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ロバート・クワイン ロングインタヴュー(November 1997)

ジェイソン・グロス氏によるインタヴュー (November 1997)

ロバート・クワインとは?彼によれば「音楽史の中で最も説得力はあるが、憎悪され、万人受けしない人物の一人である」という。その意見が少し寛大すぎるとすれば―ケネス・コールマンはクワインへのオマージュを次のように書いている―「クワインはリチャード・ヘル、ルー・リード、ブライアン・イーノ、トム・ウェイツ、マシュー・スウィートなどとたまたま一緒に仕事をしたサイドマン、協力者であり、彼らの音楽の重要な一部でもあり、批判的に彼らの音楽を支えてきた」と。彼の仕事のほとんどはこれらの有名なパフォーマーとの仕事なので、彼自身が有名になったわけではない。彼のギタープレイは確かにそれを正当化するのに十分な特徴を持ってるが、実際のところ、彼の名前が挙がっているアルバムは2枚しかない(いずれもコラボレーション)。それでも、彼の作品を知る人は誰もが彼を熱狂的に支持していることが、このインタビューのためにいくつかの情報を聞き出したときに分かった。どんな年老いたセッションマンでも時間内に正しい音を演奏することはできるが、クワインはただ単にTEARS IT UPを演奏していてもどんな囚われも感じさせない。彼のソロは、あなたも知っているはず。彼をギタリストのなかのギタリストと呼ぶのはどうかな?イメージだけは伝わる
とおもう。

(フィリップ・ブル、スコット・ラッセル、クリストファー・ハミルトン、マイケル・パイパー、そして特にジム・デロガティスとアリス・シャーマンに多大なる感謝を捧げます。)

2004年6月 旧友のジム・マーシャルがクワインが自ら命を絶ったと報告してきた。クワインはロックのギターのボキャブラリーを変えた。ありがとうボブ。

PSF:初期の頃の話をしましょう。

俺はアクロン(オハイオ州)出身で、いつも音楽に夢中だったんだ。4、5歳の頃にはジーン・オートリーのレコードを持っていたよ。両親は音楽にかなり興味を持っていて、ギターがG7/C7を何度も何度も繰り返しているブラジル音楽を聴いていた。50年代の初め、強制的にピアノのレッスンを受けさせられたんだ。それはかなり嫌な経験だった。読譜することは、俺にとって本質的に憎むべきことなんだ。音楽を数学のようなものにしてしまうからね。

ロックンロールがヒットしたのは55年で、12歳の時だった。それは俺を完全に変えてしまった。その前はフランク・シナトラに熱中していたんだ。でも、それがヒットした時には、すべてが終わっていた。生々しかった。最初に買ったロック・レコードはフランキー・ライマン&ザ・ティーンエイジャーの「Why Do Fools Fall In Love?」中盤のサックス・ソロは完全にフリーキーで、アルバート・アイラーのように聞こえた。けど、叙情的だった。それが俺のオブセッションだったんだ。ロックには良い年も悪い年もあったけど、最高の年は'55年から'61年初頭だったから、その頃に立ち会えてラッキーっだったとおもう。バディ・ホリーや他のみんなも観れたしね。

58年にギターのレッスンを受けた。当時はロックンロールを教えてくれる人を探すのは大変だった。独学が必要だったんだ。友人がEコードを教えてくれたので、そこから考えたんだ。1961年にエレキ・ギター(フェンダー・ストラトキャスター)とトレモロ・アンプを手に入れたのが人生のターニング・ポイントだった。俺はリッチー・ヴァレンスに憧れていて、彼がストラトキャスターを持っているのを見て、絶対に手に入れなければならないと思ったんだ。トレモロにはビブラートが内蔵されていた。61年の夏はベンチャーズのファースト・アルバムを弾けるように独学で勉強したよ。

俺は大学(1961年のインディアナ州)でずっと演奏していたんだけど、そこに着いた頃にはロックンロールはかなり悲しくなってきていた。それが俺をブルースに駆り立てたんだ。ラジオ番組でジョン・リー・フッカー、ライトニン・ホプキンスとかがヘヴィなブルースを演奏していた。俺のバンドはリンク・レイやザ・ベンチャーズ、デュアン・エディ(彼は嫌いだったけど)などを演奏するのがふつうだったよ。

ブルースに飽きた後、ジャズに入れ込んだんだ。ラムゼイ・ルイス、ミルト・ジャクソン、ケニー・バレルといった本当にファンキーなものから始めたよ。65年頃には少しずつ耳が肥えて、ジミー・レイニーまで行った。俺はそれなりに耳が良かったんだけど、それを演奏することができなかったんだ。ロックに比べて、そういうものを聴き取るにはかなりの知性と訓練が必要なんだ。でもビル・エヴァンスの『Portrait In Jazz』は、ジョン・リー・フッカーのレコードと同じくらいの影響を俺に与えてくれた。その後、当時起きていた前衛的なものにハマっていったんだ。コルトレーンの「アセンション」や「メディテーション」。その頃に何度か彼を観たよ。俺はこの手のものを理解しようと必死になっていんだ。転機となったのは1966年にサンフランシスコにいた時だった。アリス・コルトレーン、ファラオ・サンダース、ラシッド・アリと一緒に彼を見たんだ。俺はこのことを分析して理解しようとしていた。最前列にいて、突然、この2つのホーンが俺の顔の中に入ってきたんだ。「よし!わかったぞ!」と呟いた。 感情的に理解したんだ。それまでは、分析しようとしすぎたんだ。まるでハウリン・ウルフのようだった。一度理解するところまで到達してしまえば、感情的な要素は悲しいブルースのいくつかよりも暗いものになる。みんなにお勧めしたいのは、レスター・ヤングのジ・アラジン・セッションズだ。彼のバラード演奏に「These Foolish Things」がある。悲しみを超えた諦め、自己憐憫の気持ちが込められている。それが俺の演奏に影響を与えている。でも、自分でジャズを弾く技術がないんだ。でも、当時は自分がジャズミュージシャンになれると思っていたよ。バカだったな。

