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キャンプギアに見る繰り返される前衛 

ども、デロです。


さて、こないだ、キープオンフジロックなるものをYouTubeで見て、昔聴いてた懐かしい人たちが出てたんで、観てたけど、今や当然知らないバンドも結構出たりして、色んな意味で色々勉強になりました。


変わったことするよな、というか、パフォーマンスの世界なのか、音楽性なのか、わかんないけど、いつの時代にもいるのね。僕がまだ若かった頃も結構いたよな。


「前衛的なバンド」ってやつ。


でも、前衛的ってなんやろうねって、思う。前衛になるための前衛的な振舞い、みたいにパフォーマンス見てて、そのインチキ臭ささと、本末転倒具合は、すぐ匂いでわかるし、すっと、感覚に入ってこない。


昔の僕らの時代?からそうやったけど、ニューミュージック(←言い方古い)は、すでにニューではなかったし、リサイクルミュージックだった。今風に言うたらサーキュラーエコノミーミュージックやね。それでも、皆んなその事に気付きながらも、聴いてたもんな。もちろん、僕もその1人。


やはり確固たる定型(その定型は昔はイノベーターだった)があって、その定形と比していかに壊れるか、ズレていくか、もしくは壊れたフリをするか。全て初めにやってくれた定形のおかげで成立している。逃れようのない、時間の連続性の中で、前衛なんて既に戯言でしかないように思う。それは、皮肉でも何でもなくて、もう出尽くしてるもんな。


でも、そんな人たちに限って、パフォーマンスとは裏腹に、楽曲は恐ろしく予定調和的で、その予定調和を吉本新喜劇ばりに気持ち良く感じる層がいるのかもしれないけど、個人的には突き動かされるものが全くないんだよな。ほんと、爽快なくらい何もない。


さて、長い前振りだが、


多少強引ではあるもののw この事は、昨今のキャンプ事情も似たような状況があるように思える。


キャンプギアへの向かい方も、同じようなことが起きてる気がしていて、人と被りたくないとか、巷で見る洒落たデザインとか、こうやってキャンプすると目立ってカッコいいんじゃないかとか、、


しかし、一巡二巡して、結局自分の心地良い方に落ち着いたり、結局は機能性にかなり重点を置いたり、その時の自分の経済的環境だったり、ライフステージだったり。


だから、人と被りたくないとか、巷で見る洒落たデザインとか、こうやってキャンプすると目立ってカッコいい、みたいな部分、それらは「アクティブとしてのキャンピング」の本質とはもちろん関係なくて、要は嗜好とか好みの域を出ない、ただただシンプルな個人の嗜好の世界でしかないのに、それらをSNSで、殊更にまじめに言説して、本物ぶるのには、激しい違和感を感じる。


もちろん、そういう層の存在否定では全くないけど。「本物」じゃなくても別にいいのに、「本物ぶってる事」に違和感を感じるだけだ。




キャンプに限らず、ある種のトレンドや成熟したカルチャーには、繰り返される前衛という完全なパラドックス層が、意識的に、無意識的に存在している。


誤解を恐れずに言うなら、作り手目線で見ると、所謂いきなり出てきたようなガレージブランドとか、変てこりんなAmazonにある本物っぽいギアとか、僕はあまり好きじゃない。「人と違う」を好む層へのポジショニングを狙うとか、まぁ、ありなのかもしれないけど、「一過性」ってやつが僕はキライだ。


本物ぶった、インチキ系のモノや作り手は、匂いで何とかなく分かる気がする。


本物じゃないのに、本物ぶるのがイヤなだけで、むしろリーズナブルさと、それなりの品質を売りにしたメーカーの方が、よほど好感が持てる。


それらのメーカーは、価格やS N Sによる安易な記号化で、自らを本物らしく見せようとするのではなく、そこには、やはりビジョンが大きく関わってると思うのだ。


そう、言いたかった事は、たった一つ!


ぶれないビジョンや理念こそが、全てだという事。


この年で漸く気付き始めた。


公私ともに、ビジョンこそが、全ての拠り所だと、感じている。







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