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ザキング 永遠の君主 38.「時間に疲れないように」

皇室を盗聴し、逆賊の残党を探そうとした罪でソリョンは窮地に追い込まれていた。
行く先々に記者が待ち伏せ、地元では母親が顔も上げられないほどソリョンは帝国民に後ろ指を差されていた。
名誉は地に堕ちた。
望んだものは権力であり名誉ではなかったが、だからといって腹が立たないわけもない。
自分を底辺まで追いやった皇帝への愛憎は凄まじく、ソリョンは喜んで彼を倒すつもりだった。

プヨン君の長子、イ・スンホンに会いに来たのもそのためだった。
約束した寺に到着すると、スンホンは顎をしゃくりながら見下すような顔でソリョンを待っていた。
自分は皇室の血を受け継いだ高貴な存在だということか…
ソリョンは嘲笑をこらえた。
重要なのはその血ではなく、そんな高貴な皇室の人々に受け継がれた宝物の方だった。
ソリョンの目は欲望の光を放った。


「 息笛…?あの代々受け継がれてきた竹の切れっ端の?中断されたその公開行事を、私にまた再開しろというのか? 」


スンホンの問いに、ソリョンは静かにお茶を一口飲んだ。


「 皇位継承序列から除外されたそうですね。元の位置に戻らないといけないのでは? 」

「 それと息笛に何の関係があるんだ。 」

「 逆賊イ・リムが生きているという噂は耳にされたかと思いますが…まさかイ・リムが玉座だけを狙って謀反を起こしたとでも? 」


静かな、しかし含みのある口調でソリョンは尋ねた。

自分の元へ何度も届いた奇妙な新聞と、皇帝が見たという逆賊の残党を調べたソリョンは、ついに息笛の秘密とイ・リムの生存を知ったのだった。

リムは自らの足でソリョンを訪ねてきた。
その顔は、昔教科書で見た顔そのままだった。
一人だけ時間が止まったかのように、まったく老いていなかった。
店に立ち寄ったリムを見たソリョンの母親が、彼をリムの息子だと思ったのも無理はない。

ソリョンはリムに負けず劣らず欲望に忠実な人間だった。
そのせいだろうか。
ソリョンはリムの意図を瞬時に理解し、教えられていない事実をも見抜いた。
そして自分の目で確かめるため、異世界にまで行って来たのだった。

リムは自分に贈り物をくれるかのように振舞ったが、ソリョンにはそれが滑稽だった。
リムの力は全て彼が持っている鍵から出てくるものだった。
その鍵をイ・リムとイ・ゴンだけが…皇室の男たちだけが持つだなんて…
ソリョンはじっとスンホンを見据えた。


「 ク総理…いや、もう今は旧ク総理と呼ぶべきか? 」

「 どうとでも。気楽に呼んで下さい。」


スンホンもある程度は気づいたようだった。
スンホンの目もまた、欲望の光に満ちていた。
しかし口からは違う言葉を吐き出した。


「 人を見誤ったな、ク・ソリョン氏。私は陛下を尊敬して…


息笛の力をソリョンと分け合う考えなどスンホンにはなかった。
スンホンはすぐにでも宮殿に行って息笛を持ってこようと考え立ち上がった。

しかし次の瞬間、前方へ傾いたスンホンの体は床に転がった。
座ってスンホンを見上げていたソリョンは眉間にしわを寄せた。
皇族の威厳などまるでない醜い姿で、スンホンは立ち上がることすら出来ずに床の上でもがいていた。
自分の足を掴んだスンホンは、酷く混乱した様子で悲鳴を上げた。


「 な、なんだ…!?俺の…俺の足が!!俺の足が何でこんなことに……!!! 」

「 …もともとそうだったじゃないですか。お若い時に謀反を阻止しようとして…今更どうしたんですか? 」

「 何言ってる!!どこも悪くなかったんだ!いつからこんなことに……!?


