見出し画像

天皇賞秋 1988-2002 距離2000mの悪夢

「競馬場とか、どこも同じでしょ」
そう思っているそこのあなた。違うのです。すべての競馬場、違います。
前作、『ミスターシービーの、12の小噺』にて、天皇賞秋に関する話がかなり反響がありましたので、少し特化して掘り下げてみよう、というのが、今回の趣旨です。
その前に、恒例となりました無断転載に関する注意喚起です。
禁止对本文档进行未经授权的翻译、复制或故意修改。不要说别人的成就是你的。您不能仅通过输入 URL 来获得许可。
こちらも各種引用してますし、記事を元にして自分の意見や題材を発展ならまだしも、全部丸々翻訳して、こちらの伝えたい部分を勝手に削除してってのは、流石におかしいと思うんですね。画像等、見難いでしょうが、無断転載対策ですので、ご理解ください。


距離変更

天皇賞秋は、1938年から1983年までは、東京競馬場で距離は天皇賞春と同じで、3200mだった。
何故距離が変更されたのかは拙作に書いたが、1984年からは、距離2000mとなり、開催時期も、11月下旬から、現在のように前倒しされた。ジャパンカップ開催による諸事情によるが、それまでは、1965年の二代目三冠馬シンザンから、1984年の三代目三冠馬ミスターシービーまでの18回1番人気の本命馬が、すべて敗北するという状態になった。ミスターシービーの父トウショウボーイは1977年に7着。鞍上は武豊騎手のお父様武邦彦騎手だった。とはいえ、18回中、11回は本命馬は五着までの掲示板入線をしているし、今回のテーマとは外れるので、何故と思った方は、調べて楽しんでほしい。
今回は、1985年にシンボリルドルフが、あっと驚くギャロップダイナの2着になり、1986年、ミホシンザンがサクラユタカオーの3着になり、1987年に、ニッポーテイオー(ハルウララの父)が勝利してから、2000年にテイエムオペラオーが勝利するまで、1番人気馬が12連敗したのは何故かを、扱う。


12連敗の敗北理由

①1988年 オグリキャップ 結果2着
『ウマ娘シンデレラグレイ』35話からを読みましょう。

②1989年 オグリキャップ 結果2着
スーパークリークが強かった。

③1990年 オグリキャップ 結果6着
ジャパンカップまでアカン状態。有馬記念で鞍上武豊騎手になり、伝説の有馬オグリコールへ。

④1991年 メジロマックイーン 結果1着から降着で18着
下記別途記載。

⑤1992年 トウカイテイオー 結果7着
下記別途記載。

⑥1993年 ライスシャワー 結果6着
ステイヤー馬からすると、距離が短か過ぎた。

⑦1994年 ビワハヤヒデ 結果5着
競走中に屈腱炎を発症。そのまま引退。

⑧1995年 ナリタブライアン 結果12着
怪我からの休養明けぶっつけ本番。弟も大丈夫ではなかった。

⑨1996年 サクラローレル 結果3着

引用元 © Cygames.Inc

⑩1997年 バブルガムフェロー 結果2着
たわけが口癖の生徒会副会長に競り負けた。

⑪1998年 サイレンススズカ 競走中止
下記別途記載。

⑫1999年 セイウンスカイ 結果5着
アニメウマ娘の1期をと云いたいが、省略されている部分もあるので。
スペシャルウイークが京都大賞典で7着になり、直前の調教がまったくよろしくなく、結果セイウンスカイが押し出しで1番人気になった。
以下、2001年はテイエムオペラオーの2着、2002年のテイエムオーシャンの13着になる。
尚、2002年は改修工事中だったので、天皇賞秋は中山競馬場で開催され、シンボリクリスエスが1着となった。
阿寒湖総大将ステイゴールドは、1998年から、2着、2着、7着、7着の結果を残した。


マックイーンの降着が、すべてを教えてくれる

競馬場に存在する鉄塔の正体

パトロールビデオ、という物が存在する。
競走中の不正行為・反則の判断の為に撮影されるビデオのことで、パトロールフィルムとも呼ばれる。

赤枠が中山競馬場の、パトロールビデオを撮影する、パトロールタワーの位置の一部。

公営競技に限らず、色々な競技で導入されている。2006年より外に向けて一般公開もされるようになり、2017年からは、すべてのレースが当日に確認できるようになった。

