ゆびきりをつたえて

※この記事は「さなのばくたん。 -ハロー・マイ・バースデイ- Powered by mouse」を観た筆者の気持ちの整理のために書いたところの大きい、極めてごく個人的な感想を綴るものです。見苦しい点どうかご容赦ください。
また、この記事は上記公演の内容に大きく触れるものです。

 三月七日「さなのばくたん。 -ハロー・マイ・バースデイ- Powered by mouse」が終わってからもう二日が経つ。僕はようやく着いた家でさなコレ3を何度も聴いて、あの日の最後の曲「ゆびきりをつたえて」についてずっと考えている。

 既に公式Twitterや諸兄が語る通り、この曲は病衣の彼女と名取さなとの二人によって歌われた曲だった。彼女が歌い、そして名取さなが歌う。そして二人が歩み寄りふれあい、病衣の彼女は消え、名取さなだけが残った。

 僕はこの曲をどう解釈したらいいのだろうか。
 いや少なくともどう嚙み砕けばいいのだろうか。

 考えてみた結論としては、多分、今この曲を分かりやすく定義することはできない、できるわけがないというところだった。
 この曲は今までの曲と比べて一際異質なものになっている。
 今までの曲は、せんせえと「名取さな」に強くフォーカスを当てながら、これまでの自分を角度を変えながら切り出していくものが多かったように思える。そしてこの曲は、今まで取りあげられることのなかった「私」視点のものだ。ここには大きく差がある。前者は平たく言えばイメソンに近いニュアンスだ。これまでというアーカイブ、積み上げたものが原型であるとするなら、後者はどうだろう。単純な0:100で割り切れるものではないだろうが、より後者の方が現在の実感の濃いものではないか。
そして現在である以上、その先がまだ見えない以上、今ここには分かりやすい答えは見つかるはずがないのだ。だからこの答えはこの先にしかない、そう思う。

 あえて言うなら、この曲は受け取り手に委ねる部分が大きい曲だと思う。
今までの「名取さな・さなちゃんねる」を表現するのではなく自分の思いと大きく出したこの曲は解釈の幅が大きい曲になっていると思う。
僕はこの曲を聴いて、自分自身の事を考えた。
ドラマティックな話こそないが僕にも、自身を諦める僕もいれば前に進もうとする僕もいる。だからこの曲はどこか自分の心の奥底までも照らされるような気持になった。
 病衣のあの子は誰の心にも存在しうるものだと思う。置いてきた自分自身は今もまだ救われずに、成長できずに痛みを抱えたままこちらを見ている。
その自分自身をすくい上げるのは本当に難しいし苦しいことだと思う。
蓋をして触れてこなかった生乾きの痛みや苦しみを味わうことになる。
しかもそれはかつて自分は苦痛のあまりに目を逸らしたものだからなおさらだと思う。だから僕らは「いつかの報われなかった自分」を置いたままにしてしまうのではないだろうか。
 この曲にはそんな痛みとその先の救いが歌われている。
だから辛くしみいり、眩くもある、そんな気がする。

 最後になるが、この「ゆびきり」は「私」と「私」とのものを僕らせんせえに伝えたとも取れるし、せんせえとの約束を「私」に伝えたとも取れる。
僕はどちらでもあると思っている。前者では彼女の覚悟に対して僕らが証人になるし、後者では僕らとの約束で彼女が救われる形になると思うから。
 僕はこの先も彼女とのゆびきりを、伝えられた約束を忘れない。

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