ヌーヴェルバーグとは「映画愛」への闘争のことである

『カイエ・デュ・シネマ』の連中は、映画を発見したというより、単にアメリカのエンタメを称賛しただけじゃんw

それは、日本でも同時代的に平行現象があり、当時の文化人も大日本帝国から解放され、アメリカ・エンタメに入れ込んだ。文化人ではないが、谷啓は、ダニーケイから名前を捩ってそのようにした。

『カイエ・デュ・シネマ』の連中も、対ナチス協力ヴィシー政権から解放されたフランスの気分が多分に影響され。フランス映画は、そのヴィシー政権の副産物のように見えて、トリュフォーの「フランス映画のある種の傾向」としてボロカスにこき下ろされる。

この連中がヒッチコックやホークス、とりわけゴダールはこの連中に最も早くヒッチコックを紹介し、フランク・タシュリンに入れ込んだのは、川島雄三が日本で最初のキスシーンを撮影するような、反発なのであり、ポーランドのボランスキーは、そのもの『反撥』という映画を作っている。だから、『理由なき反抗』を作ったニコラス・レイだけが映画なのである。それは、反抗だから。

ヌーヴェルバーグを最も精神的に体現していたのはゴダールであり、ゴダールは『青春残酷物語』が最も早いヌーヴェルヴァーグだと言っているように、それは、反発、または、反抗なのである。だから、『大人はわかってくれない』のトリュフォーは永遠であり、それ以降のトリュフォーなんか観る価値ないですね。

日本だと、トリュフォー、ロメールのロマンチックヌーヴェルヴァーグが気に入られ、死ぬまで革命的な、自殺幇助という死に方まで革命的なゴダールの闘争的ヌーヴェルヴァーグは忌避される。日本ではいまでも映画は、幻想のロマンチシズムにある。その気分を作ったのは、淀川長治である。

トリュフォー・ロメール的なロマンチックヌーヴェルヴァーグは、結局は、ウディ・アレンのような小器用な職人にすぎない。ロメールとアレンの共通点はロリコンである。ちなみに、宮崎駿もまたロリコンである。話はそれるが、手塚治虫は『不思議なメルモ』という性教育アニメを作るくらいに、性的対象に対し自覚的に距離を置ける才能を有した天才であり、その天才は、台湾のエドワード・ヤンに尊敬されている。

トリュフォー・ロメール的なロマンチックヌーヴェルを称揚するのは、ネオレアリズモで、ロベルト・ロッセリーニではなく、『自転車泥棒』のヴィットリオ・デ・シーカを称揚するのは通俗的な凡人だということを証明している。デ・シーカの先にはフェリーニやダヴィアーニ兄弟があるだけで、まさに、平凡な通俗的な、日本でいえば、宮崎駿のような子供騙しになる。

最後に書いておくが、『カイエ・デュ・シネマ』の連中は、名作を顕揚したのではない。ジョン・フォードは後期のフォードしか彼らは認めていない。カイエの連中と蓮實、淀川の違いはそこにある。あくまで、カイエの連中は、旧来の気分に闘争していたのだ。

淀川長治は映画から人生を学ぶ云々と、呆れ返るほどのロマンチストぶりを見せつける。しかし、映画から人生を学ぶことはできないし、模倣はできない。あなたは、ジョン・ウィックやジェームズ・ボンドから何か学べるだろうか?ボブ・ホープが馬車に乗り、馬を叩いたら、馬に引きづられていく『腰抜け二艇拳銃』のように引きづられたいだろうか。あなたは、『北北西に進路を取れ』のように、大統領の顔が並ぶ岸壁でゲーリー・グラントのように逃走したいだろうか。ゴダールもまた、映画は人生である、と述べている。しかし、同じような言葉でも、意味の隔たりは大きい。ゴダールは映画から人生を学べとも述べてはいない。単に映画は人生だと言っているだけのことであり、それは、映画から淀川的な意味で言われる気の利いたセリフ、お洒落を学ぶことではない。ゴダールは、ただ単に映画は人生だと言っているだけのことであり、それは、事実として誰も反論できない。ジョン・ウィックやジェームズ・ボンド、猿にもゴジラにもハエ人間にも火星から襲来した火星人にもオースティン・パワーズに人生はあるのだ。

映画は人生だ、とは、そのことでしかない。

あなたは、まさか、レスリー・ニールセンやピーター・セラーズが演じるキャラクターに人生がないとでも?

ヌーヴェルヴァーグとはあくまで闘争であり、それは、映画愛ではないのだ。むしろ、映画愛への飽くなき闘争である。

だから、ゴダールは、ジャン・ピエール・ゴランと作業ができたのだ。

現在、『カイエ・デュ・シネマ』を称揚するような日本の映画作家は単なる自閉的な日本的な盆栽を作っているにすぎず、小津安二郎の映画が、小津安二郎映画で頻繁に現れる置物のように、小津安二郎そのものが置物でしかないように、濱口竜介も置物でしかない。

むしろ、川島雄三が藤本義一へ、小津安二郎の置物をこの偽物と変えてこい、と命じ、偽物を本物と確信し、それを見て笑い転げる川島雄三のスタイルこそが、ゴダールに近い闘争的ヌーヴェルヴァーグなのである。大島渚は、初期だけ闘争的であり、最終的には、西洋の芸術の系譜に位置付けられたい通俗的な凡人であることをまざまざと見せつけられた。

なぜ、ヒッチコックとホークスなのか?

それは、明らかに名作から遠いからである。芸術に位置づけられたいのではなく、アイデアだけしか存在していないからである。豹の取り間違いなどあなたは望むのか?あなたは、セスナ機から追われたいか?

映画にしかできないこと、それは、アメリカニズムなのである。だが、ゴダールは、ジャック・ベッケルやメルヴィルや溝口健二などのアメリカニズムに反した映画作家を顕揚している。そこに、ゴダールはフィクションから現れるかろうじて、一瞬に消え去る人生を見たのであり、それが映画は人生なのである。

闘争の果てにこそ、映画は人生と言える場所がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?