その瞬間、スンホンの頭の中にも新しい過去の記憶が生まれた。
若い自分は謎の男に撃たれていた…
記憶と太ももに残った銃創があまりに鮮明で、スンホンは狂ったように叫んだ。


「 な…何なんだこの記憶は!俺はあの時成功したのに…ばれなかったはずなのに…なんでこんなことを思い出すんだ!!俺を撃ったのは誰なんだーーー!!! 」


発作を起こしたかのようなスンホンを見て顔をしかめたソリョンは、席を立つとさっさとその場を後にした。





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数日後、ソリョンは出産を控えたジヨンが入院しているVIP病棟を訪れた。


「 病院じゃなくてまるでホテルね。随分な御身分だこと。」


入ってくるなり皮肉ったソリョンをジヨンは驚いた目で見た。
しかしすぐに戸惑いを隠して笑った。


「 久しぶりね、ソリョンさん。職務停止になったようだけど… 」


たった一言だけだったが、いつもと違うジヨンの雰囲気を感じ取ったソリョンは不審な目で彼女を眺めた。
ジヨンはテーブルの上に並んだ色とりどりのデザートをソリョンへ差し出した。


「 よかったらこれでも食べて。もうカメラに撮られることもないからスタイルを維持する必要はないでしょ? 」

「 だから来たのよ。あんたの夫はヨム・サンウォン議員と親しいから…橋渡し出来るでしょう? 」


一瞬、ジヨンの瞳が大きく揺れた。


「 …酷いわね。もう私には会いにきてくれないの?私はソリョンさんを見るとまるで一本の映画を観てる気分だったのに… 」


曖昧に誤魔化したジヨンはカップを持ってお茶を一口飲んだ。
その時、ジヨンが手首につけていた銀のブレスレットが光に反射して輝いた。
ソリョンは目を疑った。


「 そのブレスレット、どうしたの? 」

「 ソリョンさんが送ってくれたんじゃない。昨日宅配で届いたわ。」


ソリョンは呆れて笑った。
ジヨンがつけていたそのブレスレットは、あの日刑務所の前でルナに盗まれたものだった。
病室に入ってすぐに感じた違和感の正体がようやく理解できた。
ジヨンは、本来のジヨンではなかったのだ。
大韓民国からイ・リムが連れてきたもう1人のジヨン…
ソリョンはにっこりと微笑んだ。


「 ああ。だからあんたは私に親切だったのね。なかなかの演技だったわ。こんなに早く入れ替わるとは思わなかったけど… 」


自分の正体をすぐに見破ったソリョンを、大韓民国から来たジヨンはぶるぶると震えながら怯えた目で見上げた。

大韓民国のジヨンの人生は” 無惨 “そのものだった。
貧しさに苦しむ日々の中、アルコール中毒の夫は毎日ジヨンに暴力を振るった。
大韓帝国のジヨンが財閥家に生まれ、そして財閥家の嫁になって暮らす間、大韓民国のジヨンはどぶの中を生きていた。
だからイ・リムが人生を変えてくれると言った時、彼女は躊躇わなかった。
これ以上のぬかるみなんてあるはずがなかったから…

ソリョンは全てを見透かすような目つきでジヨンを眺め、忠告した。


「 夫にはバレないようにね。今よりもっと上手く演技しないと… 」




私邸に戻ったソリョンはグラスにウイスキーを注ぎながら母親へ電話をかけた。
ソリョンのイメージ墜落でしばらく商売すらできなくなった母親は、彼女の弟の家に身を寄せていた。


「 母さん、変わりない? おばさんの家にいたの?」

ー ええ、キム秘書がおばさんの家に連れてきてくれたわ。記者ならここにはいないから平気よ。あんたは大丈夫? ご飯はちゃんと食べてるの…?


心配そうな母の声を聞きながら、ソリョンは琥珀色のウイスキーを口の中へ流し込んだ。
燃えるように熱いアルコールが喉へ沁みた。


「 ただの職務停止よ心配しないで。それと母さん…私がこれから” 晩ご飯は何を食べたの? “と聞いたら絶対に” サバを食べた “と答えて。…分かった?」

ー 急に何を言い出すの。サバって…?

「 これは冗談じゃないの。お願いだから必ずそう答えて。じゃないと大変なことになるわ…いい?今日の晩ご飯は何を食べたの? 」

ー …サバよ。これでいい?

