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ロゴス #10

第10話『最初のロゴス』

幼子イエスは成長し、また力もつき、知恵に溢れた素晴らしい男の子に育っていった。

ただ平穏に流れゆく時間…

時が経つにつれ、マリアの胸に刺さっていた針のようなものが、次第に抜け落ちていくようだった…御使いによる告知や、奇跡の数々、そのようなものが遠い過去の出来事のように感じ、目の前にいるイエスという少年を

自分の息子

と感じるようになり、自分の息子として愛するようになっていった。多くの母親の持つ感情と同じ愛情であると言える。

ヨセフとマリアは、イエスの生まれた後、他に五人の子を授かり、幸せな日々を送っていたが、イエスに抱いていた特別な感情は、他の兄弟に紛れるように、薄れていった。

「もう、イエスも12歳か…」

ヨセフは、大工仕事を手伝う、逞しいイエスの姿を眺めながらマリアに言った

「今年の”過越の祭”には、イエスも連れて行かないとな」

過越の祭とは古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事に起源を持つ。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念する。ユダヤ人にとって、秋の仮庵の祭 (Sukkoth) などと並ぶ重要な祭日。

ヨセフとマリアは、毎年、過越の祭には必ずエルサレムへ上り、主を礼拝していた。

険しい道のりであるため、子供達は親族に預けていたのだが、イエスが成人を迎える年(当時、成人は13歳から)であったので、今年はイエスもエルサレムへ同行させようという話になった。

イエスがエルサレムへ上るのは、生まれて間もない幼子の時以来である。

無事にエルサレムに辿り着いた一行であったが、

イエスは立ち尽くし、呆然と神殿を見つめている

ので、ヨセフは少しからかうように言った。長旅で疲れていると思ったからだ。

「もう少し歩けば、旅はひとまず終わりだ。もう一息だから歩きなさい」

「いえ、もう少し…もう少しだけ」

イエスはそれから数分の間、じっと神殿を見つめていた。喜びなのか、悲しみなのか、なんとも言えない表情で立ち尽くしているので、マリアとヨセフは心配になり、その日の礼拝は軽く済ませ、すぐに体を休めることにした。

祭りの期間(1週間)エルサレムに滞在したが、イエスは落ち着きのないようだった。時には神殿を歩き回り、細部まで観察してみたり、またある時には、見知らぬ人にいきなり質問してみたりと、冷静で知的なイエスのこれまでの印象とはまるで違った。その変化に二人は少し驚いたが、都の賑やかさに影響されたものだろうと、あまり深くは心にとめなかった。

祭りが終わり、ナザレへの帰路についたのだが、一日歩いたところで、ヨセフとマリアは

イエスの姿がないことに気がついた

当時の旅は、個人で旅をすることは珍しく、危険回避のため、集団で旅をすることが多かった。この時もガリラヤ地方の親族達など大勢で旅をしていたので、その集団の中にイエスが紛れているものと思い、一日歩き明かした時ようやくイエスがいないことに気がついたのだ。

日も落ちてしまったので、その日の捜索は困難であると判断し、一夜を明かすことにしたが、不安で眠れぬ夜を過ごした。

次の日、二人は急いで来た道を引き返した。事故に遭遇した可能性も考えて、道中をよく観察して歩き、また、すれ違う人々に事情を説明しながら、イエスの情報を集めて、血眼になって探して歩いた。そうすると、どうやらイエスと思われる少年をエルサレムで見かけたとの話をいくつか聞いたので、エルサレムへの歩みを早めた。どうか無事であってくれ…

やっとの思いでエルサレムへ辿り着いた二人は、早速イエスを探して歩いたが、間も無く日が落ちてしまった。昨夜もまともに眠れておらず、疲れもピークであったので、その日も休むことにした。イエスが行方知れずになってから二日が経過していた。

「食べるものは❓…寝る場所はあるのかしら❓…」

三日目の朝だった。捜索を始めるとすぐに、ある光景が目に止まった。神殿の広場で律法学者と思われる人々が輪になって何か話し合っている。白熱した議論に見えるが、その輪の中心にいるのは

なんと息子のイエスであった

イエスは学者に質問したり、返答したりしていたのだが、その知恵と答え、思慮の深さに、学者達は舌を巻き、見ている人々は大いに驚いた。

心配や不安、そして怒りなどの様々な感情がヨセフに押し寄せたが、すぐにその波は収まり、言葉を飲み込んでしまった…そこにいるイエスは自分の知るイエスとはまるで違って見えて、なんと声をかけていいのかわからなくなっていた。

「あなたはなぜ私たちにこのようなことをしたのです❓❗️

見なさい❗️❗️

父上も私も、あなたを探し回っていたのですよ❗️❗️
どれほど心配したか、わからないのですか❓❗️」

爆発したのはマリアであった。元気そうな息子の姿に、驚きと安堵で、感情と涙が溢れた。

愛する我が子に向けられた自然な感情と見てとれるが、ヨセフは何か違和感を覚え、マリアを落ち着かせようとする。

イエスは静かに口を開いた…

どうして私を捜したのですか?

私が

”自分の父の家”

にいるのは

当たり前だということを

知らなかったのですか?

しかし、両親にはイエスの話された言葉(ロゴス)の意味がわからなかった…

これが、キリストとして口にした最初の

神の言葉(ロゴス)

である。

この言葉(ロゴス)を語った後、イエスは両親に頭を下げた。

「父上、母上、心配をかけてすみませんでした」

すると、それまで違和感が嘘のように晴れて、以前の愛しいイエスに戻っているように見えた。

見えただけかも知れない…

それからイエスは素直に両親に従い、一緒にナザレへ帰っていった。

その後、30歳になるまで(祭司として活動できる年齢になるまで)大工の仕事を手伝い、両親に仕えたのだが、変わらず続く平穏な日々の中にあって、あの時の言葉(ロゴス)がいつまでも残り、時折、考えさせられるのだった。

イエスは今、何を想い、何を感じているのだろう

イエスの想い、言葉(ロゴス)を計り知ることはできない、しかし、一つ確かなことがある。

親に従うことはモーセの律法が要求する責務であるということ

主なる父人の親を持つイエスは二つ責務を果たす必要があるだろう

30歳からは主なる父に仕える使命。それまでは人の両親に仕える…そんな想いがあったかも知れない

そして30歳になった時、イエスはすぐに旅の支度をし、ヨルダン川を目指してナザレを発つ。その場所に待つのは

バプテスマのヨハネ

である。それまでゆっくりと回っていた二つの大きな歯車は、その出会いによって、一気に加速していく事となる。

イエス・キリストは歩き出した

…11話へ続く