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エピック・サウンドトラックスによるアレックス・チルトン インタヴュー

この雑誌(What A Nice Way To Turn Seventeen)の6巻には、エピック・サウンドトラックスによる驚嘆に値する詳細なアレックス・チルトンインタヴューが6ページ半記載された。長文なので、2つのパートに分けた。最初はアレックスの人生とビッグ・スターの当時リリースされなかったサードまでのキャリアを辿る。

1985年10月16日、エピックとわたしはThe Mean Fiddlerでアレックスと彼のバンドをちょうど観たばかりの日だった。我々はその場で座ってインタヴューの第一部を行った。第二部はエピックが単独でアレックスが滞在していたブリクストンの家で数日後行われた。


PART ONE

あなたが家やストリートで音楽に溢れた街、メンフィスで過ごしていたのはいつ?

AX(=アレックス以下AXに略):10歳までは郊外に住んでたんだよね~。おやじがジャズ演奏家だったから、学校から帰ってくると家で連中がジャムってるなんてことがよくあったな。おやじはピアノをやってて、エレキギターも持ってたな。そうそう、ベースやフィドルもあったし、ドラマーもいたな。んで30年代、奴はミュージシャンとして巡業してたんだけど、1937年にミシシッピでおふくろと結婚して、子供ができた頃からおやじは音楽から遠ざかって、堅気になって金や食い物を稼げるような職についたってわけ。おれは末っ子でね、他のガキ(兄弟)もカレッジをでたりして、巣立ってから、それ以前よりもっと音楽をプレイするようになったんだ。
10歳!のころだったかな、両親の家の周辺でパーティーがあったんだ。おれたち家族はスラム街のガキ達がうろつくかなり粗野な郊外から都心に引っ越したころだった。そこはエルヴィスが住んでたところに近いと思う、ホントに栄えてた場所だったんだ。16人くらいのジャズミュージシャンが階段の下で演奏しているのを聴きながら寝た数え切れない夜を憶えてるよ。

あなたはその頃どんな楽器を演奏してたの?

AX:そうだな...レイ.チャールズやチェット・ベイカーとかそこらへんのものを歌うことから始めたんだ。ビートルズが来たころおやじがギターを買ってくれて、練習したけど、結局挫折したんだとおもう。16か17歳くらいにまたたくさん練習しだして、かなり上達したけど、ボックストップスのレコードではまだ歌しかやってなかったね。

あなたにとってソウルミュージックはずっと大きな影響力があったの?ソウルミュージックって云ったのは、あなたがボックストップスでやってた類のものを指してるんだけど。

AX:ああ、実際(ボックストップスで)取り上げた素材については全く関知してなかったんだよね。実際関心もなかったしね。それはホントのソウル的な素材ではないと思うし、もっと北アラバマの白人的なメンタリティ、それも中年のね、そういった類のものだった。

ボックストップスのレコードは好きだった?

AX:いいや...いまでは“I Met Her In Church”はボックストップスのキャリアのなかではほんとに高度なプロダクションだとは思うけどね...

“The Sandman”は好き?

AX:そうねぇ、いいものかどうか...う~んって感じだな、けどおれには関係ないな。なにしろそれらを聴いてないし、なんともいえないなぁ。けどソウルミュージック―おれが指してるのはメンフィスサウンドのことだけど―にはホントに影響されたよ。スティーヴ・クロッパーが演奏しているのを聴いて、「これこそがおれが求めていたサウンドだ!」って叫んだよ。

結局、ボックストップスは基本的にプロデューサーによって製作されたものだったということね。

AX:まさにその通りだよ、絶対的にね...

ボックストップスでは儲かったの?何度かミリオンセラーになったよね。

AX:そうねぇ、脱退して、5万ドルくらいは貰ったかな、1976年くらいまでの間にね。けど、実際そんなにいい扱いではなかったんだ― 40万ドルくらい貯金できたはずなんだ...けど、いくらかパンを食えたから、そんなに痛くなかったかな。

ボックストップスの最後の2枚のLPであなたの作曲がいくつかあるよね。あなたの作品をグループに持ち込もうとがんばったの?

