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ザキング 永遠の君主 33.「止まった時間の中で」

台所いっぱいに香ばしいテンジャンチゲ(※)の香りが広がった。
チゲのほかにも、食卓の上にはキムチや海苔、豆もやしのナムル、煮卵など…平凡だが美味しいおかずがたくさん並んでいた。
チョン館長はスプーンでチゲのスープを一口すすると、呆然と料理を眺めている娘を急き立てた。


「 いや〜やっぱり手作り味噌だな。芸術的なチゲだ。」


テウルが大韓帝国に拉致されてから、ルナはイ・リムの言葉通りその場を手に入れていた。
ルナは揺れる瞳でじっとチョン館長を見つめた。
チョン館長はそんな娘の様子をいぶかしがった。


「 なんだその目は。 おかずが不満か?煮卵まで作ったんだぞ、今日のラインナップは最高じゃないか!」




「 ……父さん 」


口がうまく回らなかった。
「 父さん 」という言葉を発音したことはあっただろうか。
誰かと向かい合って食事をすること自体が不慣れだった。

今日に限って娘の様子がおかしい…
ルナを見るチョン館長の目には心配の色が滲んでいた。


「 なんだ、どうした?」

「 私って……いい娘?」


テウルらしくない唐突な質問に、チョン館長は空々しく即答した。


「 もちろん!月に一度は間違いなくいい娘だ…毎月29日の給料日!あと1週間〜〜♪♪ 」


チョン館長が得意気に歌いながら答え、席から立ち上がった。


「 食べたら食器は流しにつけておけ。父さんは出かけてくるからな!」


慌ただしくチョン館長は家を出ていき、ルナは湯気の立ちのぼるチゲを見つめながらスプーンを取った。
初めて「家」と呼ばれる場所で食べるテンジャンチゲはとても美味しかった。
鼻の奥がツンとし、少ししょっぱいような気もした。
食事が終わると、ルナはテウルの部屋に入った。
部屋の中を見回したルナは机の上の本と写真を盗み、クローゼットの服を確認した。
そして大きなライオンのぬいぐるみが占領しているベッドを見下ろすと、ぬいぐるみを白い床に投げつけその場に寝転んだ。

ふかふかのベッドも、ルナが持ったことのないものの一つだった。
同じ顔をしたテウルから享受したものは、ルナが一生を通して一度も持ったことのないものばかりだった。
光の近くに来たことで、自分がどれほど深い闇の中にいたかを悟った。
ルナは傷ついた顔で天井を見上げた。
古い夜光シールで描かれた星座が、天井に張り付いていた。


「 ふたご座なんて………縁起でもない。 」


ルナは勢いよく身を起こした。




※テンジャンチゲ…牛肉、アサリ、煮干などでとった出汁に豆腐や野菜の具材を入れテンジャン(韓国味噌)を加えて煮立てたチゲ。母の味と言える最もポピュラーな韓国家庭料理のひとつ。






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蓮池が見渡せる東屋の前で、ゴンは後ろ手を組んだまま静かな水面を眺めていた。
風が吹くと小さな波が揺らめいた。

ゴンが全ての仕事を終えても、テウルは帰って来なかった。
ゴンは宮殿の入り口に作られたこの東屋でテウルを待っていた。
離れて一日も経っていないというのに、早くテウルに会いたくて仕方がなかった。
それぞれの世界にいた時はなぜあんなに長く離れていられたのか…
信じられないほど1分1秒が惜しかった。
許された時間が限られているせいで、余計に時間の流れが切迫しているように感じるのかも知れない。

一方その後ろでは、携帯を耳に当てたホピルがテウルに同行していたミルクを急かしていた。
ゴンが待ち続けていたので、付き従うホピルも気が気ではなかった。


「 セジュ門が見えると言っていたのに何してるんだ急げ…!お客様をお前がおぶって走るんだ!!」


幸い、ちょうどテウルとミルクが遠くから走ってくるのが見えた。


「 近衛隊はここで待機せよ。」


命じたゴンは走ってくるテウルの元へ歩き出した。
遅れたことに対しミルクはゴンに頭を下げた。
構わないから行って良いというゴンの目配せに、ミルクは急いでその場を離れた。


