生権力
アニッシュ・チバール(Anish Chhibber)
*本稿は、ガルミンダ・K・バンブラらによって運営されているグローバル社会理論プロジェクトに収録されている論文の粗訳である。(https://globalsocialtheory.org/concepts/biopower/)
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フーコーによれば、自己(self)は、自己が位置づけられている言説の規制的な力関係にさらされることで、時間の経過とともに言説的に生み出される(Barker 2008; 225)。主体(人、自己、自分のアイデンティティ)は、歴史と権力の産物である。フーコーの生権力という概念は、人口と個人の身体のレベルで人間の生活を管理・規制することを表している。これは人口を対象とした権力の形態である(Rogers et al 2013)。生権力は、アイデンティティーと権力を結びつけ、社会的カテゴリーが特定の対象に対する国家の暴力を実行し、許容するためにどのように使用されるのかを示している点で有用である。
生権力は、身体の解剖学(規律権力)と、人口の生権力という、絡み合う2つの極に分けることができる。規律権力は「従順な身体」(学校、刑務所、病院などの規律・訓練の場を通じて)を生み出し、「服従させ、利用し、変形させ、改善する」ことができる(Foucault 1977; 136)一方で、生政治権力は「生命を管理する」(Foucault 1978; 138)、つまり集団の生命を「最適化」しようとする(Foucault 1978; 139)のである。この2つの極は、国家の目から見て人々を「正常」か「異常」かに分類する役割を果たす。
18世紀の古典的な自由主義理論家たちは、権力が作用する主な方法は法的なもので(Foucault 1978; 135)、つまり公的機関を通じて差し引いたり、禁止したり、罰したりすることだと考えていた(Ewald 1990; 1)。フーコーはこのような権力の概念を批判し、17世紀には「生命に対する権力」(生権力)という新しい権力が出現したと主張している(Foucault 2008; 304-308)。生権力の出現は、「古代の生殺与奪の権利が、死に至るまで生を育むか否かの権力に取って代わられた」ことを意味する(Foucault 1978; 138)。これは、法権力が減少したということではなく、法権力は生権力を伴っており、両者は重なり合い、本質的に結びついているということである(Ewald 1990; 1, Majia and Nadesan 2008; 6-7)。 つまり、国家の暴力は、単に法的な戦略によってのみ実行され、正当化されるのではなく、住民がどのように生活し、どのように生活を最適化できるかということに関心を持つ戦略によっても実行される。このことは、18 世紀に国家が人口を生政治的な関心の対象として扱い、「生命を育む」ために、 出生、死亡、健康、病気、「人種」、セクシュアリティなどの条件を管理するようになったことからも明らかである (Rogers et al 2013)。
生権力を達成することで、国家は社会的カテゴリーを生み出し、最終的には「生命力のある人口」(Roach 2009; 157)を確保するための規範に準拠した社会を作り出すことができる。生権力によって、社会の規範に従う主体は生かされ、投資されるが、「異常」と分類された者は、投資されないことで「死ぬに任せる」ことになり、同時に法権力によって死に至らせることが可能となる(Foucault 1978; 144)。このような正常化のプロセスは、「他者」とも言い換えることのできる諸々の異常を生み出す。社会に流布している支配的な言説に基づけば、これら「他者」は常に同じであるとは限らない。例えばイギリスでは、「白人」、「男性」、「異性愛者」、「健常者」、「神経特異体質」、「合法的市民」、「中産階級」、「遵法精神」などに分類されないものが「他者」に含まれる。
ここで重要なのは、生権力は公的機関だけではなく、社会的関係や言説が存在するあらゆる場所で発揮されているということだ。生権力は社会秩序全体を貫いているのである(Anders 2013; 3-4)。つまり、個人はもはや単に権力に服従しているだけでなく、権力を生み出し、それを伝達する手段でもあるのだ(Rangan and Chow 2013; 401)。
基本文献
Foucault, M. (2008) The birth of biopolitics: lectures at the Collège de France, 1978-79. Basingstoke [England] ; New York: Palgrave Macmillan.(=慎改康之訳. 2008. 『生政治の誕生 : コレージュ・ド・フランス講義1978-1979年度』. 筑摩書房.)
Foucault, M. (1997) “The Ethics of the Concern of the Self as a Practice of Freedom” In: Ethics: Subjectivity and Truth. New York: The New Press. 281-301.
Foucault, M. (1978) The History of Sexuality, Volume 1: An Introduction. Vol. 1. New York: Pantheon Books.(=渡辺守章訳. 1986. 知への意志. 新潮社.).
Rangan, P. & Chow, R. (2013) ‘Race, Racism, and Postcoloniality’, in The Oxford Handbook of Postcolonial Studies. Oxford: Oxford University Press. pp. 397–410.
更なる理解のために
Anders, A. (2013). Foucault and ‘the Right to Life’: from Technologies of Normalization to Societies of Control”. Disability Studies Quarterly. 33. 10.18061/dsq.v33i3.3340
Barker, C. (2008) Cultural Studies: Theory and Practice. 3rd edition. London: SAGE Publications.
Ewald, F. (1990) Norms, Discipline, and the Law. Representations. [Online] (30), 138–161.
Majia, N. & Nadesan, M. H. (2008) Governmentality, Biopower, and Everyday Life. New York: Routledge.
Roach, T. J. (2009) Sense and Sexuality: Foucault, Wojnarowicz, and Biopower. Nebula. 6 (3), 20.
Rogers, A., Castree, N., & Kitchin, R. (2013). biopolitics. In A Dictionary of Human Geography. Oxford University Press.
問い
・非正規滞在の「移民」は、どのような形で、法権力(死なせる力)と生権力(死ぬに任せる力)の影響を受けているのか?
・生権力が個人を通して生み出され、伝達されるものであるとすれば、反移民の言説は、国家以外のどのような方法で生み出され、伝達されるのか。
・合法的な市民の生活を最適化するという名目で行われている、非正規の「移民」に対する国家の暴力行為を思い浮かべてみよう。国家はこれらの行為をどのように正当化しようとしているのか?
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