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勝って嬉しい花いちもんめ 負けて悔しい以下同文(大相撲初場所6日目)

↑Abemaの配信をその夜に見ながら3分間ドローイング。本当に絵の上手な人であればかっこええのだろうが、そういうものを描いてなんとなく気持ちを保っている残念なわたくし。

3年前の夏あたりから、おもむろに絵を描こうと思いたち(それまでも、落書きはちょこちょこ)、それからじわじわと描いているのだが、どうにも、絵を描くというのは、奥が深いし難しい。やっぱり、おとなになっていく過程の中で、量を描き込む練習をしていたひとのようには描けない。

今描けているひとは、描けている中でも、きちんと練習を繰り返しているのだともいう。基礎の量がぜんぜん違う。そして、翻って自分を見ると、基礎もそこそこに、描きたい対象ばかりあって、すぐに描こうとしすぎるので、目も当てられない。

稽古の量とか質とか四股とかテッポウとか番数とか内容とか、ということばが、微妙に目の前を滑っていく。

きのう6日目におけるわたしの心のメイン取組が、ここに描いた寺沢-将豊竜だった。幕下一桁で2連勝同士の対戦となった。結果を識るまでそわそわしていた時間に比べて、相撲そのものは一瞬だった。リアルタイムでは見られなかったが、ほどなく、大相撲アプリで見られた。

「かーって嬉しい花いちもんめ、まけーて悔しいいちもんめ」

その相撲と結果を識ってまず出た言葉がそれだった。

延々と、ひとつひとつ(それは人ごとにも、日ごとにも)勝ちと負け、白と黒、嬉しいと悔しい、くっきり塗り分けられるだけだ。そのことは、どれだけ今の土俵が普通の状況ではないとしても、1週間前の映画で見つめた土俵と、何ら変わることはない。高速で塗り分けられ、振り分けられるのを、延々と見ているだけだ。

前書いたなあそういえば。

そして、日々白黒に塗り分けられるものの、白の量がとびきり多目に来ているひとが、だんだんと番付をあげていって、役のつく看板になっていく。そして、看板が大きくなればなるほど、塗られる色は白であることが当たり前であることを求められる。

そりゃみんな真っ白でありたいし、みんな真っ白になってほしいけど、そうはいかない。

今は普通の状態ではないけれど、大きい看板を背負うひとに期待されることは、それでもいつもと変わらない。いつもと変わらないけれど、そこに至ることが出来ないことが多いから、足りないと云われてしまう。

前述のふたりの部屋の部屋頭はそれぞれ大関、いずれも、地位の維持のためには今場所の勝ち越しを最低限求められる大関であるが、それぞれの対戦の白黒もはっきり塗り分けられてしまった。

結びの一番で「なんで?」とつぶやき(宝富士パイセンが上手かったのだと言い聞かせた。言い聞かせたけれども)、その余韻がはうんはうんと心の中を泳いでいる頃に、ちょうど土俵の上では弓取り式がおこなわれていた。

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冒頭の相撲で…勝って3-0とした将豊竜そのひとである。ああ紙のレイアウトがどうにもならないですね。紙の端っこと干渉しちゃったけれど、実際はもっと腕太い、どっしりしている、思ったよりも、体でかくなったなあ。

「○○という地位であるためには」みたいなことを云われても、どっちかが勝ち、どっちかが負ける以上、勢いがあってつよいほうが勝つしかないよなあ…と思いつつも、じゅるじゅるとなにかを溜め込みつつも、場所はあと9日(書いてるうちに7日目が始まった)。

無事でありますように。何もかも何卒無事でありますように。何もかもというのは無茶であるのだけど。みんな真っ白には、どうやったってなれないのだけど。

この週末は映像で追えない予定があったのだが、その予定が流れたので、映像待機、である。

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