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人生は自分次第という甘い言葉にハマると自己肯定感が下がるワケ

コロナでステイホームの時間が長くなると、イライラしてDVの相談が増えていると報道で聞きます。

経済的な不安、外出して気分転換できないこと、事情は様々あります。
私も知らないうちに、ちょっとしたことで反応しやすくなっている自分に気づきます。

そして、頭の中で流れている言葉
「日本にいるとつらい〜」です。

自己啓発本などで、よく目にするのが、「自分の思考で人生が変わる」とか、「人生は自分次第」なんてタイトルの本を見かけます。
ちょっと前までだったら、こういう本を貪るように読んでいた自分がいました。

自分の考え方のクセというものが誰しもあります。
それは、生まれ育った家族で学んだものだったり、社会人になって得た経験や体験がベースとなって自分を形作っているものかもしれません。

最近、こんな風に思うようになりました。
自分次第、確かにそういう側面もあります。その部分に関しては、自分で最大限に変化させることで、もっと楽しく生きられる可能性はあります。
変えられるところは変える。人生が自分次第と言って本を書く人たちは、そもそも物理的な境遇が恵まれていたのでは……? 一方で、アメリカなどではちょっとしたきっかけからの人生大逆転がありそうなことは想像できる。。。

え、もしかして日本には当てはまらないのでは?人生が自分次第と言って本を書く人たちは、そもそも物理的な境遇が恵まれていたのでは……?経済的に豊かな家庭に育った人は、お金がないことの大変さや苦労を本当の意味で知ることはできません。

衣食住の困らない生活ができているからこそ、マズローの欲求階層説にあるように、より上位の欲求を充足させるために自分を方向付けることできるのです。安心安全な環境が与えられるからこそ、自分がどうありたいか、という内的充足に気持ちが向くわけです。

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経済的に恵まれていることの恩恵はいくつかあります。
命を保たせるのに必要な衣食住の心配をしないで済むどころか、質の高い教育を受ける機会が自然と降ってくるのです。そもそも、日本社会で給料の高い職に就けるレールを親が敷いてくれているわけです。経済的な豊かさというのは、親から与えられたありがたい恩恵でもあるのです。

この前テレビでドイツ人の学者がこんな風に言っていたんです。「運命は、生まれた時にすでに、その社会の構造的な部分で決められている。ただし、自分が生きる意味を見つけた時に、その運命から自由になれる

社会構造的な部分での格差を生み出す社会が、自分の運命を決める。
質の良い教育を受けさせてもらえるかどうか、によって自分の可能性すら変わってきてしまう。
「自分次第」で可能になる、選択肢の幅が育った家庭環境によって違ってくるので、「人生は自分次第」と盲信してしまうと、自己肯定感が下がってしまうこともあるわけです。

例えば、私のように。
親が教育熱心で、子供の人生に興味を持ってくれている親だったら、私は自分の思い描いていた人生を歩んでいたかもしれない。
私の周囲には、大卒の人はいなかったから、学校で勉強する意味とか受験とか、意味も十分に理解しないまま覚えないといけないことが山ほどあることとか……なんのために勉強するのかわかりませんでした。
だから、早く社会に出たかった。

そして社会に出て知ったのは、日本では新卒で就職した会社で全てが決まるということ。そんなこと、誰も教えてくれなかった。。。知る、知らないでこんなに差がつくとは思いませんでした。

社会の構造的な運命から解放されるために、追求する「生きる意味」
それを見つけた時、新しい可能性が私の前に広がってきました。

そこでぶち当たる「自己肯定感」という壁。
内閣府の調査では、日本は圧倒的に自己肯定感が低いのですね。
学生時代、大学を目指して勉強していた人たちは、きっとものすごく努力して勉強に励んでいたのにそんな人までは自己肯定感が低い……というのが
意外ですよね。

◇自己肯定感

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自己肯定感が上がる要素って何だろうって考えてみました。
ドイツに住んでいた時、私はちょっとだけ自己肯定感が高かったように思います。
それは、自分の個性が出せたからです。
もっと言うと、、、ぶっちゃけ、日本では真面目で大人しいと言われるタイプの人間です(笑)でも、本当におとなしいわけではないのです^^

「こんなこと話してもつまらないだろうなぁ〜。日本人だったらイマイチな反応されて終わりの話しかできない……」というのが、私としてはちょっとした劣等感だったのです。

文化が違えば、興味関心も変わるものですね。
私が、「私の話聞いてもあんまり面白くないと思うけど」と前置きして、何とか話すまいとしようとすると、クラスメイトは益々興味津々になったようで、
ドイツ語の宿題で話を作ってくる、というのがあって、私の中ではありきたりで、どこか飛躍しすぎてる、そんな話でした。

話終えると、先生とクラスメイトが面白い!!と言ってくれました。
私の方が、もうびっくりして。言葉を失いました。
「え?どこがそんなに面白い?面白くないでしょ〜?」と聞くと、
「なんで?面白いよ!!」と皆んながそう言うのです。。。

日本では出しきれない自分の個性、それがあることをその時知りました。
そして、その時以降、自分のことに思い悩む日が少なくなっていきました。

日本人は、子供の頃から規範意識を親や先生から教え込まれます。
協調性がありすぎるから、個性やクセが歓迎されない。
適応障害、というような言葉、ドイツ語ではどんな時に使われるのかな。
病院にかかっても、診断名を言わないのがドイツ流。診断名を言うと、患者が自分自身で、無意識に病気のマインドになるからなのかもしれません。
(私の推測ですが……)

◇社会規範

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話は逸れましたが……
個人主義と集団主義、日本が集団主義だとすれば、諸外国は個人主義ですよね。。。規範意識が高いのが悪いわけではないのですが、自己肯定感が低くて規範意識が強い社会、、、そしてその上個性が生かされない土壌、文化、雰囲気が相まって、洗練された社会ではあるけども、ひとりひとりの個性が押しつぶされた上に成り立つ社会になるわけです。

◇一つの側面だけで自己啓発を語らない


幸せは、考え方次第、自分次第……に関係あるのが、自分が住んでいる社会の雰囲気や文化が、自分が幸せだと考えることに近いかどうか、ってこともあると思うんです。
今日から、自分の個性を大切にしよう!と決めて、考え方も変えたとします。
周囲からは、ちょっとでもクセのあるような個性を出すと、嫌な顔されたり、しらけた雰囲気になったりします。
それでも、気にしないでいられる心の鈍感さがあれば、ある意味どこででもやっていけるでしょう。

日本人の言う、「自分次第、考え方次第」は半分は真実で、半分は社会が持つ文化や雰囲気によるものがあると思います。

個性が出せない、イコール自己肯定感が低いから、ではなく、、、

社会がそれを許さない雰囲気を構造的に生み出している。

ということなのではないでしょうか?

構造的というのは、新卒で入った会社で人生が決まってしまう社会。
海外のように、新しいキャリアを作るために一旦大学で学び直して、また社会に出るなど、チャンスを与えない社会。
会社員で居たいなら、一通りのルートしか存在しない。
そういう社会的な枠組みの中で生きるには、ある程度個性を抑制して、会社の望む歯車のようになること、、、(昭和的ですが……)

それが知らず知らずに期待されているという意味で、自己肯定感が高まらない構造的が、社会に組み込まれていますよね。

平成の時代までは、それでどうにかやってこれたのかもしれない。

コロナが収束する頃、新しい常識が、古いこの社会的構造に取って代わるといいなと思います。
みんなが、何もしなくても自己肯定感高くて、個性が出せたら素敵じゃないですかね。



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