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選挙 銃弾 苺

 去年の衆議院選挙まで遡るんだけど、その日はハロウィンで京王線でジョーカーの格好をした男が事件を起こした日だった。私は翌日渋谷でライブがあったので北海道から前乗りしていて、かわるがわるテレビに写される選挙事務所のバンザイとごった返した渋谷と燃える電車を観ていた。次の朝まさにその京王線にボサッと乗り込み、ごみに埋まる渋谷を踏みつけながらクアトロに向かった。一晩でいくつも失ったような感覚で、語られる前の言葉だけが頭を支配しており完全に混乱していた。その最中に観たbetcover!の演奏が素晴らしかった。それに心が少しほころびた自分に無性に腹が立ち、ようやく込み上げた怒りで全てを駆動させてしまった私では、伝えたかったことは何も伝えることができなかった。その体験が強烈だったので、あの日にそれまであった自分の理念のようなものが崩れ落ちたという感覚がある。消えたいくらい情けなかった記憶は思い出しても苦しくなるけれど、いつでも簡単に傷のつく自分で良かったとも今は思えている。そうそれで、それが今回の参議院選を迎えて、そして前の総理が撃たれてしまったことから感じたことで、その理念がようやくすげ変わったような気持ち。

 まずは選挙について、「選挙は国民の意思を表す唯一のチャンスだ」という捉えはもう少しズレてきているのかもしれないということ。結局今回選挙区は立民の石川さんに、比例は共産党と書いて投票した。前回の衆院選の野党共闘における立憲の立ち回りが個人的にしっくりきてなくて、志位さんや今回だと山添さんの言ってることがロジカルだと感じていたので応援の意味も込めて選挙区の方も同じ共産党の候補に投票したかったんだけど、北海道選挙区だと共産党の候補が勝てる見込みは無く死票になる可能性が大きい状況だった。北海道選挙区は全3議席のうち自民と立民どちらが2議席取るか、な状況だったので瀬戸際な立民の二番手候補へという流れ。自公の席を減らしたいが先立っていたので、結局入れたい人には入れれなかったなー石川さんもダメだったしという感じ。それで、これって私は意思を示せたことになってるの?というのが大きな疑問になった。もちろん答えはまだ出ていないのだけれど、誰しもが普段の生活の中で個の意思を表すチャンスがもっとあればなと思っている。デモやTwitterでの意思表示もそれあたるとは思っているけれど、場所的な意味でも、時間的な意味でも局所的過ぎると感じる。もちろん両方大賛成なんだけど、非都市部に住んでいるとその響かなさも感じる瞬間がある。アティテュードを同じくするものたちが比較的集まりやすい、コミュニティを作りやすい都市部に比べて、非都市部は恐らくそれが難しい。その熱を保ちづらい。人口約17万人ほどいる苫小牧に住む私ですらそう感じるなのだから、さらに人口の少ない街になればなるほどその疎外感も間違いなく強くなると考えられると思う。Twitterもものすごく大きな世界な感じがしちゃうけれど、ユーザー数は国内で4500万人程度だし所謂エコーチェンバー現象も相まって、自分の意思を表明してそれが伝わる範囲やそれを受け取った人間の意識が変わる可能性は思っているほど大きくないのだから、その影響力を過信してはいけないよねと思う。毎回の投票前のタイムラインの盛り上がりと選挙結果のギャップにそれをすごく感じる。もちろん意味がないとは全く思わない!けれどそれだけでOKとも全く思わない。選挙制度と同じように、誰しもの一人分が同じように、且つ恒常的に、効果的に、直接的に意思を示すことのできる行動はないものだろうかと考えている。もし既にあったら不勉強で申し訳ないけれど是非教えていただきたい。

 ではそこまでしてどんな意思を表したいのか、ということが本当は一番に来るべきだと思う。日々の暮らしの中でどんなことに困っているのか、どんなことが心配なのか、たまには嬉しいこともあの野郎たちに伝えたいよね、端的に自分はどういう社会に住んでいたいのか。保守系の論客だと自分でも言っていたけれど、先崎彰容さんという学者が少し前に言っていたことに部分的に賛成する点があった。それは日本という国が(この文言からくる妙な力強さというか圧迫感が何故か苦手だけど敢えて使う)どのような国なのか、どんな形をしているのかということを語れない政治家に改憲の先導などしてほしくない( 的なニュアンスだったと思う、、)という発言に全くその通りだと賛成する。彼のいうところの日本の形というのは伝統的な部分、どのような歴史が日本を形づけてきたのか、という意味だと思うけど、私は今日本に住んでいるあらゆる人たちも勿論日本を形づけていると思っているので、実際に暮らしている人たち自体の多様性は当然のこと、私たちがどんな社会に暮らしたいか、どんなことを幸せだと感じるかといったその願望の多様性やその多面性(人間は常に矛盾すると考えるから)まで吸い取って慮るような政治家じゃないと、改憲の議論なんて始めさせられないよという意見です。そしてそういった中で生まれた一見取り止めのなさそうな、七夕に短冊にでも書くような願望を一番に大事にして伝えていけたら、誰もが簡単に話し合える段階になれたらいいなと思っている。それで自民党はそういった理念の基に政治をする気が一切ないから、わたしは彼らのほぼ全てに反対する。ここまでが先日の一票に載せられたらよかった。

