人の痛みがわかる人間になることの難しさ

いきなりで申し訳ないが、人の痛みがわかるとはどういうことだろう?

医学的・心理学的な見地からその痛みを推察する?

兎に角相手になったつもりで痛みを想像しようとする?

理解できなくても、その苦しんでいる様子を見て、救ってあげたいと思う?

僕は人の痛みがわかるということには2つのタイプがあると思う。1つ目は理解だ。これは上の医学的・心理学的な見地からその痛みを推察することや、救ってあげたいとまでは思わなくても、その苦しんでいる様子を認識することなどに相当する。2つ目は納得(あるいは共感)だ。これは上の兎に角相手になったつもりで痛みを想像しようとすることや、苦しんでいる様子を見て、救ってあげたいと思うことなどに相当する。

その苦しみが肉体的・社会的に顕わなものであるならば、理解は容易いし、そうではないものでも、知識があれば理解できる。

しかし、納得には才能が必要だ。

共感力という才能のある人は、理解さえできれば、その才能を使って相手に共感し、人の傷みがわかる人間になることができる。

けれど、僕のような共感力という才能が乏しい者にとっては、これは決して簡単なことではなく(無理な場合もある)、また、たとえ一度できたとしても、続くとは限らない。

今まで沢山の人を傷つけてきた。

自分のことを常に真っすぐ見て、接してきた恩人を、最後の最後で起こったネガティブな感情によって批判したり、縁を切ったりしてきた。

親に対してもそうだ。いつも僕を真正面から見つめてポジティブなことをしてくれた親という存在に対し、その想いに納得できず、何か別の理由に基づく扱いだと無意識的に思ってしまって、不遜な態度を取ったり、不遜な要求をしたりしてきた。

その残酷さ・酷薄さに気付いて、申し訳ない気持ちで泣き腫らしたりもするが、一晩寝るとそんな感情も忘れて、いつもの自分になる。

非常に残酷で恐ろしい。

しかし、そう思ったとしても、同時に頭の片隅では「これくらいの人は周りに幾らでもいるし、自分だけが特別ではない。社会に出ても、うまく立ち回りたい」などという利己的な考えの起こる自分がいる。

自分は果たしてこういった状態から自由になることができるのか。

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