存在をご理解していただいたと思うので、第104回天皇賞、メジロマックイーンが降着の原因と判断された、パトロールビデオを、ご覧いただく。

所謂、斜向による審議からの降着処分。

こちらの公式だと、当該の現場が、非常に観難い。
通常、審議の対象になるのは第4コーナーが多く、最初のコーナーが審議の対象になるのは、珍しい。尚、東京競馬場ではこのコーナーは第2コーナーになるので、わかりやすくする為に、最初のコーナーと、ここでは表記する。何故そうなるかは、問題の肝になるので、後述する。
このビデオが存在しなければ、まず暴動になっていただろう。1着馬の降着とは、それだけの力を揺り動かす。1着だと思い、何十万もの本命馬券を握りしめ、銭にしようと並んでいる馬券師やファンを待たせた挙句に最下位降着。孫である白いアイツの宝塚記念より影響力は大きかった。
1991年当時パトロールビデオは、問題となった当該レースの場合のみ、説明として公開していたが、審議になったレースでも、問題のなかったレースのビデオは公開されなかった。問題がないのならば、当然の考えになる。
このマックイーン降着騒動で、パトロールビデオの存在を知ったファンも、実は多かったのだ。
パトロールビデオは、1999年より競馬場内で審議のレースは公開となり、順次、ホームページ等で公開されるようになったのは、前述の通りである。

引用元 © Cygames.Inc

ミスターシービーは良くてマックイーンは駄目なのか

そうメジロの総帥が、言ったとか言わないとかあるが、実は明確なソースがない。ご存知の方がいるなら文献と共にお教えを(ただしwikiや掲示板は除く)。
当然、マックイーンの降着には賛否両論があり、ミスターシービーの日本ダービーの、第4コーナーからの斜向を持ち出す者も多かった。

吉永騎手の4日間の騎乗停止と、トロフィーの剥奪という決着で、ミスターシービーの降着(当時は失格)は、なかった。失格にせよという声もあったが。
公式ではわかり難いが、第4コーナーをミスターシービーが回った段階で、外に斜行してきたタケノヒエンを回避した時、より外を走っていたキクノフラッシュと衝突し、その反動で、後方から進出してきたニシノスキーの進路を横切る形となり、そこから体勢を立て直してビンゴカンタを一気にかわし、そのままゴール入線、となる。
ここがマックイーンと異なる点で、最初に仕掛けたのが、ミスターシービーでは、ない。タケノヒエンを回避する動作をした時に、そこに外からキクノフラッシュが入り衝突という偶発性の斜向だったのである。もちろん、それを活かすだけの騎手の技量もあるだろう。ステイゴールドの引退レースは、最後の差しで右によれてラチに当たりそうになるも、その直し反動でターフに押し戻り勢いが付いたのは、誰の目にも確認できる。ステイゴールドのその癖を、武豊騎手が知っていたから、とも言われている。ただし、ラチ当たっているのではという説明文献もあるので、そこは謎扱いでも良いと思う。
このマックイーンの降着時の鞍上は、その武豊騎手。オグリコールの翌年であり、まだ若い。
踏まえてこの斜向問題は、シンボリルドルフも皐月賞でやらかしているこの時代は、今よりも騎手に対して競馬界が徒弟制度に強く厳しかった前提で、次の項目はお読み願いたい。

降着論議の切欠となったシンボリルドルフの斜向

動画では1分57秒で、ビゼンニシキ(ダイタクヘリオスの父)とぶつかり斜向している。
これで鞍上岡部騎手は2日間の騎乗停止処分になるが、この問題の奥は、案外と深い。皐月賞前の弥生賞では、ビゼンニシキが、ルドルフを抑えて一番人気になっていた。何より、弥生賞以前のビゼンニシキの鞍上は、デビューから4戦無敗で、岡部騎手だったのである。つまり岡部騎手は、互いに自分が騎乗し、どちらも弥生賞を迎えるまで無敗の馬の、どちらかを選ぶ必要性が発生し、ルドルフを選んだ。その結果、ビセンニシキ単勝人気1.9倍、シンボリルドルフ単勝人気3.7倍。

