見出し画像

「イギリス(ロンドン)は寛容、日本は寛容じゃない」ってほんとう?

私は今京都の大学の4年生を途中から休学して、ロンドンに1年留学しています。
ロンドンに9月に来てからはや半年が過ぎました。

日本にいた時、人の立場や考え方に対して「ロンドンは日本よりも寛容」だと聞いていました。私も来てすぐのころは、「なんて寛容な街!」とびっくりしていたのを覚えています。

でも最近、少し感じ方が変わっています。

例えば、電車に乗っているとき。
ロンドンでは犬を地下鉄や電車の中に連れて入ることが出来ます。しかも、その犬に対して向ける目はみんなとっても優しい。笑 なかなか混んでいる電車の中で犬がまあまあのスペースを確保していても嫌そうにする人はいません。にっこり微笑んで、なんならなでなでまでして降りていきます。飼い主と犬を通して会話することだってあります。

例えば、街を歩いているとき。
ロンドンは人が多い割に、他のヨーロッパの街並みやイギリス郊外によくみられるように道が広いわけではないので、よく人にぶつかります。そのたびに「Excuse me」「Sorry」「Thank you」運がいいときには、ただよけただけなのに、それと一緒ににっこり笑顔までもらえます。わあ、なんて寛容なんだ。と思います。

例えば、バスに乗っているとき。
ロンドンでは電車の料金が高いので、電車よりも値段の安いバスは市民の大事な足です。(いわゆる二段バス、ダブルデッカーってやつですね!) でも気を付けないといけないのは、バスはしょっちゅう目的地を変更したり、なんならもうここから先動きません、なんて平気で言い出します。日本の時刻にももちろん目的地にも正確な交通に慣れていると、「え、いや勘弁して~」となりますが、ロンドンっこたちはそんなこと気にも留めません。顔色ひとつ変えず、素早く、ぞろぞろと降りていきます。ええ、全然怒らないなんて、なんて寛容!

最後にもうひとつ例を。
例えば、買い物をしているとき。ある本屋さんは1階と地下に分かれていて、地下の本はすべて1£(ポンド)、でも1階の本は通常料金(約15£)です。支払いのためいくつかごちゃまぜでカウンターにもっていくと、聞かれるわけです。「どれがどっちから持ってきたの?」
「ん?」となるわけです。知らないの?笑 という感じです。私はチキンなので、そこで「全部地下からだから全部1£だよ」なんていう心臓の持ち主ではなかったので、正直に告白して支払いをしました。でも、これ全然嘘ついてもばれなかったよね?と思ったりするわけで、こんなことを許してしまうなんて、なんて寛容!

これらの例で、もう十分にロンドンが寛容な街だということはみなさんに伝わったと思います。
でももう少し考えてみた時に、どうでしょう。
例えば犬が乗る電車。犬アレルギーの人がいた場合はどうするんでしょうか。恐らく、車両を変えたり、電車に乗るのを避けたりするでしょう。犬を連れている人はきっとそんなこと気にも留めていないはずです。
例えばぶつかる際に言われる挨拶。かといって彼らが人にぶつかることを避けるかといえば、まったくそうではありません。ロンドンではかなり人にぶつかられます。笑 避けるとかいう概念はほぼありません。謝ってるからいいじゃろ、というような雰囲気すら感じます。笑
例えば行先の変わるバス。行先変わること、先に伝えといてくれればみんな幸せなんだけどなあ。と思います。笑
最後に、本屋さん。逆を言えば、自分がしっかりしていないと1£のものが正規の値段で払わないといけないことになるかもしれないわけで。実際に、ディスカウント商品が平気でディスカウントになっていなかったりしたこともあります。
ここにはある意味での不寛容もあるわけです。

さて、何が言いたいかというと、ロンドンは確かに寛容な街だと思います。もっと本質的な話をすれば、ゲイの人たちはもう完全に認知されていて道でキスをしていても何ら不思議じゃないですし、私のようなアジア人が歩いていても、セントラルロンドンであればじろじろ見られることもありません。

ただ、もう少し小さな暮らしの中の寛容という話でいくと、他者に「寛容である」ということをどう定義するかだな~としみじみ思うのです。
寛容であることが、

●(異なる)他者を意識して、それを受け入れお互いに生きやすくしようという心構え

なのか

●(異なる)他者を意識せず、「自分は自分。人は人。」という心構え
なのか。

私はロンドンの人たちの心構えを下のように感じています。さらにはっきり言えば、無関心、で、個人主義が徹底されています。声の発しない誰かのために我慢する、という概念がありません。それはある種の不寛容も生んでいます。
この寛容さももちろん好きですし、生きやすいな~、と思うことはしょっちゅうあります。ですが同時に、日本にいたころの「寛容さ」が恋しくなることもあります。よく海外と日本を比較して、日本は不寛容だ、と断言する人がいますが、そうとも言い切れないんじゃないかなあと。(ただし、先ほどあげたより本質的なことに関しては均一的で不寛容な側面があるとは当然思っています。)

確かに、社会的な慣習、的なものがたくさんあって、それらの多くが「他人に迷惑をかけない」ことを前提に形成されています。それは時に息苦しさを感じることもありますが、出来るだけ多くの人が生きやすい、ようにうまくできているなあと思うこともあるわけです。
例えば、食べ物を残さない、とか。自分は後でお腹壊すかもしれないですけど、店の人は廃棄が少ないほうがハッピーです。例えば、わんちゃんを乗り物に乗せるときはかごに入れる、とか。わんちゃんは少しかわいそうですが、それなら周りにアレルギーの人がいてもいくぶんかマシでしょう。

結論を言うと、ロンドンも日本の都市も種類は違えど寛容で、そして不寛容だと思います。
ただ、日本がよく「寛容じゃない」と言われるのは、日本ではその寛容さの裏に必ず誰かの「気遣い」そしてさらに言えば「我慢」があることを忘れてしまうからだと感じます。それを忘れてしまうと、そこには不寛容が生まれます。
そしてさらに、「気遣い」のレベルや対象は人によって違います。多数派の気遣いを当然とし、「なんであの人はあんなに気遣いが出来ないんだ」と少数派の人たちを批判し始めると、新たな不寛容が生まれます。せっかく気遣いをするなら、その気遣いのレベルや対象は多様であっていいはずです。

絶対的にすべての人間に対して寛容である社会は、人間が全員同じ好み趣向に偏ったロボットみたいにならない限りありえません。
だからこそ、常に、自分の立場や考え方は絶対善ではない、ということを忘れないでいたい。声を発しにくい出来るだけたくさんの人の目線に立ってみたい。

寛容だ、とか不寛容だ、とか、いいとか悪いとか。ロンドンにきて、やっぱり今まで見てこなかった新鮮な面がたくさん見えることでそれをすぐ二面的に判断してしまいそうになりますが、そこで一度立ち止まって、考えれたらと思っています。


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?