AX:ああそうさ、けどそれは不可能ってもんでさ。われわれが最初のプロデューサー(ダン・ペン)をあてがわれたとき、やつはじぶんのやり方に強引に押し通すしね、だもんでサードアルバムのあとやつを解雇して、もうひとりの野郎、チップス・モーマンがきたってわけ。やつはおれに曲を書くように励ましてくれて、どんなシングルのB面でもおれの作品を取り上げてくれたんだ。けど、連中のやり方さ、最悪のエンジニアをあてがったんだ。曲を仕上げるのに1時間しか貰えないんだぜ...だからいいものにはなんないよねぇ。

どうしてボックストップスを辞めたの?

AX:18歳だった、ほぼ19歳か―だれも学校に戻れとはいわなかったな―いくつかの奇妙な理由で(笑)18歳くらいに結婚もしたんだ。とにかく、1970年の年明けにグループを抜けて、妻!とも別れた。

そのあとすぐにニューヨークにいったんでしょ?

AX:そうね...ただギグはそんなにやってなかった。HooteNightっていうアマチュアの演奏会に行って、座って何曲かやらさてもらってたくらいさ。けど、ホントにビクビクしてたね。実際それまで、ギターを演奏しながら歌ったの初めてだったからさ、ギターが全く弾けてなくて酷かったこともあったと思うよ。とまれ、いろんな人やミュージシャンに会って、たくさん学んだってわけさ。ある偉大なカントリー演奏家からジョン・ヘラルドの “Alligator Man”を教わったりね。とにかく、クリス・ベルとバンド結成することやらしゃべってて、それをやるためにメンフィスに帰ったってわけさ。

そのときは彼(クリス・ベル)のグループがあったんでしょう?それからあなたが加わったと。

AX:その通り。

その前の70/71年にはソロ・レコーディングもしていますね。そうなんですか?

AX:ああ、そのいくつかはニュー・ローズの新作ダブル・アルバム("Lost Decade")に収録される予定だ。

ビッグスターに一番影響を与えたのは何だと思いますか?

AX:クリスや他の人たちはイギリスの音楽が好きだったし、それも好きだった。

それについて聞こうと思っていたんだけど、いくつかの音楽はキンクスやジョン・レノンの影響を強く受けているように聞こえるし、後にTレックスのようなものも入っているんだ。

AX:そうそう...実は1年ほど前にニューオーリンズでのセットで "Jeepster "を演奏したんだけど、みんながすごく気に入ってくれたんだ。

ビッグスターのレコードが出た時、何もしていないことにどれだけショックを受けたか?

AX:ああ、あまりショックを受けていない。流通は本当に悪かった。アーデントというレーベルには大きなプロモーション・スタッフがいて、彼らは素晴らしいことをやっていたし、ラジオでもたくさんプレイされていたんだけど、僕らの代理店であるスタックスはレコードを店に持ってこれなかったんだ。

ビッグスターは色んな意味でかなり商業的なバンドだったんですよね...。

AX:でも、レッド・ツェッペリンや他のバンドは10分間のソロをしていたし、彼の名前は...アルビン・リーとか、そういう人たちが当時は大流行していたんだ。

そうですね、ビッグスターの音楽、特に最初の2枚のLPはとても簡潔でした。花火大会やジャミングなどもなかったし...。

AX:そうだな、俺たちはよく "Hey Chris (笑) Let's get jammin' "と言っていたんだが、彼は"Bleeeeeeagh!

特に "Radio City "は、表面的にはとてもシンプルに聞こえますが、その下にはとても複雑な構造があります。

AX:ああ、それを解明して正しい演奏をしている人はいない。

(誰かが"Daisy Glaze "のコードは何ですか?)

AX:ああ、その話をすると長くなるよ...一時間はいるね!

ビッグスターの3枚目のアルバム「シスター・ラヴァーズ」に移ります。どのくらいの期間で録音されたんですか?

AX:まあ、3~4ヶ月くらいかな。

そのレコードをやり始めた時、グループはまだ契約をしていたんですか?最後にはまだアルバムが出ると思っていたんですか?

AX:当時の俺はイカれてたし 腐ったドラッグをやってた 酒を飲みまくってたし 思考力もなかった。

あなたの心の状態が、そのレコードの音楽の出来に影響を与えたと思いますか?

AX:そうだね、曲はほとんどが半分は言葉で書かれたものだからな。

そして、今、そのレコードをどう思いますか?