俺が大学に行く頃は、また壁にラクガキがあった。58年にはキングストン・トリオが出てきて、テレビでフーテナニーの番組が放送されていた。イギリスの侵攻が始まるまではそうだった。俺と俺の友達はまだロックンロールが好きだった。イギリスのグループは、11歳の女の子にとっては、ジョークのような現象だった。60年代半ばになると、ローリング・ストーンズにのめり込み、エド・サリバンのビートルズを見て、「彼らは本当に演奏して歌えるんだ」と思ったよ。ストーンズは意地悪くて醜くて、俺がよく知っている曲をやっていた。

65年まで、俺は惰性で法学部(セントルイス)に通っていた。ベトナムには行きたくないと思っていた。セントルイスでバンドをやっていたんだ。その頃、俺に影響を与えたものは、ストーンズの最初のアルバム、バーズの最初のアルバム、後にヴェルヴェット・アンダーグラウンドだった。でも初めてV.U.を聴いた時は、今まで聴いた中で最悪のバンドだと思ったよ。1年後、友人が「Waiting For My Man」を何度も何度も聴かせてくれて、すっかりファンになってしまった。彼らには地球上に20人のファンがいたに違いない。アンディ・ウォーホル効果が連中に作用したんだな、じゃなきゃESPディスクに収録されていなかっただろう。彼らはデス・ロック・バンドとして知られていた。

PSF:その後、本格的なファンになったんですね。

そうさ、それで俺は友人を連れて彼らを見に行った。ルー・リードと話すのは怖くてできなかったけど、彼は十分にフレンドリーだったよ。俺が1969年にレコーディングしたサンフランシスコのマトリックスのライヴでのことだ。彼らは週に何度かクラブで2人か3人でショーをやっていたんだ。俺はその中の一人だったから、彼らは俺を知っていて、仲良くなって、それを録音したんだ。彼らの最高傑作の多くはその頃のライブにはないけどね。ある夜、彼は'Waiting For My Man'で新しい歌詞を完全に即興で作ったんだ。

例えばその曲を例に挙げると... 歌詞は... 詩という言葉は使いたくないが、ロックンロール界には詩人はほとんどいない(チャック・ベリー、ルー・リード、ボブ・ディランはいるが)、ルー・リードは詩の要素を重視しすぎている。(その曲の)歌詞はパーフェクトだ。それとアレンジの対称性だな。その先にあるのがドラムとベースのわざとらしいキチガイっぷり。終盤のベースウォーキング。曲の途中で「ワーク・イット・ナウ」と言ってギターソロがない。カッコいいってもんじゃない。

セカンドアルバム(White Light/White Heat)は俺の人生を完全に変えてくれた。「シスター・レイ」「I Heard Her Call My Name」。何千時間もヘッドフォンで聴いていたよ。それは俺に大きな影響を与えた。ラリー・コリエルのようなロックミュージシャンがジャズを演奏しているということで大騒ぎになり始めていたが、本当の意味でのフュージョンじゃなかった。ルー・リードがやっていたことは、実際にオーネット・コールマンを聴いて、意図的にオフハーモニックなフィードバックをしたり、意図的に単調にしたりしていた。この手のものはジミー・リードのようなもので、単調であるか、催眠術的であるかのどちらかだ。俺にとっては催眠術的だった。

PSF:その後は何をしていたんですか?

俺は69年にミズーリ州の司法試験に合格していた。サンフランシスコの司法試験にも合格するため引っ越したが、何度も不合格だった。諦めてそこから去った。 そこの住人になるため髪を短くして グレイトフル・デッドとジェファーソン・エアプレインを嫌いになった...

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、バーズ、ジャズを聴いているうちに、自分のスタイルが出来上がってきたんだ。アセンションを聴いたり、LSDを飲んだり(家ではやるなよ、キッズたち)。その時に突破口が開けて、あるレベルのものを聴き始めたんだ。それが俺を創ったといえる。それはエルヴィスのサン・セッション、ファッツ・ドミノ、ボー・ディドリー、ジェームス・バートン、ミッキー・ベイカー、リトル・リチャードなんかだった。

PSF:ジャズはどうですか?

さっきあげた以外で俺がホントに影響されたのはは72年から75年にかけてのエレクトリックなマイルス・デイヴィスの作品以外にはないな。オン・ザ・コーナー、ゲット・アップ・ウィズ・イット、He Loved Him Madlyは今までで一番好きな作品だ。最初に聴いたときは退屈だと思った。彼はビッチズ・ブリューでロックに手を出したが、ジャック・ジョンソンの頃には(ロックにも)囚われなくなっていた。彼は商業的に自分の喉を切り裂いた。ジャズの純粋主義者たちはそれを扱うことができなかった-ただのノイズとテクスチャーの壁に聞こえたんだろう。コロンビアはヒッピーのためにライヴ・アット・ザ・フィルモアを宣伝したが、あまりにも抽象的だった。彼らはもっとヘヴィ・ロックなJack Johnsonを待つべきだった。そうすれば彼はそのオーディエンスの心を掴むことができたかもしれない。しかし、それは遅すぎた。あの作品はいまだ過小評価されている。He Loved Him Madlyでは彼の切れ味が少し落ちているのかもしれないが、感情的には、彼の最も深いステートメントの一つとみなされるだろう。落ち込んでいる時、セックスをしている時などに聴くといい。