「 ええ、また電話するわ…じゃあね。 」


電話を切ったソリョンは鏡の前に立ち、しきりに首筋を気にした。
何の傷もないきれいな首だった。
ソリョンはあの目印が現れた場所を指でさすった。


「 あの目は絶対に気づいてたはず… 」


そう呟いたソリョンの目つきが険しくなった。


「 一体なぜあの二人だけが扉を開けられるの…。私が初めて経験したあの痛みに気付いたということは… 」


ギリ…と歯軋りしたソリョンは引き出しから2G携帯を取り出した。



「 私が貰ったっていいわよね?皇室の男たちで独占してる…その萬波息笛を。 」





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療養院の院長から有力な情報を得ることができなかった強力3チームは、療養院に死体を置いた犯人を捜すため、療養院に出入りした車両のドライブレコーダーを回収し、その動線を調査し始めた。
しかし行き交う人の数があまりにも多く、何日も徹夜する覚悟が必要だった。
それでも、療養院の院長に周期的にお金を渡していたイ・リムの手下、ジョヨルの身元をシンジェが知っていたのがせめてもの救いだった。
強力3チームはジョヨルを見つけるため、集めた防犯カメラの録画映像を何度も何度もくまなく見返した。

クァンイ洞31-4キュヨンビル

そこは3か月前、ジョヨルが向かった場所だった。
強力3チームは直ちにビルへ向かった。
しかし、一歩遅かった。
ビルのドアをノックした時は既に中には誰もおらず、ドアの隙間から漏れるガスの臭いが鼻先を突いた。
間もなく激しい爆発音とともに巨大な火の手が上がった。
ビル6軒が飲み込まれるほど大きな火災だった。
先に警察の動きに気づいたイ・リム側が証拠を隠滅して逃げたのだ。
間一髪、ガスの臭いに気づいたテウルによって強力3チームは難を逃れたが、傷は残った。

顔と手に負った火傷は痛かったが、それよりも結局イ・リムとその残党が見つからなかったという事実の方が痛かった。
絆創膏でも隠せない痛みだった。
療養院事件の有力容疑者の本拠地が炎上し、捜査は足踏み状態となってしまった。

ゴンの消息は依然として分からず、これらすべての”元凶”はまるで見せつけるかのように2人の一歩先を進んでいた。




寂しい思いでテウルは竹林を歩いた。
ゴンを待ちながら習慣のように歩いていた。
竹林の入口にある公衆電話ボックスに入ったテウルはポケットを探った。
もしゴンが戻ってきた時、小銭がなくて連絡できないかもしれない…
テウルはありったけの小銭をおつりの返却口に入れた。


「 ……どこまで来たの…もうすぐ会える……? 」


今はどの過去に留まっているのだろうか…
一人きりで寂しくないだろうか…
いつまでも待ち続けながら、テウルはゴンを心配していた。

突然、
テウルはまたも頭が割れるような痛みを感じて顔を歪めた。




27歳のテウルは父親とシンジェ、ウンソプ、ナリと一緒にチキン店に集まりチキンを食べていた。
2016年4月…その日は国会議員選挙があった日で、朝方に投票を終えてから皆で集まっていた。
ナリは「ビルを借りてカフェを始めようか」と悩み、ウンソプは「ウンビとカビの面倒を見るため復学できずにいる」と不満をもらした。
みんな今よりまだ少し幼かった。

その時、ああだこうだと話し合っていたテーブルでナリとウンソプの携帯が順番に鳴った。
画面に表示された見知らぬ番号を2人は無視したが、3回目に電話が鳴ったのはシンジェだった。


「 …なあ、さっきからずっとこの番号から電話が来てないか?」

「 うん、来てます。どうせ迷惑電話だろうから留守電にしましたけど。」

「 もしかしてあれじゃない…?殺人ゲーム。一番最初に出た人が死ぬか犯人になるっていう… 」


ウンソプとナリの答えにシンジェが笑った。


「 なら代表で俺が死んでやる。 」


シンジェがちょうど電話に出ようとした時だった。
テウルは窓の外に見える公衆電話ボックスからこちらを見ている人物に気付いて目を凝らした。
どこかで見たような男だった。
知人じゃない事は確かだった。


「もしもし」

ー カン・シンジェ?