AX:まあ、今でも結構楽しめるよ。

もしあなたがジム・ディッキンソンとではなく、例えば "Kanga Roo "を一人でレコーディングしていたら、もっと違ったものになっていたと思いますか?

AX:ああ、そんなに良くはならなかっただろうと思う。自由にはできなかっただろうな。でも今は、彼がやってるのを見て、俺にもできるようになったんだ。彼からクレイジーな音の作り方を学んだよ。

あの曲の全体的な雰囲気と緊張感がすごいですね。これはどういう経緯で生まれたのでしょうか?

AX:フィードバックは僕のアイデアだけど、ジムが別のものを作ってくれたんだ。彼はドラムもやってくれたんだ。

ディス・モータル・コイルのカバーを聞いた?

AX:ああ、けどそれに関してあまり感想はないな。オリジナルには勝てないと思う。

「シスター・ラヴァーズ」のセッションで未発表のものはありますか?

AX:それはないと思うけど...ちょっと待ってくれ、何かあったんじゃないのかな?そうそう、ナット・キング・コールが歌った「ネイチャー・ボーイ」という古い曲を歌ったバージョンがあるんだ。最近聴いたんだけど、ちょっと微妙なんだよね。ミュージシャンが曲に没頭しているのが聞こえてくるんだ。ニュー・ローズが出す予定の未発表曲のアルバムに使おうと思ったんだけど、特に最近ニコが "My Funny Valentine "を歌っているのを聴いてからは、それはやめたんだ。

3rdアルバムが完成した時は、発売されないことに驚きはなかったんですか?

AX:まあ、当時はとにかくやりたいことをやるだけのお金があったので、発売されてもされなくても物理的には影響はなかったね。

でも私にとっては、あのレコードにはあなたの最高の音楽が詰まっているんです。それを完成させて、録音したばかりのものをリリースした時、信じられないほどオリジナルな音楽で、他では聴いたことないような......誰にも聴かれないということは気になりませんでしたか?

AX:うーん、どうかな。Big Starの最初の2枚のアルバムがほとんど買われずに終わった後、わかったんだ、100枚のレコードをプレスするだけで、最終的には世界で一番欲しいと思う100人に届くんだよね......人がいつも息をするのと同じようにね........世界中の人が知りたければ、そうするはずだよ。

絶賛されなくても影響はなかったんですね。

AX:沢山の良い評がでてたから、そのスジでは絶賛されていたと思うよ。

何年も経った今でもカルト的な存在なのは気になりますか?

AX:まあ、レコードで金を稼ぐのが好きなのが唯一の悩みだけどね。

音楽をやることでで食っていけてる?

AX:ああ、かろうじて、かろうじて。テレヴィも電話も持ってない、余裕がないからね。

3rdアルバムが出なくなってあと、すべてに見切りをつけたいと思ったことはなかった?

いや.........考えたこともない。

前編終了

次に出たレコードは『The Singer Not The Song』EPだったかな。で、その次に出たアルバムは一連のセッションを経て纏められた『Bach's Bottom』ですね。それらのリリースにあなたは関わったんですか?

AX:いや、Jon Tivenが楽曲の権利を持ってたんでね。

クリス・ステイミーのシングル(「Summer Sun」)はどうですか?それと同時にやったのはありますか?

AX:俺の曲を4曲やったが、オークレコードはテープ代を払えなかった。

76/77年にイギリスで起こっていたパンクのことは、あなたにとって大きな意味を持っていましたか?

AX:まあ、セックス・ピストルズを育てたイギリス人のメンタリティを理解するのは難しいと思う。イギリスのパンクロッカーの格好をしているアメリカ人って、何も理解できないまま何かに向かっているんじゃないかといつも思ってたよ。そういうフラストレーションというか、性的なフラストレーションはアメリカにもあると思うんだけど、極端なことをして髪の毛に穴を開けたりとか、そういうのはアメリカにもあるんだよね...でも、イギリスが経験していた社会的なものは、アメリカは経験していなかった。俺はそれをあまり理解したことがない。特にアメリカ人は...痛みを伴うフラストレーションと怒りのようなものがあった。権威に対する恨み...アメリカでは権威は悪いものだが、ここ(イギリス)とは違う。

メンフィスは住むには特に危険な場所だったと言える?

