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自分のためにだけ生きる

この人のために役に立ちたい、という感情が、昔からあまりない。
顔の見えない、自分を誰か認識していない不特定多数の誰かに、何かをしようと思えないし、しても特に感情が湧かない。
「誰々のために」、「世のため、人のため」という言葉が、自分の欲求をきれいにオブラートに包むための嘘に聞こえる事が多い。(心から世のため,人のためをやっている人はいて、そういう人からは嘘の匂いがしない)
正直に、自分がこうすると気持ちいいから、楽しいからこうしている、と言ったほうが、生き方として美しいと自分は思う。

から、全て自分のために、自分がしたい、自分が気持ちよくなることをして、気持ち悪いことはやらない。
たまたま、気持ちいいことが社会に貢献することになれば、それでいいし、そうならなくてもそれでいい。

もし、子供が生まれても、「子供のために働く」みたいなことは言いたくない。僕が子供だったら、それを重荷に感じるからだ。
勝手に生んでおいて、なぜ「俺はお前のために生きているから、お前は幸せになってくれ」と、子供に自分の幸せを負わせるのか。幸せになるのはまずあんた自身だろう、と思うだろうから。

そうじゃなくて、自分の人生を更に豊かで、面白いものにするために、子供を育てさせてもらっている、と思いたい。

電車でおばあさんに席を譲るのは、社会のためでも、おばあさんのためでもなく、自分がそうしているとカッコいいやつに感じられて、気持ちいいからだ。
人の悩みの相談に乗るのは、その人が悩みが晴れた時の顔を見るのが気持ちいいし、自分の悩みを考えるのにも役立つからだ。
高いところに登るのは、それがなにか社会のためになるからではなく、ただヒリヒリする感覚が気持ちいいからだ。
好きな人にプレゼントをするのは、自分がそうするといい男になった気がして気持ちいいし、相手が喜んでくれた場合、さらに気持ちいいからだ。

自分にとっては、タバコを吸うのも、おばあさんに席を譲るのも、人の悩み相談に乗るのも、高いところに登るのも、自転車で爆走するのも、全て自分のためで、自分が気持ちいいからやっていて、その観点からは全て同じものだ。「世のため、人のため」はない。

そこを「自分は気持ちよくないけど、この人が気持ちいいから、俺はそれでいい」という状態になると、自分の場合は、徐々に自分の行動の責任を、その他者に押し付けることになる。
「俺はやりたくなかったけど、相手が(会社が、社会が、親が、空気が)やって欲しいって言った、またはその素振りをみせたから、しかたなくやった」という状態になる。
僕は、そういう風にして他人に自分の行動の責任を押し付けることはしたくない。

だから、自分のためにしか生きないし、自分のやりたくないことはやらない、ときっぱりと断る勇気を持ちたい。

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