「 …誰だ?」

ー 君の助けが必要な人だ。左に座っているチョン・テウル警部補に代わってくれると有り難いんだが…


「 チョン・テウル警部補を探してるって… 」


疑わしい謎の電話だった。
しかし、シンジェが携帯を渡す前にテウルは立ち上がった。


「 ……すぐ戻るから食べてて。」


好奇心に満ちた目で、テウルは飛ぶように公衆電話の方へ向かった。



「 あなた…私を知ってるでしょ? 」


受話器を下ろして電話ボックスを出たゴンは、自分の元へ向かってきてそう尋ねたテウルに小さく頷いた。
目の前のテウルは、いつのまにか自分が初めて出会った2019年のテウルに近づいていた。
可愛らしくて、嬉しかった。


「 私がこれくらいのときに見た人でしょ…?母さんの黒帯を拾ってくれた…あれはあなたでしょ? 」

「 …覚えていたか。 」


覚えていないかもしれないと思ったのに、テウルははっきりとゴンを覚えていた。
5歳のテウルにとっては、ただ母親の黒帯を拾ってくれた不思議な男だったかもしれないが…


「 …あなた、誰? 」

「 君を愛してる人。君が、愛する人… 」

「 あの時と服も同じだし、声も…顔も変わってない。 」

「 君がプレゼントしてくれた服だ。…顔は私からのプレゼントだが。」


ゴンが着た黒い服を上から下まで眺めたテウルは怪訝な顔をした。
イカれたヤバい奴だと思った。


「 はぁ…失礼ですが、身分証の提示をお願いします。 」

「 事前に言っておくべきだったが、私に身分証はない。何度も言うがイカれてもいない。」


テウルを見つめながらゴンは言葉を続けた。


「どんなことがあっても私を助けてくれる5人が集まっていて嬉しいよ。意外だったが、一番助けてくれそうになかった者が私を助けてくれた… 」


ゴンの視線が店内で笑っている人たちへ向かった。
テウルは彼の言葉の意味が理解できなかった。


「 私がチョン・テウルだってなんで分かったの? 」


もどかしそうな顔をして、ゴンはまた別の記憶を残した。


「 …覚悟はしていたが、私を知らない君に会うのはやはり悲しいものだな。…だから来たんだ。今日、君の記憶に私を刻むために。私たちは今、違う時間を生きているから…。私は君に向かって25年の時間を生き抜いているところだ。だから私が到着するまで、どうか諦めずに待っていて欲しい…お願いだ。 」

「 …… 」

「 私たちは光化門で再会することになる。私はボタンの多い服を着て、マキシムスと一緒にやって来る。だからその時は…もう少し私に優しくしてくれないか?そして私に、もう少しだけ時間を作ってくれ…私たちにはあまり時間がないんだ。 」

「 なんでまた会うの…? 」

「 それが私たちの運命だから…。頻繁に君に会いに来られない理由は、息笛に亀裂が…生じ始めているせいだ。」


何一つ理解できないのに、テウルはゴンの言葉を必死に覚えようとしていた。
忘れてはならないような気がした。
ゴンは初めて見る27歳のテウルを目に焼き付けた。
その瞳は寂しさに濡れていた。



「 …もう行くよ。君といると数を数えるのを忘れてしまう。…………また会おう。 」


真横を通り過ぎ、だんだん遠ざかっていく後ろ姿がとても寂しげで…テウルは長い間空の公衆電話ボックスの前に立っていた。






こうして新しい記憶がもう一つ生まれた。
頭が割れるような痛みが治まると、テウルは過ぎた記憶を振り返った。
ゴンの顔が、声が、鮮明だった。


「 また······来たんだね。2016年にも来てた…… 」


込み上げる懐かしさに涙声で呟いたテウルが下を向いた時だった。




「 ………!!! 」



電話ボックスの中…電話のすぐ横に…リアルタイムで新しい文字が浮かび上がった。



2016.4.13.
もう少し……



口元を手で覆ったまま、テウルは震える目で次々浮かび上がる文字を見つめた。
ゴンの字だった…
ゴンのメッセージを全て読んだテウルは涙を流した。
違う時間の中で、二人は同じ場所に立っていた。



