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基本的な信頼

「客観性の視点を持つエニアグラム」を紐解いて行ってると、いろいろと新しい洞察、気づきがあって、ますますこの不思議なシンボルに惹かれて行くのですが、今回は「基本的な信頼」についての理解をまとめてみようかと。

基本的信頼とは、実現していること、落ち着いていること、苦労していないことと同義です。苦労しないというのは、自分自身に苦労しないということです。努力をしなくていいということではありません。木を切る必要があれば、木を切りますが、それが正しいことなのかどうか躊躇したり、自分のやり方を批判したりすることはありません。ただ薪を割るだけです。しかし、私たちの多くは、自分自身と戦っているため、単純にはできません。注意して観察してみると、自分自身と戦っているのは、信頼していないからだということがわかります。リラックスすれば、自分の人生に対処するのに必要な能力、知性、強さ、思いやりが得られるということを信じていないのです。(Facets of Unity : Almaas P49)

長年瞑想を基盤にした生活を続けてきている私の経験から言うと、「自分と戦わない」というのは瞑想をマスターするプロセスにも通じるところがあって、最初のうちはマインドがうるさいと言って戦うんですよ、みんな。

ただ呼吸を見つめて~、マインドがやってきてもただそれが通り過ぎるがままに~とか言われても、すぐにイラっとしたり、眠気がやってきて、ガクンとなった拍子に目が覚めて、いや~な気持ちになる、とかね。

振り返ってみれば、私も最初のうちはやっぱりイライラしていたなあ。数か月経ってから10日間のヴィパッサナーリトリートに入ってやっと瞑想が理解できてきた。

最初の2日間は肩ゴリゴリでもういや! とか思っていたのが、3日目を過ぎて急にくつろいでいる自分を見出し、それからやっと座ることの恩恵が感じられたということがあるので、瞑想をマスターするは一にも二にも根気だ! とか言ってたのですが、もしかしてその根本には「基本的な信頼」の欠如があったのかもしれません。

基本的な信頼がないと、私たちは自分の性質や内なる資源、そして自分を生んでくれ、常に私たちを支え、提供し続けてくれている宇宙への信頼が得られません。その信頼なしには、私たちは自分たちが本当の意味での宇宙の子供であることを経験しません。自分が見捨てられ、追い出された者で、一人で取り残された――取り残されただけではなく、能力が不足しているのだという経験をするのです。(Almaas, P29)

基本的な信頼を経験的に理解するのって、そんなに簡単なことじゃないなあ、と思う。「存在にゆだねる」とか「手放して、あるがままの状態にリラックスさせる」とか言うのを聞くと、「アタマではわかる」って感じになるんだけど、それって余計にわからなくすること。(笑)

アタマの理解っていうのはいちばん最後に来るんですよね。まずは経験から入ることです。つまりゆだねてみる。手放してみる。

これ私の中では静かな海に浮かぶ経験に近いものなんです。信頼がないとからだが緊張するから浮かばない。大丈夫、浮くから、って自分に言い聞かせて全身の力を抜くと簡単に浮く。ああ、これかって感じ。

現実そのものはとてもシンプルでわかりやすいんだけど、(基本的信頼がない)エゴにはそのシンプルさがわからない、自然な状態の正常さがわからないのです。

複雑さの例をあげてみましょうか? 

お腹がすいてご飯を食べているときに、あなたは本当に心が安らかな状態で食べているでしょうか? 食べ過ぎていないかどうか、栄養バランスはこれで良いのか、ちゃんと噛んで食べているか、などなど自分自身の状態と葛藤することなく、心から食事を楽しめますか? 通常私たちのマインドは、食事そのものだけではなくその前後の自分の態度とかふるまいについて考え、反省したり、判断したり、好きなものばかり食べるのは悪いことだと言ったりして、「食事をする」というシンプルな経験を複雑にしています。

あるいは、ただ目を閉じてくつろぎたいと思っても、マインドはあなたを放っておいてくれないんです。「あれやったっけ?」「このことはどう?」「ああ、またスマホを見て時間を無駄にしてる!」「休むべきなのに、そうしてないから疲れているんだ」ーーちょっと注意深く自分自身を観察してみると、心の中ではほとんど連続的にこのようなコメントが後を絶ちません。自分がやっていること、感じていること、考えていることを次から次に批判するのです。