背景としては、ビゼンニシキよりもルドルフを選択した事で、ビゼンニシキ陣営が大憤慨。オーナーが岡部騎手の若手時代からの恩人で、結婚式では媒酌人を務めており、その上で、岡部騎手が選択の際に舌禍を起こし、憤慨するだけの理由が陣営側にはあった。とはいえこれらの背景は、武豊騎手等の人気騎手に限らず、現在でも誰にでも通ずる話であるのは自明の理。
弥生賞をルドルフが勝利し、燻る中の皐月賞で、一着を巡る競り合いの中の衝突斜向となり、偶発性以前にビゼンニシキ陣営が猛抗議。結果覆らず、陣営厩舎と岡部騎手は絶縁となった(参考資料・優駿1989年4月号)。
ただし騎手とオーナー側との絶縁は現在でもよくある話。ちなみに皐月賞3番人気のアカサジャンボも岡部騎手が騎乗している馬だった。こちらは皐月賞の次走で、きちんと岡部騎手は騎乗している。
この事実からして、優秀な馬が二頭出てしまい、前年にシービーが三冠馬になったプレッシャーもあり、岡部騎手が相当悩んだのは理解できる。それは両陣営にとっても同じ。
自分は、この事案が、後々まで、ルドルフの人気に影を差したと考える。何故ルドルフはシービーより人気がなかったを問われると、弥生賞で2番人気になってしまった理由が答えだとする。「恩知らず」「そこまでしてまで勝ちたいのか」という認識や声が、当時のファンの中にあったのは、否定できないし、それが馬券人気に表れ、皐月賞の衝突斜向で顕著になってしまったと見た記憶は、ある。
ただ、逆にビゼンニシキを選んだとしても、同じ騒ぎになっていただろうし、あくまでも結果論。今ではなく、当時の倫理観を踏まえて考えるべき話。
このシービーとルドルフの斜向により、日本の競馬界に、失格ではなく、降着の論議が起き1991年1月1日から導入された経緯がある。降着制度に関しては、後日機会があれば。

さて、実は本題は、ここから。

予測されていたマックイーンの斜向

引用元・【ウマ娘】全G1レースのコース図と終盤加速Tier表

見ての通り、天皇賞秋は、東京競馬場のゴール右の第1コーナの奥にあるポケット地点と呼ばれる場所からスタートする、超変則だ。なので、最初のコーナーは、第2コーナー、という話になる。
東京芝2000mは、ネズミ花火のようなコースで走る。その上、これは2002年からの改修工事の結果であり、それ以前は、スタートから第1コーナーまでの距離は、今よりも23m短く、最初のコーナーも今よりも鋭角
そう、ご紹介したマックイーンのパトロールビデオが、当時の酷さを、よく現わしているのだ。現在の、最初のコーナーまでの距離は120m。マックイーンの時は、100mなかった計算になる。
ご興味がある方は、航空写真等で各自お調べを。あえてここでは参考提示は行わない(航空写真を無断転用されると、ちょいと面倒だから)。
実はこの問題、天皇賞秋が2000mになるという段階で、すでに机上にはあったのだ。当時の日本中央競馬会の「競馬番組研究会」で議論されたが、距離の変更を決めるのであってコースの変更ではないという如何にもなお役所論理で、この議題は打ち捨てれた。日本中央競馬会は農水省所管だから、お役所論理になるのはある意味当たり前で、先送りされた結果が、マックイーンの降着なのである。

酷いコースなのに、通常の馬券は荒れていなかった。

距離が2000mになった天皇賞秋は、前途のように改修前の2002年まで、大荒れに荒れたのだが、東京競馬場芝2000mを使うレースは、天皇賞秋だけではない。むしろ2000mのレースの馬券的中率は、他よりも高かった。
ここで再び、マックイーンのパトロールビデオを確認してほしい。

逃げ馬や先行場が、大外枠になってしまった場合、先頭を取るには、最初のコーナーまでに良い位置を取るために、この走りしか、ないのだ。それでなければ外からの大回りで、最初のコーナーを処理しなければならない。かといって被せて来る馬をいちいち避けて優先していたら、騎手の仕事にならない。
今でこそ、23mの延長で事故は少なくなったが、それでも東京芝2000mは、外枠不利なのだ。改修後でも、最初のコーナーまでの距離は日本一短い
外枠不利というのは、馬券的に、外枠の馬を、捨てられる、という意味だ。だから、分母の総数が少なくなるから、逆に当てやすくなるという論理になる。なので普段のレースでは、馬券が的中する確率は、今でも他レースより高い。他のレースより儲けられるなら、そのままにしておけと言う、馬券師も多いのだから。

