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戦争の罪

『戦争の罪を問う』カール・ヤスパース



ヤスパースの『戦争の罪を問う』を読んでいた。理解しやすい本ではなかったが、今のところの理解を書いておく。

本書は1945年に計画され、翌年冬に行われたヤスパースによる講義がもとになっている。この間に、ドイツの戦争指導者の責任を訴追し処罰するニュルンベルク裁判が行われていた。基礎知識としてまず、この裁判が史上初の戦争犯罪に対する裁判であると知っていると読みやすい。開始時期はずれるが同じ時期に東京裁判も行われている。ヤスパースはこの裁判を「世界史上全く新たなものが生じている。戦勝国が裁判所を構成しているのだ」と書く。

この裁判では裁判員は全て戦勝国の人間であった。これは著しく中立性を欠くものだったという批判もあるが、ヤスパースは、戦後の裁判が戦勝国によって行われることは当然であるという現実的な立場をとる。

本書で最も重要となる点は「4つの罪」である。ヤスパースは「罪」を次の4つに分類した。

一つめは刑法上の罪。法律に違反する立証可能な行為に対して成立する。審判者は裁判所である。先の軍事裁判でドイツ軍部の人物たちに適用されたのはこれである。

二つめは政治上の罪。為政者の行為に成立し、その行為の結果の責任を公民が負うとき成立する。審判者は戦勝国の意志と権力。軍事裁判でドイツ国民が負うことになったのはこの罪だ。

三つめ。道徳上の罪。一個人のなす行為についてもつ道徳的な責任。審判者は自己の良心、親密な関係にある人との精神的な交流。

四つめ。形而上の罪。人間相互の連帯感による、この世のあらゆる不正・不法に対して負う、責任の一半。審判者は神のみ。

こうした区別によって、ヤスパースは、段階的差別を無視し、大掴みに判断を下す浅薄な断罪論を避けることができると主張する。そしてニュルンベルク裁判をこの罪の分類によって分析するのだ。

さて、ヤスパースは個人と民族の関係についても言及する。それによると、様々な判断は個人に対して下せるのみで、集団に下すことはできない。いわゆる「~人」「男・女」「老人・若者」といった性格付けは個々の人間を網羅する「類」概念ではなく、おおざっぱに把握する程度の「類型」概念に過ぎない。ところが「類」と「類型」を混同し、すべての個人を把握した気になってしまう。こういうことが幾世紀にもわたって行われてきた。「民族」が犯罪者になったり、不道徳的あるいは道徳的な行動を取ったりはしない。そういうことをするのは「常に民族に属する個人」である。こう言い切る。ここまではいい。

しかしここからがどうもよく分からない。私は、ナチスがドイツで生まれたという民族の問題を不問に付すことはできないのではないか、と思う。ヤスパースはこんなことを書いている。


わずか一万人ほどの少数者たるヒットラーとその共犯者たちは、道徳上の罪を全然感じないという意味において、道徳上の罪の圏外にある。かれらは悔悟したり生まれ変わったりする能力がないらしい。かれらは要するにあれだけの人間なのだ。そういう人間は自らも暴力のみによって生きるのだから、彼らに対しては暴力を用いる以外に道がない。

『戦争の罪を問う』


まるでヒトラーらを狂人と片付けるような発言である。なぜこんなにも道徳的な自分たちと不道徳な彼らという風に区別できるのだろう。さらに別の部分でも、ユダヤ人迫害は少数の人間によるものだと断じている。ナチスによる戦争犯罪の責任は軍の個人が負う。そしてドイツ国民はそのような彼らを指導者にしたという責任を負う。ヤスパースは、ドイツ国の名の下に行われた犯罪に対しては全てのドイツ国民が責任の一部を引き受けさせられると書く。ならばどうしてこんなにも国民とヒトラーたちを別物のように書けるのだろう。ナチスがドイツ国民のなかから誕生したという事実になぜもっと真剣に向き合わないのか。

今次のウクライナでの戦争も、これはロシアではなくプーチンの戦争だ、と言ってプーチンによる凶行だと強調する風潮がある。それは一理ある。しかし、ヤスパースも言う通り、国民というのは政治と無関係でいられないのだ。少なくとも選挙の投票、棄権を通して政治に参加するし、たとえその選挙が不正であろうと政治と無関係で生きているつもりであろうと、その国に住み国家の秩序によって生活を得ている以上、我関せずではいられないのだ。ましてウクライナはホロドモールで搾取され、クリミア併合でこれを支持するロシア国民の姿を見せられてきた。そして今回、これまで国籍や民族を意識しなかった人さえ、ロシア人を受け入れられなくなった。こうなるともはやプーチン云々ではない。ロシア人はロシア人としてこれまでの罪を負う。私は、ロシア人にこの罪を問うべきだと考えるし、いずれ問われることになると思っている。

読んでいただきありがとうございます。