極めつけは、批判しているその自分にさらにダメだしする。

「瞑想が足りないんだ!」なんてね。

私たちは、自分をただ静かに一人にしておいてあげることがない。目を閉じて座ろうとしても、ただ自分自身に身を任せるということはほとんどないのです。

「こんなことしても何も起こらない! 私は時間を無駄にしている!」

これが、信頼がないために起こる不調和ということです。さてさて、どうすれば良いのか? 私の経験ではですね、日々のプラクティスが大事ってことなんですよ。

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数々のスピリチュアルな伝統の中で語られる”光の質”は、マインドを通して経験される場合は「光と意識」として経験されます。それは、ハートでは「無限の愛」として経験され、肚では「意識のある存在が広がっている」ように感じられると言います。

このことに意識を向けたときに思い出したのは、ある昼下がりに砂浜を歩いていたときの体験ーー。私はあることで気持ちが沈んでいたんですが、急に雲の合間から光が射してきて眩しさに手をかざしたんですが、目を閉じる直前にその光が私のハートの中にまで浸透してきて、、、。

そのとき光の粒子が瞼の裏側で輝き、あたかもハートの中にもその粒子が広がったような感覚におそわれて、大きなため息をついたんです。

そしてですね、私は決して話を大きくするつもりではなくてほんとうに起きたことなんですが、目を開けたらさっきまでの憂うつさが消えていたんです。

基本的信頼と、光の粒子
私たちを取り巻く全宇宙という存在に意識的になるってことかなと。

Oshoの、こんな言葉を見つけました。

この宇宙は何万という星をホールドしながら、それらをオーガナイズし、ケアしている。そんな偉大な宇宙が、私のようにちっぽけな一人の人間をケアできないはずがないだろう。

いやあ、全く! Osho、言ってくれましたね~って感じで、それからは私は先述した経験も含めて、気分が落ち込んで自分が存在から離れていると感じた時はいつでも、この言葉を思い出すようにしています。

そう、リラックスして、信頼感を持ち、「自分はケアされている」「物事はうまくいく」という感覚を持っていると、存在のケアは次から次にやってくるんです。

先日まで出ていた蕁麻疹、ほとほと困って、いつもは尋ねない友人に尋ねたら、正しい医療を推進するほんもののお医者さんを紹介され、からだは回復に向かっています。

どうしようもないとあきらめていた左肩のコリは、急に思いついたヨガの基本ストレッチでどんどん緩んで来るし、先日は失くしてしまった専用コードをメーカーに問い合わせたら断られたのに、もしやと思って修理工場に電話したら、電話口の人が親切にも理解してくれて、「どこにも売っていないですものね」と言って送ってくれたり、、、。

普通はありえん、と思うようなことがどんどん展開して行くんです。そうなると「基本的信頼」を取り戻していけるんだなあ、って。

つまり、全身全霊で信頼していることを感じながらハートを開いているというのがエクササイズ。

すると、そのときの私はくつろいでいるというのが実感としてわかります。くつろいでいると、全身のエネルギーが流れているのもわかる。そうすると、第一に私はとてもクリエイティブになる。さらに勇気を持って可能性の方向を見ているのが自分でもわかります。しかも人生に対して気楽な態度があるんですね。ずっと月を眺めてられるし、お天気だろうが曇りだろうが、「ああ、そうなんだ。」って感覚があり、、、お掃除もお片付けも、楽しんでやっていることが自分でわかるって感じ。

今のままでいいし、ここから進んでいっても大丈夫という感覚があります。だからエゴの思い込みや、マインドの干渉を受けずに、過ごしていけるんですね。「私たち人間がどのように発展していくべきかなどほんとうのところは誰にもわからない」と言った人がいますが、全くその通りです。基本的な信頼が深ければ深いほど、ただ自分があるべき姿に開いて行くことなんだって信じることができるのです。

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