それとイギーとザ・ストゥージスの『ロー・パワー』が当時の俺のお気に入りだった。彼(Iggy)は『ゾンビ・バードハウス』のような悪いアルバムのツアーに参加させようとしてくれたんだ。彼は偉大な人の一人だけど、新しいリミックスであのレコードに何をしたのかは疑問だな。「このリミックスなら最新のスマッシング・パンプキンズに匹敵すると思う」だって。うわー。

もう一人の影響はブライアン・イーノだ。彼は70年代後半から84/85年までニューヨークに住んでいた。彼とはとても良い友人だった。彼とはたくさんレコーディングをしたけど、ほぼリリースされてないな。彼が『On Land』を作ってくれたから、アンビエントなものをもっと評価するようになったよ。He Loved Him Madlyに彼を入れたんだ。

PSF:その頃はどこでライブをやっていたんですか?

69年から76年までは人前でプレイすることはなかった。家では一人で弾いていた。そうこうしているうちに、2度ほど司法試験に落ちて、ニューヨークに知り合いができて、71年8月に引っ越してきたんだ。昔のガールフレンドに誘われて来たんだけど、ここに来たら「もういいよ、好奇心は満たされた」って言われたんだ。イタズラもいいけど...

俺はお金がなく、仕事を探すことを余儀なくされた。ミズーイでの仕事をしていたので、ニュージャージーでプレンティスホール出版のために税法を書く仕事に就く資格を得た。これ以上退屈な仕事はない。俺は3年間それをした。恐ろしいことに直面して、考えさせられた。両親や社会から音楽家になることは受け入れられないと洗脳されていたが、それまでに、少なくともそれを試してみることにした。聴いていたマイルス・デイビスの曲を通して、俺の演奏は発展し始めた。

PSF:ニューヨークのシーンに出てきたきっかけは何ですか?

ここに来てから、何かの煽りを見るようになった。74年にスーサイドを見たんだけど、かなり怖かったよ。テレヴィジョンの最初のライブも見た。彼らは本当にボロボロでずさんだった。彼らはみんな安物の楽器を演奏していて、俺はそれが好きだった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのようなものが聞こえてきた。その時に税金の仕事を辞めて、バンドをやろうと決めたんだ。ヴィレッジ・ヴォイスの広告に答えて、バンドのオーディションを2日間受けた。それが一番悲惨だったな。連中は悪くて怖かった。俺の髪が長くないから嫌われたんだ。その頃にはブルックリンにいて、その夏は飲んだくれていた。それが嫌になってやめて、ストランドの本屋に就職したんだけど、税金の仕事よりは少しマシだったよ。

ストランドに嫌気がさした俺は、75年頃にシネマビリアという映画のポスターや本を扱う会社に応募したんだ。偶然にもそこで働いていたのはトム・ヴァーレインとリチャード・ヘルだった。一年もしないうちにヘルとは良い友達になった。音楽の話をするようになったんだ。彼が最大の影響を受けたのはローリング・ストーンズの『NOW』、ディランの『Bringing It All Back Home』、『ベースメント・テープス』、ストゥージズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドだった。俺は50年代(60年代に起きたことよりももっとワイルドでシュールなことを俺は知っている)の古い作品のテープを職場に持ち込んだりしていて、彼は俺のルーツがどこにあるのかを見て、それを本当に評価してくれたんだ。

PSF:では、どのようにして彼と仕事をするようになったのですか?

1年くらい経った頃、彼は俺の家に来てレコードを聴いていた。彼はその時点でハートブレイカーズを辞めようとしていた。彼は自分のバンドを持ちたいと思っていたんだ。彼はイギリスでマルコム・マクラーレンのオファーを受けていた。俺たちはセックス・ピストルズになっていたかもしれない。彼はバンドを始めるためにイギリスに行くことを望んでいた。なぜそうならなかったのかはわからない。ピストルズはスタイル的にはヘルをモデルにしていた。ヘルは俺のルックスに問題があると思った。「君は教授のように見える」と言ったんだ。「そうだけど CBGBの店では誰もそんな風には見ない」と俺は言い返した。 彼を喜ばせるためにヒゲを生やした。サングラスをよくかけていたが、それも彼のせいなんだ。

ヘルは本当にテレヴィジョンを愛していたが、ヴァーレインは彼をバンドから追い出した-彼は彼の歌をうたおうとしなかった。ヴァーレインはあまりにも独裁的すぎた。それからハートブレイカーズとのコンビは良い組み合わせだったが、彼にとっては少しフツーすぎるものだった。それは素晴らしいバンドになり得たかもしれないが、彼は無調とノイズに翻弄されるヴァーレインの要素を見逃してしまった。彼は俺の家で俺の昔のバンドのテープを聴いていて、俺が何でも演奏できることに気づいたんだ。そしてウェイン・カウンティで演奏していたマーク・ベルというドラマーを見つけた。最初に広告に応答したのはアイヴァン・ジュリアンだった。彼のギターケースにはキース・リチャーズの写真が貼ってあった。俺たちはみんなストーンズにハマっていて、彼は俺よりも優れたリズム・プレイヤーだった。すぐに決まったのは、あのEPをオーク・レコードから出すことだった。多くの人が、俺たちがやった中で最高の作品だと思っている。たぶん、俺たちがやったことの中で最もパンクなものだと思う。