 それにしても実際、私の暮らす社会は一体どんな形をしているのだろうと考えている。社会が社会として形を保っているのかどうか正直微妙だとも感じている。去年のハロウィンの日のザッピングみたいに信じられないような出来事が目の前を通り過ぎていき、合間のコマーシャルは金を稼げとか投資しろとか会社を始めろとか煽ってくる。やはり今までのやり方はとうとう完璧に通用しなくなったみたいなので、別の方法を考えている。要になりそうなのは、あらゆる権威的なものを権威として扱ってやらないことじゃないかなと目星をつけている。あらゆる権威ってのは、メディアにおいてはテレビだし、プロ野球においては巨人だし、経済においては資本主義だし、Protoolsにおいてのグリッドだし、ドミナントに対するトニックだし、ジェンダーにまつわる問題における男性性だし、オカズにおいては焼肉だし、非都市部に対する都市部だし、裏拍に対する表拍だし、クワガタに対するカブトムシ????世間は非対称だ。なかなか大変だろうと思っている。ただ、これは途轍もない希望なのだけれど、芸術、特に私は音楽を作るものなので音楽においては、その 権威的なものの特性を理解することができればこの問題をクリアできる。どれだけ権威的でも、伝統的でも、音楽の中では箒で掃くように扱うことができる。かかってこいやって感じなのである。ついでだけれどSADFRANKはそれをやろうと思っている。もしそれを聴いて納得できたら是非皆さんにも始めてもらいたいと思う。そういう意味で芸術は素晴らしいと思う。生活の中で無意識にそういった権威的なものを権威として扱ってしまっている瞬間はないだろうか。少しずつ辞めていきたい。

 相変わらず苫小牧に住んでいる。相変わらず最低で最高な街だなと感じている。来たことのない人は是非一度訪れてほしいと思う。一度来た人にはまた来てほしいと思う。苫小牧市が税金を使って都市再生を謳って音楽フェスをやるらしい。全部他所から借りてきて、苫小牧の魅力を発信するらしい。自分らででっけえイオンを郊外に誘致して、駅前をゴーストタウンにして全部壊して、跡地にはパチンコ屋を建てたまさにその都市を借りもんで再生するらしい。ひっでえ分厚い面の皮である。文化も芸術もそんなところには顔を出さない。苫小牧がどんな歴史を辿って、どんな人たちが暮らして形づけているのかを考えてみれば明らかに悪手だとわかるはず。踊ったことのない人間に人を踊らせることはできない、というのはKiliKiliVilla与田さんの名言だけれど、政治も音楽もそこは共通するでしょう。そのフェスの主催に苫小牧の音楽で一晩遊んでほしい。NOT WONKのライブをELLCUBEで観て、その後ROOTSで踊り、疲れたらBaseで休んでほしい。私たちの文化はすでに始まっている。再生を望むならまず根に水をやってほしい。前段に通ずる話で言うと、都市部と非都市部の文化的格差を埋めるような動きは大賛成であるし、実際わたしが自分の音楽を通してやりたいことの一つである。なので今回の方法でイベントを開催するなら、せめて苫小牧だけでなく近郊の非都市部に住むキッズたちや働く親たちからは金をもらわずに素敵な体験をさせてほしいと願う。


3月にSADFRANKの
ツアーでいった長沼・さんぼんぎのスタッフの方々と

 先日数年ぶりに会った姪たちが半端なくデカくなっていて年頃の女の子たちとの間に流れる特有の気まずい雰囲気があったけれど、苺食って照れ臭そうに嬉しそうなのが非常に希望で、どんな子どもでも苺食って嬉しい顔できるような世界を我々大人が作らないとね、とひっそりマインド短冊に走り書きました。

2021.10.31 ~ 2022.7.12

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