「永遠の嘘をついてくれ」は学生運動の歌である


「永遠の嘘をついてくれ」とは

https://www.youtube.com/watch?v=9Fe0p_qDmhA

「永遠の嘘をついてくれ」は中島みゆきが吉田拓郎に楽曲提供した歌で、中島みゆきの大傑作であり、スランプに陥っていた吉田拓郎の復活に繋がった曲でもある。

この曲の解釈には色々あるが、おそらく尤も受け入れられているのは「学生運動の歌である」というものだろう。
この点について詳しく述べるのも一興と思い、この説を後押しするいくつかの要素について書いてみる。

地名

ニューヨーク

この曲は、「友」と呼ばれる人物を「僕」が探しにいくかどうか思案している描写から始まる。探しにいく場所はどうやらニューヨークらしい。遠いところではあるが、この曲が書かれた90年代には成田からの直行便があり、この頃にはそれなりに会社や組織での地位もあるであろう団塊の世代であれば他の知人に金を借りまくればいけないところでもないらしい。

さて、このニューヨークというのが、この曲が学生運動の歌であることを示す一つの要素と考えられる。
ニューヨークといえばウォール街やタイムズスクエアといった金・モノ・消費に溢れるアメリカ的資本主義のメッカである。80年代には何度も映画になっていて、「ウォール街」とかが有名だ。80年代の末期にブラックマンデーで壊滅的打撃を受けるものの、当時の資本主義狂いの様子は「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」とか、「アメリカンサイコ」なんかで取り上げられたりしている。

他方、学生運動といえば共産革命、打倒アメリカ、くそったれ資本主義の思想なので、ニューヨークと学生運動はどうもマッチしない。
そこがこの曲の一つ目のミソである。要するに、「友」はニューヨークという資本主義の中枢で生きているので、どうやら革命の精神を失ったか、それに蓋をしたか、兎にも角にも学生運動の頃の目標に逆らって生きているらしい。

もしも「僕」がニューヨークに友人を探しに行ったのなら、「友」が当時の理想を失って生きている姿を見ることになったろう。だから、「僕」はニューヨークに行かずにこの街で酔っているのである。

上海


2番の歌詞で出てくる上海も重要な地名だ。上海は43年に日本軍によってイギリスから接収され、当時の中国にあった日本の傀儡政権に渡された。その後色々あり、同じような経緯をたどった香港がついこの間まで中国政府からの独立性を保っていたのとは対照的に、北京と並ぶ中国の大都市である。

イギリスといえば、the 西側であり、アメリカと同じくらいに資本主義の代表格みたいなところがある。しかも、アメリカと違って王国なので、反日アジア武装戦線のような、共産主義というより反帝国主義的な立場の組織にとっても象徴的な仮想敵と言える。その意味で、上海とは、「西側の代表格で帝国主義のイギリスから共産主義国が勝ち取った場所」の象徴的なものである。

歌詞に出てくる「友からの手紙」にはニューヨークではなく上海の路地裏で病んでいるということが綴られている。もしも「友」の目標が浜田省吾みたいな「BIG MONEY」なら、ニューヨークでうまくやってるぜといえば良いものを、あえて上海にいると書いたのは、「資本主義とまだまだ戦っているぜ」という嘘を突き通すためのものと言える。

共産主義が資本主義に勝った場所としては、他にはカストロたちが上手いことやった中南米あたりがあり、ここに行ってみたいと高倉健主演の「新幹線大爆破」という映画に出てくる過激派崩れの男も言っている。

https://www.twellv.co.jp/program/drama/shinkansen-daibakuha/


追われながらほざいた「友」

地名以外の部分でも「友」がどうやら学生運動に染まりきっていたことが伺えるシーンがある。
それは、「この国を見限ってやるのは俺の方だと追われながらほざいた」という歌詞である。

一見すると、比喩的に言っているだけで、就職活動に難航したとか、何らか音楽活動なんかをしていて国内で認められなかったという様にも取れるが、先ほどの地名ことを踏まえるとその解釈はできなくなる。就職にせよ芸能活動にせよ、ニューヨークでよろしくやっているのならまずまずの成功であって、そのことを自慢してもいい様なものを、わざわざ上海の裏路地で死にかけていると送って寄越すのだから、「追われながら」というのはおそらく文字通り警察に追われていたということだろう。

結局この曲は何が言いたかったのか

この曲は上で述べたように、学生運動の理想敗れた人間の歌である。そこにあるメッセージ性は何なのか。思うに、それは「理想をまだ持っていると言ってくれ」という願いである。

過激派崩れの「友」はニューヨークで資本主義の中で生きているらしいし、「僕」は警察に捕まることもなく、呑気に酒を飲むくらいの金と余裕はあるらしい。いいか悪いかは別として、ずっと逃亡を続けて戦っている人もいる中で、この二人はとうに革命からドロップアウトしたのである。

「友」も「僕」もお互いにそれを何となく知っているが故に、会って仕舞えば「俺たちが間違ってたよな」とか、「あんなことしなくてよかったよな」となるのがわかっているのである。だからこそ、お互いに探し合うのはナシだと言っている。そして、世間はみんな「学生運動なんかにうつつ抜かして」と言ってくるだろうが、そんなものは振り払えと言っているのである。

最後に:「やりきれない事実」とは何だったのか

さて、昨今の国際情勢を見れば明白なように、共産主義も、日本が結局選択した資本主義も、それぞれの理想には届かなかった。
共産主義はそれが理想とした平等を実現できず回り回って独裁的な権力にいいように使われる標語と化してしまったし、資本主義は一部の人間の富の独占につながって格差を広める結果になってしまった。

つまり、「友」と「僕」が抱えていた理想も、その対極にあった思想も、どちらも滅んでしまったのだ。そんなこと、学生運動に参加していたインテリ(当時の大学進学率は20%未満で大学生になるだけで相当教育水準が高かった)が知らないはずもない。そんな理想の終焉こそが「やりきれない事実」なんだと思う。

そんなわかりきったことをどうか明かさないでほしい、俺たちの中ではまだ理想は生きているんだと自分たちに言い聞かせたいというのがこの曲の真意なのではないか。

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