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ロゴス #32

第32話『罪人を招く人』

ある時、イエスが道を歩いていると、収税所に座っているマタイという取税人に目が止まった。当時の取税人というのは、裕福ではあったが、民衆からは罪人と同列に考えられ、忌み嫌われていた。

取税人というのは、公の職務につく、いわゆる公務員であるが、当時の取税人は、自分の私腹を肥やすために、決められているよりも余分のお金を民衆から巻き上げていたので、ひどく憎まれていた(ローマ帝国はこの不正を知っていたが、見て見ぬ振りをしていた。それは帝国に対する不満を、取税人個人に向けさせるためであった。つまり憎まれることが仕事みたいなのが取税人)

取税人にも2種類があって、このマタイという人は、特に民衆から嫌われている通行税を徴収する取税人であった。

通行税というのは、所得税よりもより多く騙し取ることが出来た。ユダヤの教えでは嘘は禁じられていたが、通行税の取税人にだけは嘘をついて良いと言われるほどであった。それほど、当たり前のように、多くのお金を同胞から巻き上げていたのである。

「私について来なさい…

私の弟子になりなさい」

イエスが突然にこのマタイという取税人に「ついて来なさい」というので、弟子達は仰天した。

取税人に話しかける者など、同じ取税人か罪人(娼婦など)くらいで、祭司や学者はもちろんのこと、民衆からも白い目で見られていて、誰も交流しようなどとは思わなかった。

そんな者に、自分達の先生は「弟子になりなさい」と言う。意味がわからないので、動揺したのだが、それと同時にこうも思っていた

こんな奴が弟子になるわけがない

しかし、この思いをひっくり返す事が起こったのである。

「従います、ラビ(先生)」

なんと、すぐさま立ち上がり、従ったのであった。弟子達は更に仰天して、空いた口が塞がらなかった。一体何が起こったのだろう?

そして、その従順さは、この時点では、他の弟子の中で一番と言っても良いかもしれない。これまでのイエスの弟子は皆、漁師であった。漁師というのは一度職を離れても、いつでも復帰することは出来たのである。つまり、イエスへ従うことを途中でやめたとしても、やり直すことは出来た。しかしこのマタイはそうはいかない。取税人の職を放棄すると、それ以降、取税人に戻ることは出来ない。更に、富と引き換えに、多くの憎しみを集めていたマタイは、この先、イエスがもし間違っていたとしても、帰るところなどなく、露頭に迷うことになるであろう。そういう状況でありながら、マタイはその全てを捨てて、イエスへ従ったのであった。

実は、マタイはイエスの噂は随分前から耳には入っていて、感銘を受けてはいたが、自分の立場を考えると、恐ろしくて近くことが出来ないでいた。しかし思ってもみないことが起こったのである。

そのイエスが目の前に来て、自分を招いてくださったのだ

その瞬間、不安などは全て吹き飛び「この方に付き従おう」とすぐさま決心したのである。マタイはこの時、それまでの自分が赦された気がした。

マタイが召命されてから少しして、イエスがマタイの家で食事の席についていた時のこと。

弟子達は動揺していた。集まって食事しているのは、弟子達だけでなく

多くの取税人や罪人(娼婦)達

も大勢いた。それはマタイの友人達であった。この組み合わせには違和感しかなかった。片や聖職者で片や罪人…それらが仲良く食卓を囲んでいるのである。弟子達は困惑していたが、取税人、罪人、イエスは皆笑顔であった。

困惑していたのは、取り巻く民衆も同じであった。

ラビの食事会というのは、聖書の教えなどを説く場でもあり、誰でもその教えを聞くことができるように、開かれた場として公開されている

民衆の中に混じって、議会から派遣されているパリサイ派の学者達もいた。前回の報告の結果、今回の派遣では尋問が許されたので

メシア運動への対応としては『観察→尋問→決断』と順をおったプロセスを踏むことになっていて、イエスは観察の結果、尋問するべきとの判断がなされ、次の段階に進んでいる

容赦無く質問を浴びせかける。その矛先はまず弟子達に向けられた。

「なぜ、あなた方の先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか?」

弟子達も理解出来ていないので、当然返答できずに困っていると、イエスがこれに答えて言った。

「医者を必要とするのは

丈夫な者ではなく病人です

『私は憐れみは好むが生贄は好まない』

とはどういう意味ですか?

私は、正しい人を招くためではなく

罪人を招くために来たのです」

旧約聖書 ホセア書 6章 6節「私は誠実を喜ぶが、生贄は喜ばない。全焼の生贄より、むしろ神を知ることを喜ぶ」

これは、その場にいた律法学者たちに対する痛烈な皮肉となった。形式的な儀式や、律法の行使にばかり目が行き、心のあり方をないがしろにしている。つまり

カッコだけで精神が伴ってない

と言っているのである。そしてイエスの言う「正しい人」と言うのは義人のことではない。自分は正しいと奢っている、あぐらをかいた律法学者達に向けられた皮肉に満ちた表現であった。そのことも感じ取ったので、余計に腹立たしく感じていた。

それと同時に、招かれた客人である取税人と罪人は多いに喜び、イエスを讃えたのであった。

33話へ続く…