その後、4、5ヶ月間猛烈にリハーサルをした。リチャード・ゴットサーラーとマーティ・タウに銀行から融資を受けていた。週に一度の給料をもらっていたので、仕事を辞めることができたんだ。小さなスタジオで仕事をしていた。俺はいつも自分のバンドのリーダーだったから、誰からも指示を受けづらかった。今でもその名残がある。個性のぶつかり合いだった。歯医者に行ってリハーサルをするようなものだった。けど、そこから何か価値のあるものが生まれた。 互いの話を聞いて何でも言い争ったんだ。

『ブランク・ジェネレーション』はよく持ちこたえていると思うよ。ヘッドフォンで聴くと、ギターとの戦いの賜物だよ。やりがいがあったよ。あのアルバムは2回作ったんだ。77年の春にエレクトリック・レディでやったんだけど、その時の方が音が良かったんだ。サイアーがワーナー・ブラザースと流通契約を結んでいたからリリースが延期されていたんだが、ヘルの答えは「もう一度アルバムを録りなおそう」ということだった。俺らはプラザ・サウンド・スタジオに行ったんだけど、音はあまり良くなかったよ。

当時はセックス・ピストルズやラモーンズが聴ける時代だったので、人々はそれをどう評価していいのかわからなかった。俺は誰よりも自分の作品を貶めてきたが、それ(『ブランク・ジェネレーション』)は持ちこたえている。誰かのために演奏して、「これを誇りに思う」と言えるんだ。これまでたくさんのアルバムに参加してきたけど、本当に誇りに思うアルバムは数枚しかないよ。

PSF:当時のバンドはどうだった?

自分の勝手な思い込みからすると、自分にはぴったりだった。俺はたまたま、突発的に流行していたものから影響を受けていて、時流に合っていたんだ。多くの人の基準では、俺の演奏はとても原始的だけど、パンクの基準では、僕はヴィルトゥオーゾなんだ。70年代初期の地元のロック・シーンの人々は俺をかなり見下していた。76年10月にCBGBで初めてプレイした後、彼らは俺を尊敬してくれた。俺にとって良かったことは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやストゥージスのような、消えてしまった古い影響を引き出していたことだった。

シーンとしては、同じカテゴリーに放り込まれ...ブロンディ?トーキング・ヘッズ?ハートブレイカーズ?ザ・シャーツ?ただのキャッチオールだった。たまたまこの街でバンドをやっていたってだけで、時期に適っていたってことだろうな。ブロンディが大ヒットしたのはディスコ・ソングだったけどね。でも彼らはいい人たちだよ。ソーシャル・シーンはあったけど、音楽シーンがあったとは言えない。ディスコに代わるものとして、イーグルス、キャロル・キング、ジェームス・テイラーなどがあったんだ。それはみんなおなじようなことだよ。みんなニューヨークに来てCBGBでプレイして契約を結ぶことができたんだ、B-52's(連中はすばらしい)のようにね。

それから何があった?何もない。80年代に何があった?何もなかった。70年代よりもっとひどかった。俺はグランジを追いかけたことはない。レコード店に行くと、最近リリースされた作品の前を通り過ぎて、Eddie CochranやLink Wrayのレア盤を探すんだ。今は本当にいい人たちが何人かいるんだけどね。プリテンダーズは本当に素晴らしい。彼女もアクロン出身だし、彼女らと一緒に一曲やりたいけど、彼女は完璧主義だと聞いている。J.J.ケイルは僕のアイドルだよ。彼のインタビューは最高だ。彼はヒットしたんだけど、彼のマネージャーが「ヒットしたらツアーに出ろ」って言うんだ。彼はこう切返す 「ヒットしたならなぜツアーに出る必要があるんだ?」と。

PSF:その後、ヴォイドイズはどうなったんですか?

俺たちはたくさんプレイしたよ。その中には恐ろしいブートレッグもあるんだ。その頃の僕らはかなりタイトで、獰猛なエネルギーを持っていたんだ。CBGBでライヴをやったんだけど、俺は「いい音だったよ、今夜は本当にバンドのような音だった」と言ったら、みんな怖がるように俺を見ていた。イギリスツアーの時は本当に最悪だった。77年の秋にクラッシュのオープニングをやったんだけど、唾をかけられたり、缶ビールで殴られたりしたんだ。サイアーはツアーが終わるまでレコードをリリースしようともしなかった。俺たちが一ヶ月間演奏した後の最後の夜に、ツアーのポスターを貼っていたんだ。最悪だったよ。初めての本格的なツアーだったんだ。アイヴァンはファウンデーションズ(「Build Me Up Buttercup」)のツアーに参加していた。ヘルは体調を崩していた。ひどい経験だったよ。

俺たちが(NYに)戻ってきたとき、俺たちは基本的にスルーされていた。俺たちは2年間、足を引きずっていた。皆あまり興味がなかったんだ。サイアーとシーモア・スタインが嫌っているのは分かっていた。彼らは俺たちをゴミのように扱っていた。作品がリリースされてもサンプル盤をくれなかったし、リチャードに聞けと言われてオフィスにも入れてもらえなかった。彼らは俺らのために何の役にも立たなかった。彼らはヘルにサインをさせ、それがあらゆる法的問題を引き起こしたんだ。俺はそのレコードから印税を一銭も貰っていない。当時のバンドはヘルに圧力をかけていたようなもので、彼がサイアーを辞めなけれなければ俺たちが辞めると言っていたんだ。

その間、 78年の初め頃 ヘルの映画が作られていて、俺たちは飢え死にしていた。マーク・ベルは脱退するし。映画(BLANK GENERATION)はひどかった。CBGBの生演奏もあったけど、拍手はオーバーダビングされていた。それは非常に気取っていて、偉そうなものだった。ヘルは良かった。その頃、彼はロックンロールを捨てる準備ができていた。彼は才能のある人だが、ベースを弾くことには興味がなかった。