2016.4.13.
もう少しだけ待ってくれ
もうすぐ会える



一文字ごとに力を込めて書きながら、ゴンは溢れそうになる涙をこらえた。
やっと…やっと2020年まで残り4年のところまで来た…
ゴンは数を数え続けた。

次にゴンが到着したのは2019年の大韓帝国…ボート競技場だった。
海軍士官学校88期が優勝した日であり、黒いウサギのフードをかぶった時計ウサギを見つけた日だった。
ルナをテウルと勘違いしなかったら…ルナの後を追っていなかったら…ゴンが次元の扉を開けることもなかっただろう。
そして何があっても、運命は必ずゴンをその場所へ連れて行くはずだ。

ゴンはヨンから乗馬場のセキュリティカードをもらい、黒いウサギのフードポケットに入れた。
そしてそれをわざとベンチの背もたれに掛けながら、ゴンはヨンに必要な言葉を伝えた。


「 私が今から言うことをよく覚えておけ。 」

「 何ごとですか…? 」

「 お前はいつか大韓民国という場所へ行くことになる。そこに一人残された時、お前はソン・ジョンヘの居場所を突き止める。おそらく、あの夜酒を飲みながらそれを私に話そうとしたはず… 」

「 ソン・ジョンヘとは誰ですか? 」

「 今それを説明しても何の話なのか理解できないだろう。だが、分かる時が来る。私にも分かる瞬間が来たんだ…その人に会いたいと思う瞬間が。 」

「 ……?」

「 その時が来たら、カン刑事に助けを求めろ。お前はその時チョン・テウル警部補を信用出来ないはずだから。」




………!!!

その瞬間、ホテルの廊下を歩いていたヨンの記憶に、2019年のボート競技場に現れたゴンの記憶が新しく加わった。





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シンジェはヨンの電話を受けて病室から廊下へ出た。
ヤンソン療養院で眠っていたカン・シンジェを、かかりつけだった馴染みの精神科医の助けで別の病院へ移したところだった。


「 …つまり母さんが、イ・ゴン…いや、イ・ジフンの母親に会ったってことか? 」

「 グレースハリテージホテルです。そのホテルの防犯カメラの映像から追えば、ソン・ジョンヘの目的地に着くはずです…手を貸して下さい。 」

「 俺の母親を尾行したのか? 」

「 …手を貸してくれるのですか?くれないのですか? 」

他の話はせず協力だけを問うヨンに、シンジェは眉をひそめた。
と同時に、ポケットからはまた別の携帯の着信音が鳴り響いた。
背筋に緊張が走ったシンジェは、2G携帯を取り出した。
永遠に鳴りそうになかったその携帯電話が、ついに鳴ってしまったのだ。
すぐに電話がかかってくると言っていたイ・サンドの妻の言葉を思い出した。
シンジェは息を整えた後、2G携帯を開いて耳に当てた。




「 道に迷ったようだな。私がもう一度見つけてやろう… 」




ついに…やはり……イ・リムだった。


リムに呼ばれたシンジェは、リムの作業場を訪れた。
沸き立つ窯からは熱気が立ち昇っていた。
暗く陰気な作業場の雰囲気にシンジェは本能的に身構え、真ん中に立つリムを睨みつけた。
反抗的な目で自分のもとへやってきたシンジェを見て、リムは口の端を上げた。


「 久しぶりだな…名前はヒョンミンだったか?カン・ヒョンミン… 」


カン・ヒョンミン…
その名を口にしたリムの顔をシンジェは今すぐ殴りたかったが、出来なかった。
同時に古い記憶が蘇っていた。


母は以前の記憶のように泣いていた。
しかし、そこは街ではなく川の上に架かった大きな橋の上だった。
ソニョンの目はこの世の終わりを見つめていた。
実際、彼女は死を決意していた。
息子の死までも…