AX:50年代から60年代前半はそうだった。 でも60年代半ばにはジョンソン政権の下でアメリカ中のスラム街が新しい建物のために一掃された。メンフィスには戦前の遺物が残っていた、ハンブルグやロッテルダムと同じくらい残っていたが、今や何もない。南側には貧しい黒人が、北側には貧しい白人がいた。もし彼らが都心部のものをすべて撤去していなかったら、60年代後半のメンフィスはひどい状況になっていただろう。

保守的な貧困白人層(レッドネック)の縄張りになったということですね。

AX:そうだな...でも、おれが若い頃は、今の南アフリカと大して変わらなかったのかもしれない。でも、それは感動的なことで、この20年間でこれだけ変わったのは驚くべきことだ。

「Bangkok」をやった時に、あなたの音楽は大きく変わりましたね。それはロックンロールの影響をずっと受けていたのでしょうか?

AX:そうだな、「Bangkok」はクランプスを観た後にでたと思うが、彼らは俺に大きな印象を与えたんだ...みんな知ってるだろ...ニューヨークで彼らの演奏を見て、彼らの熱烈なファンになったんだが、1、2ヶ月後に友人のアパートで彼らに会って、「お前らは今まで見た中で最高のバンドだ!」と言ったんだ。スタジオで一緒に仕事をしよう」と言ったんだ。

一緒に仕事をしたなかであなたのお気に入りは?

AX:"The Way I Walk "と "Domino "は本当にいいね。 "Human Fly"?あれはラフなミックスだったんだ。最初のセッションでやったものは全て良い出来だったよ。"Surfin' Bird "は'77年にロンドンで "The Way I Walk "と "Domino "と一緒にミックスしたんだけど、その日にミックスしたのは3曲だったんだ。良いミックスにはならなかったけどね...

クランプスの影響で、ビッグスターと比べてかなりトラッシーなスタイルの音楽をプレイするようになったんですか?

AX:そうね、ジム・ディッキンソンとともにどうやってトラッシーになるかを教えてくれた...

彼(ジム)は今何歳なの?

AX:彼は僕より9歳年上なんだよね...43か44歳くらいかな。彼はたくさんのプロデュースとセッション・プレイをしてきたんだ。彼はRy Cooder、Flamin' Groovies、Stonesの "Wild Horses "などで共演している。

「Like Flies On Sherbert」をレコーディングした時には、たくさんのカバーをやり始めましたね。

AX:そうだね、(曲を)書き始めた頃よりはあまり書かなくなっていたし、いつも色々なネタを楽しんでいたよ。

「LFOS」のゴチャゴチャした感じが本当に好きです。音楽の中から何かを引き出すためにわざとやっているような気がしますが...そうでしょうか?

AX:実は、レコードを作ろうと思った時、ジムと俺と他の1、2人でレコーディングをしようと思っていたんだけど、セッションに行ったら、ジムは彼のバンド全員を連れて来ていたんだ。ギターのリー・ベイカーとマイク・ラッド、ギターの俺、ドラムのロス・ジョンソン、ベーシスト、他にも何人かいるんだ。俺は・・・「うーん、これは俺が考えていたものとは違うな!」と思ったんだけど・・・何も言わなかった。どうなるか試してみようと思ったんだ。レコーディングを始めて、「こいつらは曲を知らないんだな...」と思って、彼らに教えようとしたんだけど、彼らは「ああ、俺たちは曲を知ってるよ」と言って、最初に思いついた曲を演奏してたんだ。だから俺たちはテープを巻いて、とんでもない音を出していたんだ。俺は知らなかったよ、俺は外で演奏していたからね。コントロール・ルームで聴いていたわけではない。ひどい音に違いない "と思ったんだ。でも中に入って俺たちがやっていたことを聴いてみると、信じられないような音がしていたんだ。今でもそのアルバムはとても好きだよ。

「LFOS」は録るのにどのくらいかかったの?