彼はステージでの演技にもっと力を入れたいと思っていたので、演奏するのをやめてしまった。彼はかなり良いベーシストだったから、それは最悪の結果になってしまった。彼は、あらゆる無秩序で残忍な演奏をしていたが、ステージ上ではその方が良かったんだ。ベースを持っていない時はマイクにしがみついていた。最後にはステージの上に座るまで、だんだん怠惰になっていった。彼は俺を煽りたがっていた。彼が歌おうとすると、俺は彼のボーカルの上にギターソロを被せ弾いたり、間違ったコードを弾いたりしたんだけど、彼はそれを理解してくれた。彼は「ボブ、君の演奏が上手くなるために、どうしてこんなことをしなきゃいけないんだ?」って言ったな。

俺たちはいろんな人たちと攣るんだよ。ジェイク・リヴェリアが拾ってくれて、ニック・ロウがプロデュースしてくれた(彼は俺たちがやってることに関してはポップすぎた)。その頃、78年の終わり頃には誰も俺たちに興味を持ってくれないことに気付いたんだ。そこでエルヴィス・コステロと2ヶ月間ツアーをしてイギリスに滞在し、ニック・ロウがアルバムをプロデュースしてくれるという契約になったんだ。それは厳しいツアーだった。コステロはどんどん人気が出てきて、パンクではなくなってきていた。観客は俺らに興味がなくて、俺らがステージに立つと拍手が止まるんだ。俺たちは電気もないような悲惨な村で演奏したんだ。ジェイクもみんなも、みんながお互いを憎み合っているバンドの状態を見ていたし、ヘルはほとんど新曲がない。ツアーが終わって、俺らは家に帰った。彼らはデモを作るためにいくらかのお金をくれたけど、そのお金の多くはレコーディング・スタジオには届かなかった。彼らはそれをヘルに送ったんだ。俺たちに残されたのはデモを作るための1日半の時間だった。それが俺にとってのバンドの終わりのようなものだった。俺たちは中西部のツアーを少しやったが、それなりに稼いでいた。何年も続けられたかもしれない。けど79年10月にはバンドに未来はないとわかったんだ。俺はアイヴァンに辞めると言って、アイヴァンはヘルに電話して辞めたんだ。もうクリエイティヴィティはなく、何も残っていなかったんだ。


1年半経過した後、ヘルはマーティ・タウからオファーを受けた。俺は「OK、早く痛みを伴わないようにしよう」と言ったんだ。マテリアルで一緒にプレイしていたフレッド・マー、Naux―本当に素晴らしいギタリスト、ベース(ありがとう、神様)のヘルという本当に良いバンドが集まったんだ。1週間ほどリハーサルをして、ベーシックトラックを作った。81年の初めには完成したんだ。金銭的な問題があって、スタジオはテープを1年ほど保管していた。ベーシックトラックを作ってスタジオをブッキングしてもらった後、ヘルは(個人的な問題で)1週間半ほど姿を消した。俺とNauxは1週間半の間にオーバーダブをしてもらったんだ。それで一旦、自分の作業から解放された。おわった後は、ミックスに何も付け加えたくなかったんだ。ギターが渾然とした感じだったからね。聴衆の反応を考えると、このレコードは悪くない。最初のアルバムほどではないけどね。「Time」は本当に良かったよ。それで何度かギグをやってお金を稼いだんだけど、もう熱意がなかったんだ。81年に'Blank Generation'をプレイするのは奇妙だったよ。その頃は彼(ヘル)にはかなりうんざりしていたよ。俺たちはいつも些細なことで喧嘩をしていたけど、結局はいつも友達だった。

PSF:ここニューヨークの「No Wave」シーンにも関わっていましたよね?

うん、ちょっといいシーンだったよ。Teenage Jesus(リディア・ランチと)とDNA(アート・リンゼイとモリ・イクエと)をプロデュースしたんだ。DNAでは、ギターをラウドにミックスして、キーボードのことでロビン(クラッチフィールド)と喧嘩したんだ。俺はあの恐ろしいノイズを使って俺ら(ヴォイドイズ)も方向転換したかった。その頃にはヘルはもっと商業的な曲を書いていたんでね。俺の性格はプロデューサーには向いていないんだ。グループには手を差し伸べたり、カウンセリングが必要で、俺にはそれができないんだ。

PSF:その後、ルー・リードと一緒にプレイした時のことを教えてください。

音楽的には、4年間の中で最初の1週間半は本当に素晴らしかった。『The Blue Mask』をやったんだ。本当に誇りに思うレコードだよ。リハーサルもオーバーダブもなく、ミスのためのパンチインもなかった。ヴォイドイズとは正反対だ。俺は彼を鼓舞し、またギターを弾くように励ました。彼と一緒に楽しむことはできなかったけど、少なくともそれは音源に残ってるし、それを誇りに思うよ。フェルナンド・サンダースとドアン・ペリーはレコードのプリミティブな演奏に驚愕してたよ。そこには激しさがあって、ミュージシャンとしてお互いに反応し合ったんだ。ジャズのレコードではないけど、そういう感触があるんだ。彼は「Waves of Fear」で俺が持ち込んだワイルドなアイデアを聞き入れてくれた。『Growing Up In Public』の直ぐ後の作品だったから、彼は失うものがなかったんだ。