何故天皇賞秋だけ、大荒れになるのか

馬券を買うのはG1の時だけというファンが多いから。そして、この馬なら勝ってくれるに違いないという甘い期待で、外枠に入っているけど、コースの仕組みも知らずに、ただ強いというだけで、買うから。
実際、東京競馬場芝2000mのコースがこうだったと、知らないファンの方が圧倒的に、多い筈だ。
当然、マックイーンに関して擁護の意見もあった。このコースを使う以上、レースの度に同じ問題が起きているから。各種意見はそれぞれの立場から膨大にあるので、ここでは直接は触れない。

改修後は

2003年からの実績は、それなりに一番人気が一着になっている。大連敗はなくなった。だが、一線級の馬だから対応できるのであって、外枠不利は、今でも変わらない。

ルドルフの幻影を追いかけたトウカイテイオー

シンボリルドルフが負けた理由

春の天皇賞以来、体調不良の海外遠征中止の休養明け大外17番出遅れハイペース。かかって向こう正面から先頭、早い話が、燃料切れである。

 あっと驚くではない実況だが、今回はコース問題もあるので、公式動画で統一する。

トウカイテイオーが負けた理由

春の天皇賞以来、骨折による休養明け外7枠15番馬鹿逃げコンビ、メジロパーマーとダイタクヘリオスの後ろに付けて、第4コーナーを回ったところで燃料切れ。ルドルフと、同じように見えて違うのは、そう、あの最初のコーナーでの処理になる。

鞍上は、天皇賞春の段階で、ルドルフと同じ、岡部騎手に乗り替わっていた。
東京芝2000mの、最初のコーナーを問題なく超える為に外枠から加速して、暴走コンビに付いて行き、岡部騎手の抑えも聞かず、後年にテイオー暴走と称されるまでの燃料切れを起こしてしまったのである。ルドルフでの失敗をしないように騎乗したであろうとは容易に想像できるが、結果は、見ての通り。

古馬ローテーションの問題

ウマ娘にも実装されているが、古馬のローテーション問題がある。
天皇賞秋に出走するまでのレースを、まずは考えてもらいたい。
まず、天皇賞春から宝塚記念。その間に目黒記念を入れる場合もあるだろう。宝塚記念を出たら、夏競馬をお休みし、ライスシャワーのように宝塚に出なかった馬は、オールカマーから始動する。新潟記念ハンデを背負うからあるからまず使わない。以下ハンデ戦の説明参考資料。

宝塚記念からの休養明けは、毎日王冠か、京都大賞典。そして天皇賞秋だ。
では天皇賞春より前は、どうか。
天皇賞春への優先出走権のレースは、阪神大賞典か、日経賞。大阪杯を使う馬は、地方への門戸開放もあり、まず阪神大賞典に出るか、出走権が取れなかったか、サイクル的に出れなかった馬が出走する。ミスターシービーの、天皇賞春前が、まさにそれだった。それに当時はまだ産経大阪杯と呼ばれ、G1昇格前の時代だ。大阪杯として開催されるのは、2017年からになる。中山記念や小倉大賞典は1800m。
それより前は、有馬記念、ジャパンカップとなる。だがその時はクラシックだから、シニアではない。
お気付きだろうか。出走できる距離2000mのレースが、クラシック戦線を回避した上の天皇賞秋か、大阪杯以外、ないのだ。一線級の馬は、皐月賞まで遡らないと、2000mのレースに出走経験がない、という話になりかねない。おまけに弥生賞も皐月賞も中山競馬場。ヘタすれば、どの馬も、東京芝2000mを、一度も走っていないという事態も、起こりえる。例え大阪杯を使ったとしても、そこは阪神競馬場になる。
スズカも出走した中京競馬場の金鯱賞は、今でこそ宝塚記念へのローテーションで2000mだが、95年までは1800mでハンデ戦だった。
感覚もつかめない距離感で、東京芝2000mを走らされる。どう考えても、無茶な話なのだ。
ただし、サイレンススズカはクラシックの時に天皇賞秋に出走しているが、本格化前で6着。これに関しては後述する。
自分は、サイレンススズカの悲劇はこのローテーションが原因であり、スズカの天皇賞秋の走りは、大逃げではなかったと、考えている。

サイレンススズカの天皇賞秋は、大逃げではない?