「 母さんはね····生まれ変わったらもう何があってもヒョンミンの母さんはやらない。 だからヒョンミン、あんたは必ず…必ず金持ちの息子に生まれなさい…!分かったわね…? 」

「 母さん······どうしたの? 」


不安に怯える息子を見たソニョンは胸が痛んだ。
しかし、もう生きていく自信はなかった。
幼い息子を一人だけ厳しい人生の中に置いていくわけにもいかなかった。
いっそ命を終える方がマシだと判断したのだ。


「 …ごめんね。全部母さんが悪いの…!」

胸が引き裂かれるような苦痛にひび割れた声で謝りながら、ソニョンが欄干の外にヒョンミンを押し出そうとした時だった。
黒い車が橋の前に止まりクラクションを鳴らした。
けたたましいクラクションの音に、ソニョンは一瞬たじろいだ。
車から降りてきたのは、黒い長傘を持った長身の男だった。



「 名前はミン・ソニョン…息子はカン・ヒョンミン。 元金740万ウォンが現在は4.920万ウォン…本人の指印で合ってるな? 」


イ・リムが手に持っていたのは” 身体放棄覚書(※) “だった。
ソニョンは崩れるようにヒョンミンを抱きしめた。


「 返済期限は明日でしょう!?まだ1日あるじゃない…! 」

「 祈ってみるか…?どうせ捨てる命なら、私に捨ててみるのはどうだ。 私がお前たち親子に新しい人生を与えよう。 君は宮人パク・スクチンで、君の息子は裕福な父親がいる人生だ。」


そう囁きながら、リムはソニョンの身体放棄覚書を破り捨てた。
ソニョンは信じられないという目で破れた身体放棄覚書が宙を舞うのを呆然と見つめた。
あの紙一枚のためにソニョンはここまで追い詰められたのに…
リムはソニョンをあざ笑った。


「 ただ頷けばいい。 君の前に来た幸運の前に… 」


ソニョンはヒョンミンを抱きしめたまま、壊れた機械のように頷いた。
そうやって幼いヒョンミンの前にやってきた男が、目の前の男であることにシンジェは気づいた。
シンジェは戸惑いを隠せなかった。


「 どうなってる…なんでお前の顔はあの時のままなんだ…… 」

「 ああ…だから私も時間はたっぷりあると思っていた。思い返せば、それが私の最初の亀裂だった。たかが新芽のようだった甥が成長し、私の首を締め上げてくるとはな… 」


一歩ずつジリジリとシンジェに近付きながら、低い声でリムは言った。
シンジェは声を荒げた。


「 お前の悲しい家庭の話はいいから、電話した理由を言……!!


バキッ!!!

話し終える前に、リムは手にした角材をシンジェの頭へ振り下ろした。
防ぐ間もなく、シンジェは床に倒れた。
パチパチと窯の薪が燃える音が遠くまで響き渡った。
シンジェの額からは赤黒い血が滴り落ちていた。


「 そろそろお前の人生を変えてやった恩を返してもらわねば… 」


リムは内ポケットから取り出した写真を2枚、シンジェの前へ放り投げた。
大韓民国でシンジェを育てたファヨンと、大韓帝国の宮人として働いているソニョンの写真だった。


「 生涯だまされ続けた母親と、生涯だまし続けた母親…両方の母親の生死が、お前の手に懸かっている。」


「 ……要点だけ言え。何が望みだ。 」


「 私の甥に、最も遠くて最も近い存在がお前だった。これは至極簡単な取引だ。 どんな手を使ってでもいい…イ・ゴンの鞭を持ってこい。奴を殺して奪ってくるならなおさらいい… 」


シンジェは歯を食いしばり、わざと皮肉を言った。


「 もっとマシな取引をしろ。孝行息子に見えるか?残念ながら俺は親思いじゃない。」

「 いや、お前にもあるはずだ。甘くてすぐ溶けるような…そんな気持ちが。 」


冷たくそう言ったリムは、床に散らばった写真を土足で踏みつけながら殺手隊を引き連れて去っていった。

シンジェはしばらくの間、リムの足跡が刻まれた写真を見つめていた。




※身体放棄覚書…借金を延滞したら身体全部を放棄するという内容の誓約書。民法上は無効だが、裏では拉致・監禁・臓器売買に利用されるケースも多く、自殺や夜逃げが多発しかつて社会問題となった。