どんな個人的な問題があっても我慢してたけど、いまだに残念ではある。でも、彼はいい人じゃない。ある意味では、彼は私を尊敬していた。怒鳴られたら、怒鳴り返すし、俺は率直で、人をバカにしない。彼の問題は、彼に媚びる「イエス」の男性に囲まれるのが好きなくせに、彼は頭がいいからそのこと(媚を)知っていて、そのために彼らを嫌うという問題だな。だから彼はたくさんのハックミュージシャンのうちの一人で終わってしまうということだ。

『ブルーマスク』は非常に大きな批評的成功は収めたが、あまり売れなかった。でも、彼の自信にはなったよ。82年後半に『レジェンダリー・ハーツ』を作った時には、彼はもっとコントロールフリークになっていた。彼は俺が持ち込んだアイデアを拒否するようになった。自分のキャリアを大事にしていた。彼の最大の弱点は、詩人として評価されたいという承認欲求があること。それを意識すればするほど、悪い曲を書くようになる。でも、(『レジェンダリー・ハーツ』はかなりいいレコードになっていたかもしれない。それでも前作ほど良いものにはならなかっただろうけど。彼と友達になるのは不可能なんだ。最終的なミックスが出来上がった時、俺は本当にビビったよ。彼は俺をレコードから外すようにミックスしたんだ。(それを聴いたとき)僕はオハイオ州にいて、それを車道から取り出して、テープを粉々に砕いたんだ。1ヶ月間彼とは話をしなかったけど、彼は自分が何をしたか知っていたんだ。俺はそのレコードのラフ・ミックスのカセットを持っているんだけど、それは本当に良いレコードだったんだけど、彼のせいで全部泥だらけになってしまったんだ。

彼がライヴの話を持ちかけてきて、俺は "何だよ "と言ったんだ。フレッド・マーもいたし、とてもいいバンドだったよ。ルーのリズム・プレイは非常に不安定だったが、俺はそれが気に入っていた。ドラマーがそれについていくのは不可能だった。俺とフレッドは彼の周りでプレイしなければならなかった。フェルナンドは素晴らしかったけど、俺はボトムを押さえられるダック・ダンタイプのプレイヤーがいい。フェルナンドがドラマーを理解していなければ、彼とはプレイしないだろう。好きな人と一緒にプレイすると、彼は素晴らしいプレイヤーになるんだ。俺たちはもっとツアーをしたんだけど、彼はたまたま『Live In Italy』のような悪いコンサートを録音してしまったんだ。バンドは即興演奏ができるほど繊細だった。彼はそれを他のメンバーに教えなければならなかったが、俺はもうわかっていた。

でも、俺らの間にはますますひずみが生じていた。『ニュー・センセーションズ』のレコーディングが始まる前日に、彼は俺をクビにして自分でギターを担当したんだ。その後、彼と一緒にツアーをしたんだけど、あれは長いツアーだった。彼は「何があったかは忘れて、君と一緒にプレイしたいんだ」と言ったんだ。その頃には、俺らはひどいバンドになっていた。新しいドラマーはリハーサルでしかうまく演奏できないし、キーボード奏者(ピーター・ウッズ)はアル・スチュワートやシンディ・ローパーと一緒に仕事をしていた。即興で演奏する余地があまりなかったんだ。「Kill Your Sons」の最後には、俺がドローンをかけて、ルーがギター・ソロをして、俺らはかなり遠くまで行ってしまった。このキーボード・プレイヤーはジョークだと思って足で弾いていたんだけど、ルーが寄ってきてやめろと言ったんだ。俺は『New Sensations』には参加していなかったから、ライヴでは何もできなかったんだ。ある曲をやっていて、「Doing the Things that We Want To」のように6分間DとGを弾いていたんだけど、これはあまり好きではなかったんだ。こんなことでギターを手に入れてロックンロール・バンドをやりたいと思ったんじゃないと思った。俺もキーボードの奴も、お互いの根性を憎んでいたんだ。ルーは最後には本当に虐待的になってしまって、ギターのソロを全部独占して、ライブでも俺(の演奏)がごちゃ混ぜにされるようにしていた。ツアーから帰ってきて、それで終わりだと決めたんだ。彼はそれを知っていると思っていた。彼は俺のことを他のバンドの人たちにも言っていたし、後になって俺にそのことを話すだろうと思っていた。

欲張りなプロの視点から、俺が誰なのかということに興味を持ってもらうために、3つのことをしてきた。ヴォイドイズのこと、ルー・リードのこと、そしてマシュー・スウィートだ。個人的には、リードは俺に影響を与えてくれた人で、俺は彼に何かお返しをするチャンスがあった。彼にまたギターを弾くように勧めるのは、自分の墓穴を掘るようなものだった。でも、俺は彼に借りがあるから、もう一度やったんだ。彼は俺の人生を変えてくれた。彼を正しい方向に戻すために何かしてあげれば... ブルーマスクみたいなレベルで続いてほしかったな。それ以降のことは全部お粗末なんだよね。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド以外に俺の代わりになる人がいなくて、それを台無しにしてしまった。俺は俺のやり方を保てたら、まだ演奏していただろうから、奴を憎むよ。地道な作業が良かったんだ。彼は頻繁にツアーをしなかった。奴の根性が嫌いなのは、奴が俺とのプレイを不可能にしたからだ。俺には何の得にもならなかった。奴は俺にどんな創造性のためのスペースも与えようとしなかった。

PSF:その後は何をしていたんですか?