AX:まあ、ほとんどが三日間、夜に録音されたんだけどね。"Hey! Little Child "はアルバムの最終ミックスダウンの直前に書いて録音したんだ。「ガール・アフター・ガール」もその時に録り直したんだ。ほとんどはこの3日間の夜に録音したものだけどね。

どうやらUS版のLPとUK版のLPは違うらしい...。

AX:そうそう、「No More The Moon Shines On Lorena」(イギリスのシングル「Hey! Little Child」のB面)も入っているし、パンサー・バーンズのドラマー、ロス・ジョンソンがやっている「Baron Of Love」というアルバムのイントロのようなものも入っている。ギターとドラムとボーカルだけで構成されているんだ。ロスは頭の中でいろいろなことをラップしているだけなんだけど...それは酔っぱらっているようなもので、反抗的な叫び声がなくても、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイのようなものなんだ。「Boogie Shoes」はアメリカ盤には収録されてないが、それはKC & The Sunshine Bandがサタデー・ナイト・フィーバーの映画に出演したことで突然大ヒットしたからなんだ。レコーディングした時は無名のB面だったんだけど、LPが完成する頃には......まあ、それを使うのはカッコ悪いと思ったんだけどね。

「LFOS」とビッグ・スターの3rd LPの選曲の違い、どの曲を選ぶかは選択の余地があったのですか?

いや、テープ自体が俺の手元から離れていて、連中が好きなように編集してたよ。俺だったら違う方法でまとめていたんだが、500枚しかないアメリカ版の『LFOS』は、かなり俺の希望通りになったよ。

「LFOS」のアプローチは、またやることも考えられる?

AX:そうね、ミュージシャンはそれぞれ全然違う方法で演奏するんだよ...一回目に聴いたことのない曲を演奏した時と、二回目に聴いた時とでは演奏の仕方が全然違うの。レコーディングには間違いなく良い方法だし、良いものを手に入れることができる。

パンサー・バーンズのレコードも同じようなやり方でやってるの?

AX:そうさ、タヴ...奴が次にどうやるか知るのはいつも難しい。 彼の後を追おうとすると、かなりヤバいことになるんだ!

What's Goin' Ahn "や "You Get What You Deserve "など、あなたの曲の多くは、人間関係や混乱などをテーマにしているように見えますが、その印象は当たってる?

AX:ああ、その通りだ...1973年はそんな感じだった...ドラッグの前の...その頃は本当に激しくなっていて、なぜ自分はこんなに不幸なんだろうと思っていたし、クリスとアンディから意味不明な混乱した歌詞を書くことを学んだんだ。

恋愛というか、何かに惑わされている感じが、本当にそれらの曲には伝わってくると思うんです。

AX:ああ...混乱は何にせよ価値があると思う。でも、混乱している人を慰めるよりも、混乱していなくてもいいことを伝えることの方が大事だと思う...可能ならね。

「ジーザス・クライスト」という曲は、真面目な宗教曲を目指してた?それとも全くの皮肉だった?

AX:まあ、かなり計画的に作ったんだけどね。人生のどこかの時点でクリスマスソングをやりたいと思っていて、実際にはいくつかの賛美歌の中から歌詞をコピーしただけなんだ。賛美歌の本を見て、好きなフレーズをいくつか選んで、それを全部歌詞に入れてみたんだけど、フック・ラインの歌詞には、これ以上に賢い言葉が思いつかなかったんだ。

何か宗教的な育て方をされていたの?

AX:いやまったく。

あの辺りの出身だと...

AX:周りは宗教的な環境が多いんだろうけど、うちの家庭では全く(宗教の)強要はなかったよ。

歌詞の話に戻りますが、「Rock Hard」の歌詞はかなりユーモラスで、性的な意味合いばかりで......。

AX:この曲には興味深いストーリーがあるんだ。他の最高の曲と同じように、この曲も元々は別の曲だったんだけど、それをもう別の一曲と混ぜてレコーディングしたんだ。もともとは当たり障りのない曲だった。

もう一曲は何だったのかな?

AX:あーあ、そんなこと言いたくないよ、酷い曲だったからな...そんな風に誰かに聴いてもらいたいと思っていたら変わらなかったはずだな。でも、「LFOS」の最後のミックスダウンまではほとんどそのままの曲だったんだ。でも、書き直したいと思っていたので、いつものようにプレッシャーの中で、とても良い歌詞を書いて、オーバーダビングして、今でも気に入っている曲になった。ビッグ・スターの "In The Street "も、僕が今までに書いた中で最高の曲の一つの例だ。

あの曲はクリス・ベルとの共作だったのかな?

AX:クリスがメロディを提供したのは一行だけで、それだけだが、彼はそれをレコードで歌った。

あのアルバム(#1レコード)の後、彼はどのくらいで死んだの?

AX:クリスは1976年か1978年に亡くなったが、何年だったかはっきり憶えてない。

アンディはなぜバンドを去ったの?