       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





ウンソプからの連絡を受けてテウルは急いで家の近くへ向かった。
ウンソプの言葉通り、ルナがチョン館長とナリと一緒にスーパーで買い物をしていた。
しかし3人の前にいきなり現れるわけにもいかず、テウルはルナが2人と別れる時をひたすら待った。

暗闇の中で一瞬ルナと目が合い、テウルは悔しさに拳を握りしめた。
突然足早に角を曲がったルナをテウルは素早く追いかけた。

奥深い路地に入ったルナはまるで野良猫のように一瞬で姿を消した。
角を曲がったテウルはきょろきょろと辺りを見回した。
その時だった…

どこからか伸びてきた手がテウルの腕を掴んだ。
テウルはそれを逃さず、逆に手を捻り上げて相手の体を壁に押しつけた。
路地を通りすぎる車のヘッドライトに瞬間的に照らし出されたルナの顔がはっきりと見えた。
2人は息がかかる程の至近距離で睨み合っていた。
毎日見ている自分の顔と同じ顔…しかし全く違う顔だった。
ルナがにやりと唇の端を上げた。


「 警告したのに。あたしに会ったら死ぬって… 」



その瞬間、テウルの脇腹に深くナイフが押し込まれた。
金属が肉を裂く鋭い痛みに、テウルは息を止めた。
ルナは苦痛に歪むテウルの顔を見つめた。
まるで自分が苦しむ姿を見るような奇怪さがあったが、自分は目の前のテウルのように愛されたことはなかった。
テウルのフリをしながらチョン館長やナリと交わした会話がルナの頭に浮かんだ。
たわいもない、けれど涙が出るほど温かい会話だった。

ルナは無表情のまま、テウルに突き刺したナイフを握る手に力を入れた。
今にも血が溢れ出しそうだった。
テウルは歯を食いしばってルナの手首を掴んだ。


「 離して。あんたの父さん、防犯の見回りに行くって言ってたけど…怖い顔した悪い連中が同じ方向に向かってるって…どうする? 」

「 …ッ……人でなし… 」

「 どうしたの。まさか何かを失うのは初めて?…じゃあ今から適応しな。あたしは毎日毎日、何かを失って生きてきたんだから。 」


テウルがさらに痛みを感じるように勢いよくナイフを引き抜いたルナは、血まみれのナイフを地面に投げ捨てると悠々とした足取りで路地を抜け出した。
その場に崩れ落ちたテウルはポケットからなんとか携帯電話を取り出すと、震える指で112番に通報した。


「 チョンノ警察署の…チョン・テウルです…応援を…お願いします。ヒョジャ路13道方面…にパトカーを回してください…今すぐに… 」


父親の身に何かが起きると考えただけでテウルは気が狂いそうだった。

よりによってその瞬間、
地面を這うようにもがいていたテウルの頭に割れるような痛みが走った。
テウルは頭を抱えて壁にもたれかかった。
またしても、新たな記憶が生まれていた。










『 そこの方!馬に乗った方!! 』








光化門交差点。
白馬に跨ったゴンは振り返った。
テウルを見つけたゴンはあっという間に馬から降り、大股で一気にテウルへ近づいた。


「 ついに、君に会えたな…チョン・テウル警部補… 」


25年間、身分証の中のテウルに会える日を思い描いてきたゴンだった。
テウルは不思議そうに…でもどこか嬉しそうにゴンを見上げた。


「 本当に光化門に来たんだね。ボタンの多い服を着て…… 」

「 …不思議だな。まるで私を知っているような目だ。 」


ゴンはいぶかし気にテウルを見つめた。
テウルが自分を知っていることに驚いた顔さえハンサムだった。
いつ見てもハンサムな顔をしていた。
いつ見ても…?
5歳と27歳、たった2度すれ違っただけなのに…
テウルはその瞬間、説明のつかない不思議な気持ちで胸がいっぱいになった。
とても長い間、何度も会ってこの顔を見てきたような気がした。
彼を抱きしめてあげたいという衝動に駆られた。



