『零號琴』 感想

この本を読んでいる間中、わたしの頭の中に、次々と『零號琴』とは違う別の物語が鳴っていた。

作者が言うように、お話としては新しいものはないのであろう。
確かにどこかで見た道具立てで構成され、世界征服を狙う悪役、世界の破滅に立ち向かう主人公が物語を彩っている。
そんなにサブカルに造詣が深くない私ですら、いくつもの元ネタに気づく。プリキュア、ゴジラ、鉄人、アトム、ゴレンジャー、火の鳥etc・・・・・・。
しかし、読書体験としてのこれは、新しいなんて言葉で言い表すことができるものではない。
本を読んでいて、自分が何を読んでいる(読まされている)のかを疑うことがあるなんて思いもしなかった。
小説を読んでいて、場面以外の場面が二重写しに見える体験をするなんて!
スゴ本の中の人は読書の拡張現実と表現していたが、本書のテーマから鑑みて、私はこれを読書体験の和音と表現したい。

どんな技術なのかさっぱりわからないが、この物語はわたしの中の物語をリファレンスにして、様々なビジョンをデコードしていく。
あきまんさんが「絵の中の鍵」という表現をつかっていたけれど、この作品はその技法を小説で行っているのだろうと感じる。
そして、その鍵の数が尋常でないがゆえに、パロディとかオマージュといった単線的なかたちではなく、重層的に立ち上がり、場面以外の場面が勝手に見えるのだろう。
私は見てもいない旋妓婀フリギアの最終回を見ているし、きっとこの後に新シリーズが始まることも知っている。

はっきり言って物語は何も収束していない。
轍世界や行ってしまったひとの謎なんかはそのままだし、主人公たちの出征の秘密もノータッチ。広げた風呂敷は全くたたまれないままカーテンコールを迎える。
先日読んだ『出会って4光年で合体』のエンドマークまでの編み上げ方とは対極にあるようだ。
でも、そんなことはこの本の魅力を全く損なわない。
むしろきれいなエンドマークを憎んでさえいるようだ。
この本の中でもなきべそのフリギアの終わりに異議が唱えられ、語りなおされ別の物語が編まれ始める。
物語の終わりが新たな創作者の心に蹴りを入れ、物語の糸が縒り合されていく。

物語は昔のものの模倣に過ぎないと言われてからすでに何年経っただろうか。おそらくそれは一面の真実なのだろう。
きっと物語は過去の模倣と合成と反復でできている。
でも、それを言うならクラシック音楽なんか反復だけしかないじゃないか。
それなのにいまだに魅力的であり、何度再演されてもこれだけあれば事足りるという偉大な一つは生まれていない。
小説だってSFだって、いつまでたってもそうなのだろう。

文章表現の新境地。
過去を縒り合わせて未来を見せる、この手練手管に感嘆する。
連載版とは大分違うらしいので、過去に戻って比べてみたい。

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