AX:彼はレーベルとの関係に問題を抱えていたし、個人的な悪感情を持っていたし、彼はドラッグを飲んでいたから...ダウナー系の... とにかく、彼は自分の頭の中で、俺たちや他の人たちが彼を敵視していると思い込んでいたが、実際にはそうではなかったんだ。でも、それは俺らを怒らせるという形ではなくて、レーベルの人たちを怒らせただけで、俺らはまだそこにいたから、俺らに対しては少しだけ怒っていたんだ。俺たちは彼のように逃げ出したりはしなかった。

彼が脱退した時に、もしかしたらビッグ・スターは終わったのかもしれないと思った?

AX:ああ、確かにそう思った。

どうやら3人組でギグをやったようですが、とてもいい反応があったので、続けることにしたようですね。

AX:ああ、アーデントは言っていたよ。"いいかい、このアルバムからはたくさんの良い反応が得られているんだ・・・俺らは売れなかったけど、もう一枚やるんだ。批評家を見てみろよ、彼らはお前を愛しているんだ。クリスと一緒に書いた曲が多かったんだけど、彼は何かの理由で彼の曲を分けたんだ。クリスは俺たちがコラボしたものを自分のものにしたんだ。

彼のソロシングル「I Am The Cosmos」もその中の一曲だったのでしょうか。素晴らしいレコードですね。

AX:いや、俺はこの曲とは何の関係もないんだけど...でも、いい曲だよね。「Radio City」では、「O My Soul」の一部を彼が書いている、最初の部分以降の歌詞はほとんど彼のものだが、俺はそんなこと言う柄じゃない。というか、「君は本当にいい子だね...」とか、くそ! そんなことは絶対に言わない! (笑)...むしろ "お前は本当に腐った人間だな...でもとにかく好きだ!"って言いたくなる。そこにいい言葉が入っていたら、今でもその曲をやっているんだけど、今のままでは耐えられない。ライブで演奏する前に曲を書き直さないといけない。レコーディングの時に新しい歌詞を書くのが億劫だったんだと思う。"Back Of A Car "もクリスが手を加えて書いた曲だ。歌詞はほとんどアンディが書いたもので、コードは俺が変えたんだ。オープニングのメロディはクリスが考え出したんだけど、それ以外の部分は俺が書いたんだ。


"My Rival "では「ライバル、到着したら刺す、ライフルで撃ち殺す...」と書いていましたが、実際はどうなのでしょうか?そんな極端な状況が 南部に実際に存在するのか? 女に手を出したからといって 誰かが他人を撃つような?

AX:アメリカのティーンエイジャーのあいだでは日常茶飯事だと思う。 いつもとんでもないことが起きるんだ。 麻薬関連の自殺や殺人もね。俺はティーンエイジャーのままで 何とか生きてきた。俺の場合は、銃や男根の象徴に取り憑かれていたんだ...感じることのできる力を、できるだけ強く感じようとしていたんだ。でも "My Rival "は真面目に何かを表現するというよりは、感情を爆発させているようなものだ。俺は銃を使ったことがないけどね...何年も前からそう感じていたんだ。

あなたの名曲の多くは、落ち込んだり、どこかでギリギリの状態になった時に書かれたものだと思いますか?

AX:まあ、どうかな...僕にとってのベストソングは、もっとポジティブなものなんだ。本当に不機嫌なものは自分のベストソングではないと思っている。人を嫌な気分にさせるような音楽を演奏する理由がないからだよ。

「ホロコースト」みたいな曲はどうですか?

AX:そうだなぁ、本当にいい曲だと思うよ。歌詞もね、全体的にどこにも破綻がないし、よくできていると思うんだけど、俺がやろうとしていることとは違うんだよね。書いた覚えがない。ピアノの前に座っていて、この言葉が浮かんできたんだろうな...いい曲だと思うよ。

あなたの作風はどう変わってきてる?

