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癒せない傷と映画撮影による強制的な内省

映画、アクト・オブ・キリングを観た感想文です。

アクト・オブ・キリングのあらすじをすごく乱雑にいうと、大虐殺をしたプレマン(ヤクザ)達がなぜか現地で権力を得ていて、40年経った今なお、これまたなぜか自分たちの行為を英雄のように語っている。40年越しに当時の殺人者たち自身に、どういった行為をしてきたのか自身の映画を撮影してもらうことで考えや内面に迫っていくドキュメンタリー映画だ。

数百人を殺せる人は自分達と精神が大きくことなるのか?

まず、映画をみて疑問というか違和感を感じたのは、数百人を虐殺できる人の精神性は自分と大きく異なるんだろうなと思って映画を観ていたが、この映画の中で主要キャストともいうべきアンワル・コンゴは自分と全く違う考え方をするという点もなければ、痛みや辛さを感じる性格であった点だ。
映画の中では自身のこども達に動物の世話を通して愛情を教えていたり、過激なシーンの撮影で激しく感情が不安定になってしまった女性や子どもたちをみて撮影を後悔する一面もある。
他人の痛みがわからないといったこともなく、また、他人を大切にすることもできる。そんな人が数百人を虐殺してきて40年平気でいられたのか。もちろんそんなことはなく、映画が進むにつれてアンワルの奥底に封じようとしていた罪悪感が徐々に徐々に開かれていった。

踊り、酒、覚醒剤でもごまかし続けることはできない傷

アンワルはお酒・踊り(音楽)・ドラッグにより、酔って・踊って・
飛ぶことで人を殺した罪悪感をごまかしてきた。
アンワルに限らず多くの人が現実逃避と時間経過によってほとんどの苦しみから癒やされる。ただ、虐殺を繰り返してきたアンワルにとって、40年経過してもなお、その罪悪感は消えることはないようだ。
人間には現実逃避や時間経過にたよってもどうしても拭えない魂の傷があるのかもしれない。
ただ、少し気になるのは自身の映画の撮影を通してその傷がより鮮度を取り戻していたんではないかという点だ。

自身の映画を撮影することの効能

映画撮影が開始された直後、アンワルは「映画をとおして歴史を残したい。物語を伝えたい」と嬉しそうに語っていた。ただ、映画撮影に対する楽しげな様子はすぐに消えてしまう。それはいかに自身が人々を殺害してきたかという点を演じている自身の映像を観てからだ。
映画撮影では、自身の過去を振り返り、なにを伝えるか構成を考え、自身で演じ、映像を振り返る工程を踏む。
また、映画の撮影の間ではアクトオブキリングの撮影者(インタビュアー)から罪の意識をエグる問いが投げかけられる。
40年間フタをしきれなかった、癒しきれなかった、アンワルの罪悪間はこの映画撮影の構造を踏まえて深いところにあった気持ちが表面に出てきたように思う。もしかしたらこの映画の撮影者(インタビュアー)はそこまで意図してアンワルに自身の映画の撮影をもちかけたんじゃないだろうか。

うーん、そこまで意図していたらかなり恐いな。。



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