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善意にためらい、をもたらす恥の感覚

ロンドンに来て、驚いたことがあります。
それは、暮らしの中で、特に誰かに対してする行動の中に「ためらい」が無いことです。

私は、自分の性格が優柔不断なこともありますが、日本にいた時、そしてこちらに来てからもよくためらいます。

例えば、電車でお年寄りの方が乗ってきたとき。
席を譲る、という行為が悪いことだとは思いませんし、譲ればいいのですが、考えてしまうのです。「席をゆずるべきかどうか」を。
でもロンドンでは、例外なくみんなすぐ譲ります。お年寄りに限らず、妊婦さん、しんどそうな人、荷物が大きい人、目の見えない人、どんな人でも気になる人がいれば、席を譲ったり案内したり、します。その速さは、いつもあれだけ個人主義的な人たちとは思えないほどの素早さがあり、自分がためらうためらわないに限らず間に合わないほどの速さです。

例えば、隣りで人がつまずいてこけたとき。
こちらでは、誰かがすぐ駆け寄り、とりあえず話すのです。「大丈夫?何をしようか、手伝おうか」って。私もひどいけがだと一見して明らかな場合はもちろんよっていくのですが、でも、「どう行動すべきか」をまず考えてしまうのです。

例えば、友達が同性愛者であるとカミングアウトを受けたとき。
カミングアウトだって、そこで一瞬でも沈黙にはなる必要はないはずです。実際にロンドンで友達が友達にカミングアウトする場面も何度か遭遇しましたが、とっても自然なのです。「へえ~そうなのね、素敵ね、で、どんな人なの?」と恋バナが始まっていくのが通常です。でも、私は考えてしまっていたのです。「どう反応すべきか」と。

この「べき論」の中にあるものが何なのか、もう少し考えてみたくなりました。

電車でお年寄りの人が乗ってきたときの例をもう少し考えてみると。

まず、よ~く観察して、しんどそうか元気そうか、譲られたい人かそうでない人か、をまず見極めようという無駄な時間を過ごしてしまいます。
その理由は、もし譲ったとして、「まだ元気なのにお年寄りとして認識されてしまった」と怒りや悲しみを感じてほしくない、つまり相手に恥をかかせたくない、あるいは、そのような態度を反応としてもらったときに、自分が恥をかきたくない、のどちらかでしょう。

でもロンドンでは、例外なくみんなすぐ譲ります。お年寄りに限らず、妊婦さん、しんどそうな人、荷物が大きい人、目の見えない人、どんな人でも気になる人がいれば、席を譲ったり案内したり、します。
その速さは、いつもあれだけ個人主義的な人たちとは思えないほどの素早さがあり、自分がためらうためらわないに限らず間に合わないほどの速さです。
もちろん、人によっては何らか理由をつけて断る人がいます。でもそれはそれでいいのです。譲ろうとした人、手伝おうとした人は、そうですか、といってまた自分の世界に戻っていきます。

ただ、その譲られた方の人が断る理由も、「申し訳ないから」という理由ではありません。人によってはただ恐縮して断っている人もいるのかもしれませんが、実際に「いやいや申し訳ないので大丈夫です」と言っている人は見たことがありません。「次で降りるから」とか「元気だから」とか。日本でよく見る、「いやいやいいですよ」「いやいや本当に大丈夫なので」「いやいやいや」「いやいやいやいや」という押し問答は基本見かけないのです。
善意は善意として受け取る。恐縮しない文化、がそこにはあります。

そしてこの「恐縮」も、よく考えてみると「恥」からきていると思うのです。ただストレートに「いいんですか、じゃあ遠慮なく」ってなんだか、がめつくて恥ずかしくないですか?といったように。

恥をかかせたくない、恥をかきたくない。
この感情は日本に限らずどの国でもあることでしょう。でも、こと、今日ここにあげた、「善意(気持ち)をあらわす」という行為にあらわれる「恥」の感覚は非常に独特だと思うのです。
善意は善意を表す側と、それを受け取る側の気持ちが最も大事で尊重されてよいはずです。その際に善意を受け取った相手が、これは善意ではないのでは、と判断すればそれを相手に伝え、そうですか、とそのふたりの中で完結してよいと思うのです。
ですが、ここで私が気にしている「恥」の感覚は、そうではありません。自分の行為が相手にどう思われるか、というよりも、自分の行為が不特定多数(社会)にどう思われるか、そして自分の行為によって相手が不特定多数(社会)にどう思われるかと、そこにはふたりの気持ちというよりも、その関係性に本来含まれないはずの不特定多数、社会、が尊重されているのです。

メディア、SNSを通しての発信が増え、自分の言葉を不特定多数に発することが多くなった時代。そんな時代において、この「恥」の感覚はときに容易に、多数派の暴力として人を傷つけることもあると思っています。そして自分自身も発信していく中で、何を思って、誰に、自分の中から言葉を発するのか、そのことに常に気を留めておく必要があるなと感じます。

だからこそ、普段の暮らしの中の善意や相手を思う気持ちは特に、顔の見える相手とふたりの関係の中で大切に伝えていきたいと、そう思います。そして受け取った善意や相手の気持ちには、ただ自分がそれをどう思ったかで、気持ちよくこたえられますように。


おわり


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