馬鹿逃げコンビとのラップタイムを比較してみると

まず最初に、資料だけ上げる。サイレンススズカのあのシーンを観たくないという方は、観覧注意で願う。

92年は、トウカイテイオーが負けた天皇賞秋。
98年は、サイレンススズカの、天皇賞秋。
97年は、エアグルーブ1着の天皇賞秋だが、スズカが出走している。

92年は馬鹿逃げコンビの大暴走で、98年はサイレンススズカの大逃げと言われ、実際の動画では、スズカの大逃げが決まっているように見えるが、これは、ツインターボのオールカマーと構図が同じなのだと言えば、信じるだろうか。後続が、スズカに付いて行っていないだけなのだ。ただのペースの早い競馬が、大逃げに見えている。
その証拠が、ラップタイムにある。97年116回は、スズカの戦法は同じだが、まず最初は参考として見ていただきたい。

電撃0011引用作成。

数字は左から1ハロン、200mごとの通過タイムになる。
106回か、馬鹿逃げコンビ、118回がサイレンススズカ、116回が、その一年前のスズカになる。116回を参考として、106回と118回に注目を。
数字は嘘をつかない。開始800mで、馬鹿逃げコンビと、スズカの到達速度は、まったく同じなのだ。そして1000mで、0.1秒だけ、スズカが早い。だが1200mでは、逆に0.4秒遅い。残り800mのハロン棒をスズカは問題なく超え、大欅を超えた第3と第4コーナーの中間で、問題が発生した。数字でも、残り800mから600mの間で問題が起きたと示している。
これは数字からすると、すぐに故障・怪我をすると仮定しても、残り800mの段階で馬鹿逃げコンビよりも遅かった、という意味だ。そして馬鹿逃げコンビのダイタクヘリオスは残り200mまでトップだった。
公式動画を並べて再生すれば、もっとわかる。スズカがリードを相当に広げているように、見えているだけだ。馬鹿逃げコンビが暴走と呼ばれているなら、スズカも暴走の部類になる理屈。やはりツインターボのオールカマーと同じ構図の気配がする。
また、メジロパーマーとダイタクヘリオスに対しては異常なハイペース、サイレンススズカは超ハイペースと表現するのも、何かおかしい。あえて神格化されているように見えなくもない。
尚、スズカの毎日王冠の際のラップタイムは、1000mで57.7。だが毎日王冠は同じ東京競馬場でも距離1800m(天皇賞秋の距離変更された1984年に、2000mから1800mになった)。配分も感覚も、異なっていた筈である。
追込馬は、ミスターシービーのように、残り600mでトンデモな速度を出す。踏まえると、大逃げは、ゴールを駆け抜けて、初めて成立するのだろう、失敗すれば、有馬記念のツインターボのように、暴走という評価になる。宝塚記念、毎日王冠と逃げを成功させたから、大逃げという表現が先行してしまったと思う。だからこそ、この天皇賞秋には参戦が少なく、例年より少ない12頭立てになり、大外枠の不利を消してしまい、他の馬に不要な力を使わせる事なく、最初のコーナーをスムーズに通過させ、スタミナ温存のまま、スズカの燃料切れを待つ競馬になってしまった。
悲劇の中に埋もれてしまった数字は、きちんと評価するべき。
自分は、スズカの怪我の原因は、大逃げや暴走ではなく、東京競馬場のコースと、天皇賞秋に至るローテーション内に、距離2000mの適正なレースが存在しない事による感覚差だと、考えている。どの馬でも条件は同じと言う方もいるとは思うが、関係者が注意して運用し、事故が起きていないだけとしか、思えないのだ。
97年の116回天皇賞秋では、戦法は同じで、スズカのラップタイムは、おおよそ98年の1秒遅れ。1年後、本格化し、天皇賞秋に挑んだが、陣営にとっては、それは無理でも無茶でもない、武豊騎手にとっても当然の走りであり、だからこそ、「原因は分からないのではなく、ない」と呟いたのだろう。
しかし、事が起きた以上、必ず理由がある。
スズカの悲劇が繰り返されないように、編成には更なるコースの是正をお願いしたい。

現在の天皇賞秋のレコードレース

トーセンジョーダンがレコード記録を持つ天皇賞秋の、1000mラップタイムは、56.5。十年あれは、1秒は縮まる。
このタイムは、芝2000mの日本レコードタイムでもある。

最後に

東京競馬場・大欅の謎

あそこに何があるのか、知らないファンも多いと思うので。
それにつけてもシービーの実装はまだですかね。


(終)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?