「 心配したじゃないか。 近衛隊員まで帯同してどこに?電話にはなぜ出ないんだ。」


全力で走ってきてようやく息をついていたテウルは、ゴンの問いに呆れて答えた。


「 私が電話を取る暇もなくあの人の電話が1000回は鳴ってたけど!?心配すると思ったから警護を連れて行ったのに…!」


テウルの答えに、ゴンは決まりの悪そうな顔で笑った。
それを見るテウルの口元にも笑みが浮かんでいた。
近衛隊から離れた二人は東屋を回り、銀杏の木のある中庭へ向かった。
テウルは声を潜めた。


「 イ・リムの竹林が見つかるかも。」


拉致されたとき、薬が切れて何度か目覚めた時があった。
時間が経つにつれて、その時の記憶が少しずつ思い出された。

塩田倉庫に到着する前…塩田倉庫に向かう道中の記憶だった。
かすかに甘い綿菓子のような匂いがした。
探してみると、近くにカシアの木の群生地があった。


「 覚えてる手がかりがあって探してみたんだけど、私が一瞬目を覚ました森を見つけたの。その近くに竹林があるかどうかはこっちのチャンミが引き続き探してくれることになった。」


この日テウルに同行した近衛隊首席訓練生ミルクの苗字はチャンだった。
強力3チームのチャン・ミカエルと同じ顔をしていた上に、ニックネームまで同じだったのがなんだか不思議で、彼は大韓民国のチャンミよりも頼りになった。


「 見つかったら竹林の前を見張ればいいでしょ?」


テウルがそこまで言ったところでゴンは立ち止まり、じっとテウルを見つめた。


「 ……何?違うの?」


既にテウルが多くを悟っていることに、ゴンは気づいていた。
これ以上テウルに隠すことは何もなかった。
それでも、悲しい話は自分の中だけに留めておきたかった。
そうするわけにはいかないと知りながら…
ゴンは複雑な思いで口を開いた。


「 次元の扉が開いた瞬間、時間が止まるんだ…。回を重ねる度に止まる時間も長くなっている。」


その間にもイ・リムは何度も次元の扉を開け閉めし、ゴンは止まった時間の中で長い間一人きりだった。


「 ……今では1時間以上も止まるんだ。」

「 見張りを置けばかえって彼らが危険な目に遭う…イ・リムだけが動けるから。」


現実を理解したテウルはぼんやりと呟いた。


「 そうだね…私の考えが浅はかだった。…でも、そんなに長く時間が止まるの? 」


テウルの問いにゴンは静かに頷いた。
ゴンを見上げていたテウルは、突然ゴンの腰に腕を回して抱きついた。
全てが止まった孤独な時間の中に、ゴンが一人で立っていることに気づいたから…


「 その間あなたは……独りなんだね。」

「 何度かは君も一緒だった。」


ゴンもテウルを抱き締めた。
何かが解けそうになる度に、どこからか再びもつれた結び目が現れる。
テウルはゴンの胸に顔を埋めたまま落胆した。


「 ......私たちに何か方法はあるのかな…これを元に戻す方法は… 」

「 時間が止まる現象は、半分に割れた息笛の半分の力だけが作用する事で生じる亀裂のようだ。…だからもしかすると、息笛がまた一つになれば元に戻るのかもしれない。」

「 …どうやってまた一つに?イ・リムが持っている方を奪うか、あなたが持っている方を奪われるか…二つのうちどっちかになるの? 」


「 イ・リムが息笛の半分を手に入れる前にそれを防ぐことができれば… 」


テウルは驚いて聞き返した。


「 それは…過去の出来事でしょ?」

「 扉の中に空間の軸だけでなく、時間の軸も存在するなら可能だ。それなら25年前に私が君の身分証を拾ったことも説明がつく。」

「 存在するの…?」

「 まだ分からない… 」


リムが時間を引き延ばしていることを知った後、ゴンは扉の中をひたすら走り続けた。
果てが近づいたかと思えば道はひっくり返り、また振り出しに戻った。
浮遊する赤い風船は左側にも右側にも現れた。