運命に偶然はない。
いつか必ずやって来る。
だけどその意味に気づいた時は、いつももう手遅れだ…




「 説明は省略する。今はこうしないと後悔しそうだから… 」


テウルは自分のもとへ運命のように近付いてきた男を抱きしめた。
ゴンは固まったまま、自分を抱くテウルを見下ろした。
テウルの腕の中は温かく、そしてなぜか悲しかった。
それがゴンの心を乱した。


「 私は自分の体に触れられるのが嫌いだ。…だが今は我慢してみる。理由があるはずだから。 理由を聞いてもいいか…? 」


テウルは体を離してゴンを見上げた。


「 なぜ私を抱きしめるんだ。なぜ君も私を知っているんだ… 」

「 ……私にも分からない。説明のつかないおかしな事が起こってるの。私は過去に…あなたと会ってる。」

「 ……過去?その過去とはもしかして25年前のことか…? 」


「 …ほら、やっぱりイカれてる。はぁ…身分証を提示してもらえますか? 」





ゴンとテウルは光化門でもう一度、初めて出会った。
テウルは痛みに苦しみながらも自分の一貫した行動に呆れて苦笑いした。
しかし笑うこともままならないほどの激痛でテウルの顔は歪んだ。
顔には冷や汗と涙が滲んでいた。
テウルは血が溢れる腹部を押さえたまま、気を失わないよう必死だった。
遠くからパトカーの音が聞こえてくるような気がした。


「 ……父さん······· 」


父親からの電話に、テウルはやっとの思いで通話ボタンを押した。


「 おい、お前の電話のおかげであいつら全員ぶん殴って取り押さえてやったぞ!お前今どこにいる…? 」

「 …私が…父さんに電話…を…? 」

「 なんだ、お前声が変だぞ。どうした?…あ、警察が来たから事情を説明しないと…!またあとで電話する!」


チョン館長は急いで電話を切った。
意識がどんどん薄れてきていた。
とにかく父が無事で良かった…
安心した途端、テウルの意識はプツリと途切れた。



テウルが目覚めたのは翌日の昼、病院のベッドの上だった。
路上に倒れていたテウルを発見した通行人が救急車を呼んでくれたおかげだった。

テウルが目を開けると、パクチーム長が目の前に指を突き出しながらいくつに見えるかと尋ねてきた。
しかし自分が怪我をした時いつもそばにいるはずの人たちがいないことに気づいたテウルは慌てて尋ねた。
もしかして、眠っている間にまた何かが起こったのかもしれないと思ったからだ。


「 シンジェ兄貴と父さんは…? 」

「 お父さんは少し前に帰ったよ。道場を閉めてくるそうだ。ナイフで刺した奴はどんな奴だったんだ…!?顔は見たか? 」


シム刑事は悔しそうに聞いた。
確かに、同じチームの仲間が路上で刺されて死にかけたのだから腹が立たないわけはない。
顔も正体も正確に知っているのに、テウルは答えることが出来なかった。
自分と同じ顔をした、違う世界のルナに刺されたなんて…
どう考えても説明出来ない話だった。


「 暗かったし…帽子をかぶってた気もするけど…少し寝てまた考えてみます。痛み止めが強いのか、まだちょっと眠くて…… 」

「 ああ、そうだな。寝てろ寝てろ…!行こう。 」


パクチーム長とシム刑事は病室を出た。


「 シンジェとは連絡がつかないのか?ずっと…? 」

「 宿直室には来てないようでした。メッセージは既読になりませんか? 」


2人が話しながら病室を出るやいなや、テウルは携帯を手に取りシンジェにメッセージを送った。


[ 兄貴今どこ?緊急事態なの。 ]

[ 今病院にいるんだけど、見たらすぐ電話して。]


テウルはすぐに注射針を抜いて患者服の上に上着を羽織った。
ルナを探さなければならなかった。





ザキング 永遠の君主
   38.「時間に疲れないように」








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