自分という定義

どうもDeltaです
この御時世お客さんも少なく、バイトが暇なので書き物ができて助かります。

今日は前から思ってた「自分」とは何かをわかって無い者へ若干20歳のガキが物申したいと思います。

俺の思考、考え方なので「それは違うだろ」ってことがあっても「そういうやつも居るんだな」程度で済ませといてください。
と言ってもかなり当たり前のことをそれっぽく書くだけなんですが。

本題です。

皆さんはハガレンの名言「一は全、全は一」ってご存知ですか?(引用元ありそう、知らん)
言いたいことはそれです。

大抵の人は「one for all, all for one」に近い意識で居る気がするんですよね。
1人は皆のために、皆は1人のために。
別にそれ自体はいいんですけど、大事なのは「自分のために動くことがまわりのために動くこと」になり、「自分を大事にすることが周囲も大事にすることになる」ってことなんですよね。

僕は性善説(人間の真理は善であり、善の方が本当のその人である、的なやつ)で生きています。
要は、「Twitterで暴れてるけどあの人接してみたら普通に良い人だった。」的なことです。
人ってのは基本的に善い人だと思って生きています。
そして、人間ってのは「社会的動物」です。自分の周囲の環境が自分を作ってる的な意味で言ってます。
ですので、「自分」という定義の中に「周囲の人間」も含まれています。大事なのはその奥にある、「周囲の人間の中にも自分がいる」ということです。

「自分のために周囲の人間を大事にする」は「自分を犠牲に周囲を大切にする」とは全然違うんですよね。
「周囲のためにも自分を大事にする」そういう意識が欠落してはいけない。

つまり、自分を傷つけるのは、自分のことを大切に思ってくれてる周囲の人間に対して失礼である、と僕は思うんですよね。

これを重く意識し過ぎても、周囲への強要になってたちまち社会主義っぽくなりだすしダメなんですよね、それっぽく言葉にしてますが、もっとラフなイメージでいいんですよ。

単純に、自分が周囲を考えるように、周囲の人もきっと善い人だから自分のことを考えてくれてるんだから、変に卑屈になるのは失礼だよって話です。

だから僕は「私なんて…」って意識で自分を傷つけることで、周囲の人間に「私のことを考えないで、期待しないで、叩かないで」と請いながら言い訳して成長しようとしないくせに、変に周囲との繋がりは求めるタイプの人間がとても嫌いです。

まあ、僕も大それた人間じゃあないですが、「自分」のことは大切にするようにしています。
「自分」のために。自分のために。

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