それ以来、トム・ウェイツやマリアンヌ・フェイスフルなどとのセッションワークでふらつくようになった。素晴らしかったこともあれば ひどいものもあった。最終的にはナーヴ・ネットとのイーノのレコードに参加したんだけど、1980年に出なかったけど、アルバム用に2週間分のテープも残っているんだ。最初に彼のアンビエントなものを聴いたとき、それをクソだと思った。彼とロバート・フリップがマシンの電源を入れてランチから戻ってきて、人々は彼らを天才と呼ぶんじゃないかと思っていた。そうならなかったけど。『On Land』の後、あのアンビエントな感じが忘れられなくなったんだ。実際、彼に『On Land』を出すように勧めたんだけど、彼はその一部を捨てようとしていたんだ。彼は一緒に座って音楽の話をするには最高の人。彼の日記はちょっと気が引けた。彼が夕食に何を作ったかとか、ボノが何を言おうと気にしない。彼との連絡が途絶えてしまったのは残念だ。

PSF:ソロでの活動はどうですか?

自分の名前で「ソロ」のレコードを出していない唯一の理由は、お金がないからだ。商業的なことをしようとする意味がないんだ。もしレコードを作るとしたら、それは自分勝手なものになるだろうし、自分のためのレコードになるだろう。自分の条件でやりたいんだ。ジョディ・ハリスとは自分の4トラックで1曲やったんだけど、それをスタジオに持って行ってミックスしたんだ(インフィデリティ)。84年にEGレコードでも同じことをやった。イーノを通じて会社で知り合った人がいて、彼女は「レコードを出して欲しい」と言ったんだけど、俺は「誰かが来て、俺にプレッシャーをかけてくれ」と返した。皆は年に5、6枚のレコードを出すべきだと言う。俺を見かけると『ベーシック』の中で一番好きな曲は?と聞かれる。けど、そのレコードを好きな人はほとんどいないんだ。

『ベーシック』では、ドラムの音が大きすぎて、これでもかこれでもかという感じだったんだけど、それが俺の求めていたものだったんだ。マイルスの影響、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響、ストゥージスの影響、アンビエントなものが入っていた。その頃にはデジタル・ループ・マシンが利用できるようになっていて、16秒のディレイを使っていたんだ。そういうものを自分の頭の中でフィルタリングして、自分のやり方でやっていたんだ。その2枚のレコードを自分の家で作った理由は、もし誰かが来て、あなたが無駄な一日を過ごしたとしても、お金を無駄にしたことにはならないからだ。そんなことが何度もあった。ある日、何かが起きてトランス状態になるんだ。今までの人生で最高の作品の一つは「65」(Basicから)で、レスター・ヤングの悲しみに満ちた音楽に対する気持ちが反映されている。人々がこの曲を評価しなくても、どうってことないけどね。

レコードを出す機会はあった。Painted Desert (Ikue Mori)のCDは自分の作品のようなものだが、法律の関係で正式には自分の名前でだせなかった。E.G.にはまだ1枚借りがある。今はヴァージンが所有している。今作っているものを送ろうと思っているんだけど、それを受け取るかどうかは彼らに任せることにしている。俺は完全にソロのレコードを作っているんだ。これは自分自身を楽しませることが目的なんだ。

PSF:自分がやったセッションワークはどうやって判断しますか?

他の人のために仕事をして、良いレコードを手に入れることもあれば、そうでないこともある......それが自分の代償だ。人とは何度も喧嘩したことがあるんだ。もし誰かが俺をミックスしてレコードから外してしまったら、俺は戻ってきてその人たちと仕事をすることはない。マシュー・スウィートとは何枚かレコードを作った。彼はブレンダン・オブライエンと仕事をした。彼らは俺を3日間参加させたんだけど、それを聴き返した時には、俺はかなりミックスされていたんだ。彼にメッセージを残して、もう一緒に仕事をするつもりはないと言ったんだ。多くのミュージシャンは「金を取ればまた利用される」と言うけど、俺は時間をかけて彼と仕事をしてきたんだ。でも、俺は時間をかけてパートを思いつくのに何時間もかけてしまう、とても原始的な人間なんだ。基本的には彼のCDをデモのように聴かせたいということだった。でも、それは80年代前半からの俺の人生の話なんだ。

PSF:セッションのためにどのようなアプローチをしていますか?

俺はシンガー・ソングライターと一緒にプレイしているんだけど、重要なことの一つに「歌詞を聴く」ということがあるんだ。ルー・リードの「Waves of Fear」のように、もしそれがエッグ・クリームを作ることについての曲だったとしたら、俺のソロは神経衰弱を起こしている人のようなソロとは違うものになっていただろう。当たり前のことなんだけど、大事なことなんだよね。

最近、コリン・カーシェラのアルバムをマーク・リボーと一緒に作ったんだけど、マーク・リボーは本当に良い演奏家で、彼とはよく一緒に仕事をしてきたし、一緒に演奏するのもいい感じなんだ。このアルバムは素晴らしいもので、ここ何年もやっている中で最高のものだと思うよ。彼はトム・ウェイツやディランのような、とてもソウルフルな人だよ。

俺はエゴマニアで、もし彼らが俺を彼らのレコードからミックスから外してしまったら、俺は辞めてしまうし、もう彼らとは一緒に仕事をしないだろう。でも、俺は曲や人が何を意図しているかよりも自分のエゴを優先しているんだ。だから本当に傷つくんだ。俺はこれまで、傑作になり得たかもしれない、いいレコードに何枚か参加してきた。時には、ロイド・コールとは意見が合わないことが多いけど、今でも一緒に仕事をしているように、俺は物事を解決してきた。彼が活動を始めた頃はニュー・ウェイヴィッシュな感じだったけど、今ではMOR局に流れているのとかわらない。今の彼の音楽の方がいいし、俺らは仲良くやっているんだ。

