喪失の美学・2

どうも。茶房の居候の方です。

いやー、参った参った。
馬鹿には勝てん、と続けたくなる文言だけども、私が勝てなかったのは馬鹿ではなく風邪菌なのである。
年明け早々風邪を引き、2週間弱仕事から離れ、いざ仕事に戻っても咳が抜けきらず、完治した実感を得られないまま、あっという間に1月が過ぎ去ろうとしている。
というか過ぎ去った。
もう2月じゃないか。
というか2月すらもう半ばを過ぎている。ああ恐ろしい。

療養中は必要最低限度しか家の外に出ず、何ならできる限りパソコンも触らない生活を過ごしていたため、困ったことに私の体感的には、まだ2月の上旬くらいだったりする。

今年こそ、正月から日記のような勢いで書き散らかすぞ! このnoteに!
……とか思っていたのだけれどなあ。
いやはや。一年の計も展望も、実に儚いものである。


で、久々にnoteを開いて思った事。

ナンバリングの題名が1で止まってたわ。

明日書こう、が見事なまでに延び延びの延びになっていた。
最早何を書いたか覚えていないので、自分の記事を読み返そう……。

……はあ~ん。ほんほん。ふ~ん。
正月から何書いとんじゃい。
なんというか、お正月特有のちょっと浮かれた気分とか、お酒入ってふわふわ上機嫌な感じとかを一切感じさせない、深海から這い寄ってくるような内容で、自分が書いたものなのにちょっと笑った。
倒れた日付から逆算するに、この頃は既に風邪菌に侵されていた気配はするけれども、ねえ。
一年の計ならさ、というかほぼほぼnote初めての記事なんだからさ。
もうちょっと明るい内容にしときなさいよ。

とは言え自分で書いたものだけに、内容は当然ながら「そうだよねえ」と頷けるものであり。
1ヶ月以上保留にしていた『考えよう』を、今やってみようと思う。


自作品における「喪失」について。

一般的に、ゲーム内での喪失体験とは、一種のスパイスであるとは思う。
それがなければ物語は成り立たない妙薬。
かといってそれだけでは胃もたれして摂取を敬遠してしまう類の劇薬。
序盤で焼かれる主人公の村とか、主人公を残して死んでしまう幼馴染とか、目標まであと一歩のところで裏切られて、どん底に落ち込む主人公とか。
形や内容は違えど、どれも等しく主人公≒プレイヤーの喪失体験だ。

そして喪失には、必ずと言っていいほど「獲得」がセットになっている。
新しい村を興すとか、故郷を再建するとか、実は幼馴染は生きていたとか、幼馴染の穴を埋めてくれる存在との出会いとか、裏切り者と再び手を組むシチュエーションとか、裏切った相手を見事に撃破する流れとか。

それも当然だとは分かっている。
失ってばかりでは、いくら仮想の体験であっても、辛いのが明らかだから。
村を焼かれ、幼馴染と死に別れ、信じていた人物に裏切られたまま死んでいく主人公。
書き出してみると、悲惨でしかない。

けど、多分、困った事に、私はそういうものが作りたいのだ。


私が作るものには大抵「喪失」が、更に踏み込むのなら「選択、または偶然(運命)の果てに待つ喪失」が含まれている。
そして、これは「獲得」へ至るためのドラマツルギー的働きではない。
いつかはいい事が起きるに違いない、と思いながら進む人には、ただただ苦しいだけの筋書きが、そこにはある。

……と書いてみて、気がついた。
恐らく私は、人生における「獲得」に、全く期待していないのだ。
獲得」が喜ばしいこと、であるのはよく分かる。
けれど前に進むことで「獲得」が生まれるとは、全くもって信じていない。
価値あるものを自分が得られると、どうしても思えない。
私にとって、前に進むことは即ち「喪失」なのだ。

前に進めば何かを失う。だから私は、停滞を選択する事が往々にしてある。
「どうせ無駄なんだから、どうせ得られないんだから、どうせ失うんだから、もうここでうずくまっていようよ」、というような。

だからこそ、私は失い続ける物語の道を舗装するのだろうと思う。
進めば失うと分かっていながら、留まる事なく、先へと進み続ける誰かの物語を見たいから。失って尚進む事ができる姿を確かめたいから。

そして、同じように「喪失」に美しさを感じ、抗いきれない運命に打ちひしがれる自身の分身の姿を見ながら、静かな寂寥感にそっと浸って、また次の物語を始められるような人に、私の作品を遊んでほしいのだと思う。

つまるところ……私の思う「喪失の美学」とは、自分自身と向き合うことなのかもしれない。そして先に光がなくとも進んでいける強さと、失い続けた果てに見出すものの美しさへの期待、なのかもしれない。


すぐに膝を抱えて座り込んでしまう自分を励ましながら、私は「喪失の物語」を書き続けていよう。
光の中にいる人には生み出せないものが、きっとあるだろうから。


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