映画を観た記録174 2024年9月12日    ジョン・フォード『怒りの葡萄』

Amazon Prime Videoでジョン・フォード『怒りの葡萄』を観る。

アメリカ小作農民は、大資本に土地を奪われ、キャンプという鉄条網に囲まれた場所に行くところがなく、キャンプでは低賃金、不当に高い商品を買わされ、仕事は仲介屋が葉巻を吸って偉そうにふんぞり返って、紹介するアメリカ小作農民は収奪対象でしかないのである。その過程を物語化している。

一言でいえば、アメリカ帝国主義国内の恥辱の歴史、血塗られた民衆の怒りの歴史が物語化され、見事に映画化されている。

ジョン・フォードは古典ハリウッド時代の神話的存在の映画監督であるが、その監督は、アメリカ帝国主義のトラウマの記憶にあたる歴史を「神話」として映画化した。

「神話」とは、神々の生きる物語ではない、そうみえるが、そうではなく、ある民族の、または集団の固有の傷ついたトラウマ記憶である歴史を「神話」として語るしかないようなそのことである。だから「モーゼの神話」なのである。それはともかくとして。

本作は、ヘンリー・フォンダ演じる主人公トム・ジョードが刑の仮出所で家族の下へ赴き、土地を奪われ、家族と共に仕事を求め、旅をするいわば「ロードムーヴィー」である。本作をヴィム・ヴェンダースが監督したと言っても何ら違和感はない。

しかし、違いはある。ヴェンダースは、映画の純粋化を目指すのに対し、ジョン・フォードは、どちらかというと物語の純粋化を目指しているのだ。物語の純粋化傾向が強いフォード映画は、本作は、背景に資本と農民の階級闘争が存在し、その背景が、アカという言葉を知らない農民トムを演じるヘンリー・フォンダに「階級的自覚」を促すにまで至るのである。ヘンリー・フォンダ演じるトムの友人であるジョン・キャラダイン演じる説教師ケーシーは農民が収奪される過程を見抜いていた。キースが語るような現実を前にして、ヘンリー演じるトムは「ケーシーは光だ。」と口にする。

まさに民衆の目覚めの映画である。

しかし、ママ・ウォードが話したセリフ「民衆は生き続けるんだよ」はジョン・フォードを無視し、プロデューサー、ダリル・F・ザナックが書きつけたようである。ハリウッドのプロデューサーはエグイことをする。そのセリフで感動的になるが、物語の主題がぼかされてしまう。

本作の主題は「階級闘争」である。

もっとも「民衆は生き続けるんだよ」は黒澤明『七人の侍』に受け継がれてしまうのであるが…

1939年発表、ジョン・スタインベックの小説が原作なので、その時代はもはや都市は近代化されており、カウンター形式で飲食するレストランは今にもあるようなレストランとして描かれている。ゆえにヴィム・ヴェンダースが本作の監督といってもそう不思議ではない。それにしても、都市で働く公務員である警察の傲慢さ、土地を奪われ、ほうぼうの態で旅する農民家族の「格差」が激しい。貧富の差が激しい。

農民を囲い込むキャンプは、今でいえば、パレスチナ難民キャンプのようなものなのである。

アメリカは自国内に、自国民を「難民キャンプ」として、しかも、自国の警察が棍棒を振り回して取り締まっていた歴史的記憶がある国家なのである。

ゆえに、本作は、民衆の血塗られた歴史、国家の恥ずべき記憶の物語を神話化して映画として見せつけた作品である。

主題は「階級闘争」である。

資本に対抗できる能力がないと、労働者は、いいように見られ、扱われ、辞めたきゃいいんだよ、と脅され、労働者は仕方なく生活のため働かざるざるを得ない。労務管理はごろつきがやるのが資本の基本的定番である。
ジョン・フォードで学ぶ「資本主義」だ。

ジョン・フォードは『男の敵』というアイルランド独立戦争をもとにした映画も作っている。『わが谷は緑なりき』は大英帝国の炭鉱労働者の苦闘を描いている。

なぜ、この監督が非米活動委員会に目を付けられなかったのか不思議でならない。

『男の敵』にせよ、『怒りの葡萄』にせよ、『わが谷は緑なりき』にせよ、相当なタフガイ的反権力映画としかみえないのだが、なぜ、フォードはハリウッドから、チャップリンのように追放されなかったのか、不思議である。


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