映画を観た記録156 2024年8月24日   ロベルト・ロッセリーニ『戦火のかなた』

Amazon Prime Videoでロベルト・ロッセリーニ『戦火のかなた』を観る。
本作を観て、理解できたのは、ネオ・レアリズモとは、オール・ロケで撮影だとか職業俳優を使わないということではなく、ドラマにおける感傷性の排除だということである。
ネオレアリズモはドラマの構成において、客に阿る感傷性、劇的構造を排除していくのである。ブレヒトの方法に近い。
ネオレアリズモとリアリズムは別の次元である。リアリズムは、単純に言えば人間ドラマにすぎないののである。一個の人間に焦点をあてて、その人間から背景などを描いていく、様々な要素が抽出されていく。内田吐夢『飢餓海峡』のようなアプローチがリアリズムである。それは「人間世界」で留まっている。
しかし、ネオレアリズモは、人間の困苦だとかに感傷的な目は介入しない。冷徹に推移を見ていくだけなのである。本作の冒頭のエピソードでは、イタリア娘に道案内を頼んだアメリカ兵は、ある隠れ家的な住居にたどり着き、アメリカ兵とにイタリア女性を置いて帰る。アメリカ兵とイタリア女性のたわいもない会話が続く。アメリカ兵は英語、イタリア女性はイタリア語。お互いたどたどしい言葉で会話をする。それは国を越えたなんちゃらではない。ただただ、たまたまのことなのだ。そのたまたまがドイツ兵がアメリカ兵を撃ち殺してしまう。ドイツ兵がその住居に来る。イタリア女は見つかる。そして、イタリア女はアメリカ兵のライフルを握りしめ、ドイツ兵を射殺する。それもまたヒロイックに描くことはない。あくまでブレヒト的に描くのだ。そして、イタリア女は、戻ってきたアメリカ兵から殺されてしまう。
それもまたブレヒトである。
エピソードが6作あり、5作目のエピソードであるカトリック修道士のところに来たアメリカ兵とカトリック修道士の出会いがユニークである。アメリカ兵3人は、リーダー格はカトリック神父であるが、ほかの2人は、プロテスタント、ユダヤ教徒が同伴しており、そのプロテスタントやユダヤ教徒が同伴していたことがカトリックのショックだったのである。
それがなかなかにユニークである。
『戦火のかなた』は戦争をネタにして小噺を作ってみましたという映画である。
ロッセリーニは図太いのかもしれない。
本作は、ネオレアリズモの傑作である。

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