死を語る。

重いタイトルで始めてしまいましたが、いつも心の中はこんな感じです。巣です。
ところで、皆様は「死ぬのに失敗したこと」はありますか。
私は、5回ほどあります。一度目はリストカットしたとき(手首を切る勢いでないと死ねない)、首を吊った時(発見される)、飛び降りたとき(落ちた後にすぐ発見される)、ODした時(病院なのですぐさま胃洗浄される)、ODした時(薬の数が少なくてどうやら気絶で終わってしまった) です。

死は、クリエイティブな話を考えられる方なら確実に遭遇する事象だと思います。登場人物が死んだり、またはその過程を悲劇さながらに書いたりするかたもいるのでしょう。私は、それが、すごく実は苦手です。
大きな声では言えないのですが、死がチープに感じてしまうからです。

死んだ(けど助かった)ことがない、死のうと思ったことがない人にとっては、死という事象は非常に悲しくて壮大でテーマ性があるのだと思います。大きな傷を受けて死を決意したり、耐え切れなくなって死を決意したり。物語の中での死の’動機’というものが、非常に、美化されがちだなぁと昨今思うのです。

では実際、死ぬのってどういう感じか。死にたいと思うのはどういう感じかというといろんなことが考えられます。私は医師によると「躁的防衛」で死のうとしたことがあるそうです。不安な感情を押し込めて相手を意のままにできる!というテンションが上がった状態で「私が死ねば母親が改心する!父親は捕まる!弟は幸せになれる!友達だって大事にしてくれる!恋人だって私を愛してくれる!」という気分になり、飛び降りてしまったことがあるそうです。
お分かりかと思いますが、死ぬときに希望を見出して死のうとするんですよね。
だから父親も母親も友人も「そんなことを考えているなんて思ってなかった!」と言います。私も、言わないです。このときの私にとって死ぬことは切り札です。確実に関連した人間に大きなダメージを与えることができるから、という理由ですが。

死のうとする側の人間は、たいてい希望があるんだと思います。死ねば助かる、死ねば逃げられる、死ねば誰かに一矢報いることができる。
そうじゃなければ、死ぬという行為をしません。メリットを追い求めるのが生き物として当然だと私は思います。(人間以外の生き物が自死を考えるかというとそうではない、という自論でしかないのですが)
だから、よくありがちな幸福な人が考える「もうつらい、死んじゃいたい」は死ぬことに至らないのです。「もうつらい、死んじゃいたい。(でも頑張ろう)」でしか無いんです。その人たちが考える創作物での死が私にとっては「死ぬほどのことじゃ無いよね?」と思ってしまう。
確かに、人によってダメージは様々です。でもダメージを受けた時の対応の仕方、苦しみ方というのはある程度規則性があるように感じます。
わたしが大抵苦手とする創作物の登場人物は、悲しい事象に直面すると素直に死にたがってしまうのです。いやいやいや、そこは「逃げたい」でしょう!?と思うわけですね。
逃げたい、正当化したい、怒りたい。わたしのように解離したり、心を殺したり、ハイになったりする段階のもっと前です。死に至る前に最初のダメージから生物として逃げるはずの過程がない。

だから、チープだなあと感じてしまうんだと思います。誤解されないよう記述しておきますが死は救いではないです。自死は自己満足の害悪です。認められるべきではない禁忌です。死ぬことは自分の体が肉の塊になるだけという冷たいものです。
ただ、自死に至るまでの過程、苦しみ、悲しみはどんな言葉でも表現できないでしょう。私も自分の「死ぬほど」の傷には触れませんし認識できません。だから作品にも言語にもできません。死のうとしたことはダメージではないのです、死に至る傷が、いつまでもダメージになるのです。認識できない、深く深く、小さいのか大きいのか傷口がわからない傷が苦しいのです。
だから、死ぬことをテーマにできるのは幸せな人間だけで嫌になってしまうのです。だって死ぬ痛みを持った人間が死に向き合えていたら、そもそも病じゃないんですから。

そりゃそうですよね、死ぬ痛みにロマンを感じている作品は傷と向き合えないまま抱えたわたしには眩しすぎる。これからも幸せな人間が書いた美しすぎる死に痛めつけられて死を考えることにします。

死は決して作品に出来るほど美しいものでは無い。表現できるほど美味しいものでも無い。
もっともっと汚泥のような苦しみです。

今日も悟られずに死人は明るく生きていきましょうね。

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