AX:76年か75年かその頃から、歌詞を書いたり曲を書いたりするにはどうしたらいいのか、自分の言いたいことを簡潔に、最も経済的な言葉で表現できるのか、ということに気がついたんだと思う。その方法がわかってきて、すぐに "じゃあ、どんな曲を書こうかな?"って自分に言い聞かせたんだ。今まで書いてきたような、苦悩や苦しみなどのことは書きたくないと気づいたんだ。世の中に発信するポジティブなことを書きたいと思ったんだ。今でもまだネガティブなことも書いているとは思うけど。今作っている新曲は "No Sex "と "I Will Have No Mercy Upon You "の2曲。どちらもある意味ではポジティブなんだけど、ネガティブな部分もあるんだ。

あなたの曲の中でも特に気になる曲がいくつかあります。"Sister Lovers "の "Stroke It Noel "ですが...。

AX:おお、その曲は不安定などこにもありそうにない作品だな...

全然好きじゃないの?

AX:いや...まあ...ちょっとはいいかも。また書き直したんだ。ドラッグを大量に飲んでいて、何かを書き留めて、ジム・ディッキンソンに "これでいいのか?"と言ったら、彼は "ああ、やってみろ "と言ってくれたんだ。(笑)

特に言葉がおかしい。ある行があって、次の行はその前の行と何の関係もないように見えるんです。その時代の曲の中には、そういうところが好きな曲もあるんですよ。座って一気に全部の言葉を書いたりしますか?

AX:ああ、そうしてただろうな...俺はかなり分裂していたんだ。この言葉を使うのが正しいのかどうかわからないけど、とにかく、一つのことを言って、それから何か他のことを言うことができたんだけど、それは連続性があるようには見えなかった...でも、連続性はあったと思う。

今はビーチ・ボーイズの "Honkin' Down The Highway "を演奏していますが、以前は "Wouldn't It Be Nice "を演奏していましたよね。ブライアン・ウィルソンと知り合いでしったけ?

AX:そうだよ。ボックストップスで、ビーチ・ボーイズのツアーに参加したんだ。数年の間に100回は演奏したよ。もちろんブライアンが彼らとのツアーを辞めた後のことだけどね。とにかく、彼らはみんな "The Letter "の大ファンで、レコーディングもしていたんだ。一度カリフォルニアに行ってデニス・ウィルソンのところに泊まったことがあるんだけど、そこでブライアンに会ったんだ。1968年のことだ。

その後の彼(ブライアン)はどうですか?

AX:彼は大丈夫そうに見えたけど...そういえばちょっと変な感じだったな 2人でウィスキーに行ったんだ ブライアンが久しぶりに外に出たって みんなが言ってたよ 彼は変なことをしていたと思う...クラブに座っていた時に腕立て伏せを始めたんだ それからしばらくして、彼はレコーディングをしていたんだ、どんな状況だったかはわからないが、夜中に電話がたくさんかかってきたんだ。彼は僕の歌を録音したいと言ってきたんだけど、僕はそれに賛成したんだけど、結局実現しなかったんだ。

ビーチボーイズのレーベル「ブラザー」と契約することを 望んでいた?

AX:ああ、その話はあったが、それは実現しなかった。60年代には彼と数日一緒に過ごしたし、70年代初頭には電話の仕事があった...それに他にも何度かね。最後に彼を見たのは1982年頃、メンフィスでのコンサートだった。彼はまだキーパーを連れていたんだ...とても不思議だったよ。でも僕はブライアンがとても好きだよ...今の彼はとても若くて素敵だよ。

最近の仕事はどうですか?

AX:そうだね...お金をもらうのは難しいな。レコードのためにお金を得るのは難しいんだ。今日、1981年以来初めてAura Recordsの人と話したんだけど、1500ポンドくらいしか借りてないって言われたんだよ!(笑)

「Live In London」が出たことと何か関係があったんですか?

AX:街を去る前に(ライヴの)テープを持っているのは知っていて "それは使わないんだろ?"と言ったら "使わない "と言われたんだ。それが出た時はビックリしたよ。でも、驚きはどんどん小さくなっていったね!

このアルバムについてどう思いますか?私にとっては、ほとんどの曲が淡々としているように思うけど...バンドが足手まといになっているようにみえる。

AX:リハーサルを数回しかしてないんだ。アルバムは数回しか聴いてないけど、半分は本当に良い曲だと思ったし、半分はほぼ良い曲だと思った。

演奏を見ていると...ステージで人のために歌うのが大好きなようですね。

まあ、仕事をしているよりはいいだろう! 俺たちは旅をして演奏してレコードを作っているんだ。1枚でも売れて、売れて、金を稼いで、それから引退するんだ!(笑)

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