俺は音楽での友人関係は最小限にとどめるようにしている。そうすれば、より良い友達になれるからね。RibotやZornのような人たちとは、概念的な違いはあるけど、俺がやっていることを評価してくれているんだ。ジョディ・ハリスという人がいるが、彼は俺よりも遥かに進んでいるのに、衆人には届かない。彼はその代償を払っているんだ。

PSF:ショウをやるのが嫌だという話をしていましたね。

俺にとって、レコーディングはライヴに勝るものだ。ライヴでは、騒音と音響システムとツアーで、世界で最も恐ろしいことになる。ホテルや空港や税関で待っているだけで 好きか嫌いかわからない人たちと楽屋に閉じ込められる。それでも良いことがあるとするなら、しばらくの間外に出て遊ぶことくらいだ。それは俺を消耗させる。俺が持っている健康を破壊してしまう。それだけ旅をしていると、そのストレスで寿命が縮まってしまう。最後のツアーは90年のロイド・コールとのツアーで、みながバスの小さな棺桶の中で跳ね回っていて、眠れないんだ。俺の解決策は、値段を高くすることだよ。1週間のツアーならいいんだけど、たいていのツアーは7、8ヶ月だよ。スーツケースに荷物を詰めてロビーに行けばいいんだけど、俺には合わないんだよね。

PSF:今のニューヨークのシーンについてはどう思いますか?

まあ、人と話したり、マイケル・マックスウェルとギグをしたりとか限られた経験では、シーンはこれまで以上に悪くなっている。お金がないのにクラブで演奏して、それをクールだと思っているような。俺は資本主義の豚じゃないけど、せめてギグでタクシー代くらいは貰いたい。クラブシーンは崩壊してしまったようだ。ヨ・ラ・テンゴやステレオラブが好きだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのようなグループの話をするのは流行っていたが、人々は本当にそれを理解しておらず、カウボーイ・ジャンキーズのような価値のないガラクタのようなグループを聴いていたんだ。俺がアイラ(カプラン)に会った時、彼がそれを聞き飽きているのは分かっていたが、俺は彼に言ったんだ「お前は本当にVelvet Undergroundを理解しているんだ。表面的なことをやるのもいいが、彼らがやっていたことの本質を理解している」とね。それがルー・リードが俺の代わりになれない理由だ。それは魂と関係がある。本当にシンプルなことだ。ジミー・リードのレコードのことで言っていたように、つまらないか催眠術にかかっているかの違いなんだ。その違いがわかるのが好きなんだ。

PSF:あなたは今、自分の音楽とキャリアについてどこにいると思いますか?

何かを成し遂げたような状況になってしまった。半分は、人が俺のことを気にかけてくれるなんて信じられない。ある程度のレベルでは知られているし、人々に影響を与えてきたことも知っている。一方で、今のように金銭的に厳しい年もある。クリエイティヴな部分では良い年だったよ。テレキャスターは、これまでに販売された最初のソリッドボディのギターだ。妥協のないものだ。去年、俺はついにそれ(テレキャスター)をモノにしたんだ。ヘマをすれば、それが聴こえてくるという容赦のないものだ。ハーモニックな存在感があって、実際にテープにも伝わるんだ。自分でも上達したとわかっている。ある程度のレベルに到達したので、ソロの構成をこれまで以上に理解できるようになった。自分に何ができて何ができないのかが分かってきたし、それを受け入れてもいる。でも、今は少し不満を感じていはいるが。

今はマイケル・マクスウェルという男と仕事をしているが、いつか有名になるだろう。レコード会社は「有名になったら戻ってこい」と言う。彼は契約を得て、うまくいけば私もそれに参加することになるだろう。彼は『ブルーマスク』以来、テレパシーを感じた初めての男なんだ。ほとんどの人が俺のソロ活動を知っているけど、俺にとって本当に重要なのは、クールなパートを思いつくこと、コードを違う形で発声することなんだ。ラモーンズのようにマイケルと同じコードを弾くつもりはないよ。彼はそれを評価してくれている。ルー・リードやロイド・コールと劇場公演をした後にクラブで演奏するのは変な感じがする。その方が神経をすり減らすことになるから、ちょっと怖かったよ。フェスで演奏すると、7万人もの人が蟻のように見えて、人に見えないんだ。クラブでは、顔の前に人がいることもある。でも、外に出るのはいいことだと思うよ。

ジョン・ゾーンとコーラとナイキのCMをやったことがある。1時間半で収入が3倍になった。まだやり遂げてなんかないよ。ストラトキャスターにはワング・バーがあって、俺のトリックもあるが、それは決まり文句になりつつある。テレキャスターにはそれがない。音楽的に考えなければならないんだ。俺はこれまで以上に良い演奏をしている。ジョディ・ハリスと一緒にYo La Tengoのオープニングをやったように、俺はだんだん頑固にならなくなってきている。俺らはただ、そこに行って即興で演奏したかっただけなんだ。酔っぱらっていたけどうまくいったよ。かなり野蛮だったけどね。シラフであれば、またやりたいと思う。

PSF:かなりワイルドだったんでしょうね。

そうだ!ゾーンとビル・フリーゼルともやったよ。よく一緒にジャムってたんだ。87年にハーバードの礼拝堂でのコンサートだった。俺たちはその場所を掃除したんだ。ステージに出ても何の議論もなかった。ビルと俺はループ・マシンを持っていたので、ギター4本とサックス1本で演奏した。それを録音してくれたので、リリースされたらいいな。ジャズにも手を出したことがあるけど、何もできなかった。俺は音楽的には文盲だけど、ビル・エヴァンスやセシル・テイラーを手探りで探ってみると、耳が肥えてきて、なんとかそれが少しは伝わるようになるんだ。

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