「 あの扉の中を走り続けてみたが、どんなに長く走っても果てには辿り着けなかった。あの空間は踏みしめて走る床が空になり地面になり、外側にも内側にもなった。私がどこへ行っても上に、下に、横に、赤い風船が見えたんだ……メビウスの輪(※)のように。」


テウルはゴンの話に耳を傾けた。



「 …一つだけ確かなことがあった。コインを投げてみたら、宙に浮いたんだ。君の花の種は落ちただろう?命のあるものは浮かばないようだ。」

「 …本当?」


パッと目を輝かせたテウルはポケットから小さな封筒を取り出した。


「 私、今日もまた花の種を買ったの。」


テウルが手に取ったのは希望だった。
テウルが希望を失わずにいてくれる事がゴンにはありがたく、そして辛かった。


「 ……本当に信じてるのか?あの場所で花が咲くと?」

「 何を心配してるのかは分かってる。」

「……!」

「 息笛が一つになったら…あの扉は永遠に閉ざされてしまうんじゃないか…でしょ?」


ゴンは答えられなかった。


「 17の約束のうち10番目!前もって怖がらないこと。それはまだ起こってもいないんだから。」


ゴンには守るべき17の約束があった。
その中でまだテウルが決めていないものが残っていたが、こうしてまた一つ追加された。
怖いのはテウルも同じはずなのに、先のことに怖気づくのはやめようと言う。
ゴンが一人で重荷を背負わないように…テウルはそう願っていた。
巨大な運命は、今となってはテウルのものでもあった。
いや…最初からテウルのものだったのだ。
その運命を、テウルは心から愛していた。


「 まだ分からないでしょ。その糸は切れるかもしれないけど、逆に伸びるかもしれない…。説明できないことはこれまでもたくさんあったし。」


悲しい目で自分を見るゴンにテウルはたくましく告げた。


「 目の前にいるじゃない、説明のつかないことが。私がイ・ゴンを愛するようになったんだから… 」




「 ……そうだな。」


ようやくゴンが笑った。
テウルも、彼に向かって微笑んだ。



「 だが約束は17のうち9番目だ。」

「 ああ…9番目だっけ。他人が聞いたら前の8つはちゃんと守ったみたいな言い方ね。…そうじゃなくて、普通こういう時は肩をトントンしてあげるとか………はぁ、もういい。じゃあ明日の明け方にね! 」


意地悪を言われてすねたテウルはくるりと向きを変え、ゴンに背を向けて歩き出した。
そんなテウルを、ゴンは手も使わずに捕まえてみせた。



「 近衛隊は一歩前へ。」



柱の後ろに待機していた近衛隊が、一歩踏み出し姿を現した。

驚いたテウルが歩みを止めている間に、ゴンは長い足であっという間に追いつきテウルの肩を抱き寄せた。
テウルの耳元に、低く囁くゴンの声が届いた。




「 夜明けは一緒に迎えないと。」




近衛隊は再び柱の後ろに退き、二人は月の光に照らされた回廊を並んで歩いた。


「 彼女をこんなふうに捕まえる彼氏がどこにいるの?」

「 他にどうやって捕まえれば?」

「 真心込めて捕まえないと…!」

「 一応あるものを込めたんだが…間違ったようだな。」

「 …何を込めたの?」



「 焦りだ。」



不安だが、一緒にいれば幸せな二人の笑い声が宮殿の中に静かに響いた。


明け方…
ゴンはテウルとウンソプを連れ、もう一度次元を越えた。





※メビウスの輪♾…帯状の長方形の片方の端を180°ひねり、他方の端に貼り合わせた形状の図形。数学的には表裏の区別が不可能という特徴を持ち、その形状が化学や工学などに応用されているほか、無限∞や輪廻の象徴として芸術や文学の題材に取り上げられることも。



ザキング 永遠の君主
   33.「止まった時間の中で」

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