸に沿って航海を始め、この地域の地図を作成し、アジアへの通路を探した。
1610年11月---ジェームズ湾(James Bay)に到着した「ディスカバリー号」は氷に閉ざされ、乗組員は氷が溶けるまで避難するために上陸した。
1611年春---ハドソン湾(Robert Juet)の氷が解け、北西航路の探索を続けることができるようになった。しかし、ハドソン号の乗組員は帰郷を望み、反乱を起こした。
1611年06月22日---ヘンリー・ハドソンと乗組員の対立は、ロバート・ジュエット(Robert Juet)を降格させたことで悪化し、ハドソンは反乱に直面することになった。乗組員は「ディスカバリー号」を掌握し、ハドソンとその息子、そして船長に忠誠を誓った7人の乗組員を小さなオープンな手漕ぎボートに乗せ、いくつかの食料を持たせた。
その後、「ディスカバリー号」は故郷へ向けて出航した。
1611年06月23日---ヘンリー・ハドソンと小舟で漂流した人々が目撃されたのは、この日が最後となった。
1611年10月---ディスカバリー号はイギリスに戻った。ディスカバリー号は英国に戻る。乗組員のうち、帰路に生き残った。
彼らは逮捕されたが、無罪放免となった。

マンハッタン発見400周年であった2009年09月12日には、出版社のAbramsが、現在のニューヨークができるまでの自然史を1冊にまとめた「A Natural History of New York City(ニューヨークの自然史)」という本を出版した。

ヘンリー・ハドソンが何を見たか?について、風景エコロジスト(Landscape ecologist)のエリック・サンダーソン(Eric Sanderson)が当時を歴史的、考古学的な記録資料からエコロジーの現代の原理を適用して分析し、現在では何100万人も生活するビル群になっているマンハッタン島をコンピュータ・モデリング技術を利用してワイルドな1609年頃を再現している。

そして、18世紀のマンハッタン風景の地図を現代の都市景観に合わせることによって、エリック・サンダーソンはタイムズスクエアの森林、ハーレム草地と街の沼沢地に作り直している。

それは、今のマンハッタンを頂点に、次世代に自然のマンハッタンに返った場合の未来なのかもしれない。

Mannahatta
A Natural History of New York City
Mannahatta
see larger photo

Authors: By Eric W. Sanderson, Illustrations by Markley Boyer
Imprint: Abrams Books
ISBN: 0-8109-9633-2
EAN: 9780810996335
Availability: In Stock
Publishing Date: 5/1/2009
Trim Size: 7 1/2 x 10
Pages Count: 352
Cover: Hardcover with jacket

マンハッタン島のGoogle Earthポインター情報
40°42'51.7"N 74°00'23.3"W
または、
40.714367, -74.006464

2018-08-16---アムンゼンの船、100年ぶりにノルウェーへ帰還!
2013-12-01---ニューヨークの列車衝突。脱線、転覆。
2010-01-24---2010年から2015年に、21世紀の宗教改革が起こる。
2001-09-11---米国同時多発テロが起こった!
1906-08-31---アムンゼンが北極北西航路横断に成功。
1884-06-16---アメリカで最初のジェットコースターがオープンした。
1863-08-18---アメリカの画家ジーン・レオン・ジェローム・フェリスが生まれた。
1664-09-08---マンハッタン島をイギリスがオランダから奪い取った。
1664-09-08---ニューアムステルダムが、ニューヨークに改称された。
1611-06-22---ハドソンは、暴徒のために漂流し、決して再び見られなかった。
0000-09-11---西洋人がマンハッタンを初めて見た記念日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?