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だいすきなきみへ 2023

 朝、自転車にまたがって、最寄り駅までを漕いでいく。まるい太陽がだんだんと、やわらかく空を満たすようになって、今年もきみの季節がやってきた。

 きみの声を形容することばをずっと探していると昨年のnoteに書いたのだけれど、へチャンさんがきみの声を光みたいだ、と言っていて、ようやく答えが見つかったと思った。きみの声は光だ。ほんとうにその通りだと思う。寒くてながい夜を超えていくためのひかり、夢が怖くなくなるひかり、雪の積もったつめたい道をみちびき照らすためのひかり。きみの声というやわらかな灯火が、丘の上にたつ一本の木を包み込んで輝く想像をいつもする。きみの歌を聴くとき、上質な絹でずっと包み込まれているような感じがするのだ。これだけを信じていればいいのだと思う。

 NCT DREAMが2022年に出したリパッケージ・アルバム、「Beatbox」がわたしはほんとうに好きなのだった。わたしにとってどりぃむの音楽は、振り返るといつもそこにいて、いつでも戻っておいでよ、焚き火は燃やしておくからさ、とわらっていてくれているようなあたたかさをもつものだ。それでいてどりぃむの七人は、きっと地平を追い越しながら走っていって、青い空がどこまでも眼下に広がる崖の上に立っていて、わらいながらひかりかがやく水平線に飛び込んでいくようなひとたちだ。夢を叶えてつかんで抱きしめているために、その夢さえも燃やしてきらめいてしまいそうなところがあるひとたちだ。そういうのが儚さや屈強さやその他もろもろ彼らを構成する芯の部分をいつまでも深く穿つから、わたしの目にあの7人は、どんなに強いひとたちだとわかってはいてもまぼろしみたいに見えている。そのまんなかで、きみはいっとうとうめいだ。

 舞台に立つきみの姿を見るとき、とうめいだなあ、といつも思う。そのまま空へとのぼっていってしまいそうな。虹に溶けてしまいそうな。純粋や無垢なだけではなくて、淡くこの世を儚んでいるみたいな、陽が落ちてすぐの水平線のような翳りのある姿がとても好きで、それから、切ないな、と思う。星から落っこちてきたみたいなひとばかり好きになるけれど、そのなかでもきみはなんだかとくべつだ。いつか何も言わないままにどこか遠くへ帰って行ってしまいそうで、それなのにきみはどこにも行かないでなんて言いながらひかりの真ん中で泣いているから、きみのことを忘れることなんてきっとできやしないのだ。

 この世のきれいなものぜんぶからきらきらひかるかけらをちょっとずつ集めて組み立てたらきっときみの姿をしている。葛藤とか不安とか挫折とかたくさん、それはもうたくさん、わたしには到底理解できるわけもないし開示されることもないたくさんのいろいろなものがきっと、きみの人生にはあるだろうと思う。きみの人生をぜんぶ見たいだなんて思わないし、思いたくもない、けれどそういう苦悩すら全部、いまここにあるひとにぎりの幸福と混ぜ合わせてきらめきに変えてしまうきみのひとみに、いつだってたぶん救われている。わたしはわがままだから、きみにずっと祈りを託している。こんなクソみたいな世界のなかで、「ほらまだもう少し生きてみようよ、世界はこんなにもうつくしいよ!」という祈りを託している。信じられるものがまだあるのなら、その証明を見せてほしいと願っている。わたしが信じられないあらゆることを、それでもきみには諦めないで、なにもかもからひかりを拾い上げてほしいと思っている。もちろんぜんぶわたしが勝手に信仰して勝手に救われてるだけだから、きみはそんなこと知らないままで、なにもかもから自由なままで、どこまでも羽ばたいてほしいのだ。

 わたしがきみのことをよく星とかひかりの集合体みたいにたとえるのは、わたしにとってきみというひとが、どうしようもなくこれにはなれないだろう、こんなにも強くはなれないだろう、こんなに切実なきらめきに身を燃やすことはできないだろうと思いつつ、それでもどうしても焦がれてしまう存在だからだと思う。命を削りながら星に手を伸ばす果てしない旅人のような、いつか燃え尽きるとわかっていても夢のようにうつくしい尾を引いて太陽へと落ちていく彗星のような、きみがいるならそれだけで、それだけでなにもかも大丈夫だろうと思えるのだ。

 お誕生日おめでとう、ロンジュンさん。いつか永遠に近い強度で、きみが好きだと言える日が来るといいなと思っている。

 


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