ロゴス #26
第26話『郷里での拒否』
カナでの伝道の次にイエス達が訪れたのは、イエスの育った町ナザレであった。
いつものように安息日(土曜日)に会堂に入って、トーラー(旧約聖書のモーセ5書)を朗読しようとして立たれた。
イエスはこの頃にはガリラヤでは有名人になっていて、行く先々で朗読の依頼を受けて立っていた。今回のナザレでの朗読も会堂からの依頼を受けて朗読している
トーラーの朗読が終わると、会堂の管理者から預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開くと、こう書いてある箇所に目を止めて、朗読を始めた。
しかし、その箇所は当初予定していた箇所と違ったので、管理者は戸惑ったが、傍観するしかなかった。
旧約聖書 イザヤ書 61章 1〜2節からのイエスの引用 「私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと私に油を注がれたのだから(メシア=油注がれた者の意)主は私を遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれる事を告げるために。虐げられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために…」
その朗読は、不可解であった。この朗読した箇所はメシアの到来を預言する箇所であるのだが、1節から3節までが一つのブロックとして成り立っているので、通常は最低3節までをまとめて朗読するものだが、イエスは
2節の途中で朗読をやめている
イエスの朗読しなかった箇所 「われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め
(※ここから3節)シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、讃美の衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる」
会堂の者にこの意味を理解している者はいなかったが、イエスの省いた箇所はメシアの再臨の箇所であった。つまり、メシアの初臨の事だけピックアップしているのである。
メシアの到来は初臨と再臨との二回存在し、再臨は大患難時代(ヨハネの黙示録)の終わりに訪れるとされているので、現代においても、再臨はまだ起こっていない未来の話になる
そこまでの考察には至ってなかったが、途中で朗読をやめたことは、会堂の注目を集めることには効果絶大であった。
イエスが書を巻き、係の者に渡してしまうのを見て
「これからどんな事を言うのだろう?」
と皆の目がイエスに注がれ、身を乗り出して言葉を待った。イエスは話し始めた。
「今、朗読した聖書の言葉が
今、あなた方が聞いた通りに実現しました」
そのイエスの言葉に、会堂の熱気は一気に高まり、ワっと歓声が上がった。
私がキリストである
これはまさにメシア宣言である。会堂で、正式にメシア宣言をしたのはこの時が初めてであったので、多くの人がイエスを褒め称えた。
そんな中だった。その歓声に混じって、イエスを嘲るようなそしりの言葉を発する者が現れた。
「何を偉そうに…あんたはただのヨセフの息子じゃないか?」
すると、チラホラとその罵言に同調する者が現れ始めた。「俺も、イエスを小っちゃい時から知ってるぜ」そこには嫉妬の感情も渦巻いていた。
その様子を見たイエスはこう言った。
「きっとあなたたちは
『自分の病気も治してみろ』
と、カペナウムで行なったと聞いている事をここでもやってみろと証拠を求めるのでしょう…
預言者は自分の郷里では歓迎されない」
そして、こう続けた。
「私これから言うのは歴史です…
預言者エリヤの時代の大飢饉の時、エリヤが遣わされたのはイスラエルではなく
シドンのサレプタにいた一人の女(異邦人)にだけ遣わされた…
また、預言者エリシャの時には、ツァラアト(重い皮膚病)が流行しましたが、イスラエルの誰も清められないで
シリア人のナアマン(異邦人)だけが清められた」
この救われなかったイスラエル人というのは不信仰が蔓延していた時代に当たるので、イエスの言葉は、暗に「あなた達は不信仰だ」と叱責していると捉えることができる。
この言葉に、会堂にいた人々はひどく怒り。それまで讃えていた人たちも手のひらを返したように、イエスを批難するようになった。
「何がキリストだ❗️❗️❗️」
その怒りは益々過熱していき、イエスを町の外まで追い出すと
「突き落としてしまえ❗️❗️❗️❗️」
町が立っていた崖のふちまで連れていき、そこから突き落とそうとまでしてきたのである。弟子達は止めようと必死であったが、多勢に無勢…その勢いを止めることは不可能であった。
キリストが殺されてしまう
そんな時だった。集団の外にはじき出されている弟子達の元に、イエスがふっと現れて言われた。
「さあ、行こう」
弟子達は驚いた。集団の多くはまだ気がついていない様子である。
「先生?…どうやってあの中を?」
「真ん中を通ってきましたよ」
それだけ言うと、イエスは行ってしまわれたので、弟子達は急いで後を追った。
ガリラヤでの伝道の中で、イエスは自分の郷里でのみ拒否される結果となってしまったが、イエスはそれを知った上で、伝道を行ったんだと弟子達は感じていた…聴衆の怒りが巻き起こった時も、イエスは見通していたかのように冷静だったからだ。しかし、何を伝えようとしてされたのかはまだ理解できずにいた。
まだまだずっと後に、使徒ヨハネはこう綴っている
新約聖書 ヨハネの福音書 1章 11〜12節「この方は自分の国に来られたのに、ご自分の民には受け入れられなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
キリストの教えは、初めはユダヤ人から拒否され、異邦人から広がっていく事になるのだが、ナザレでの出来事は、まさにこの未来を暗示しているかのようであった…
…27話へ続く