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異世界最速の英雄 ~転生5秒で魔王を撃破した最強幼女の冒険物語~ 40~49

40. 禅問答の真実

「この先がサイノンの空間じゃ、入ってみろ」

 レヴィアは少し疲れた様子で首を回しながら言った。

「は、入るって……」

 蒼はおっかなびっくり岩の面に触れてみるが、硬い岩は到底通れそうにない。

「あー、お主らは悟りなき衆生しゅじょうじゃったか……。うーむ」

 レヴィアは腕を組むと、深い溜息とともに煩わしげに首をひねった。

「僕ら一般人なんだよね」

 蒼は無理難題に口を尖らせる。

「まぁ、今悟ればええじゃろ。色即是空、空即是色じゃ」

「え? それ、般若心経……だよね? なんで知ってるの?」

 蒼は仏教の話がいきなり出てきて驚いた。

「千二百年も生きとればお主の世界の話も分かっとるわい。お釈迦様は偉大だったな」

 蒼はしたり顔でお釈迦様の名前を出すレヴィアに唖然とする。まさか地中深くでドラゴンにお経の説教を受けるとは思ってもみなかったのだ。

「要はこの世界は情報で出来てるってことじゃ。人も物も世界も泡沫うたかたの春の夢。全てはデータ列に過ぎんのじゃ」

「いやいやいや、何言ってんだよ。物は物、僕は僕。どこがデータ列なんだよ! ほらっ!」

 蒼はムッとしながら、可愛いモミジのような手でレヴィアの腕をガシッと握った。

 すると、レヴィアはニヤッと笑って、ふぅと息を蒼の手に吹きかける。

 直後、蒼の手から色が消えた。ツヤツヤとした肌色はグレーになり、よく見れば古い新聞の写真のように黒い点の集合になってしまっている。

 う、うわぁ!

 思わずのけぞり尻もちをつく蒼。

「色即是空。色は本質ではない空虚な物じゃな。くふふふ」

 レヴィアは嬉しそうに笑った。

 色を奪われた蒼は、その黒点の集合体となってしまった手をマジマジと眺め、揉み手をしたりして感触を確かめる。

 感覚も柔らかさも従前通りだったが、ただ、見た目だけが点の集合体なのだ。

 理不尽な話だとは思うものの、実際に自分の手が色を失ってしまっている以上、認めざるを得ない。少なくとも今、自分の手には物理法則が行き届いていないのだ。

 今まで自分が信じていた世界観がガラガラと音を立てて崩れていく中、蒼は大きくため息をつき、首を振った。

「じゃあ何? この世界はみんなこの点の集合体だって言いたいの?」

 蒼は忌々しそうにレヴィアを見ると、観念したように聞いた。

「モノだけじゃない、位置も距離もこの空間もそう見えてるだけってことじゃな」

「見えてるだけ……」

「そう思い込んでるだけじゃな」

 蒼は混乱する。『岩など通り抜けられない』と思っているから通り抜けできないという理不尽な禅問答に、頭がショート寸前だった。

「思い込みをなくせばこの岩を通り抜けられる……ってこと?」

「そうじゃ、ようやく分かったか! カッカッカ」

 レヴィアは楽しそうに笑うが、蒼とムーシュは疑問がぬぐえず、互いの目を捉えながら静かに首を傾げた。

「どうやったらその【思い込み】ってやつを消せるんだ?」

瞑想めいそうじゃ。二人ともここに座れ」

 レヴィアはそう言うと出っ張ってる岩をザクっと切り取り、椅子を作り出す。

「瞑想って奴は特別なモノじゃない。深呼吸して思考を停止するだけじゃ」

「思考を停止?」

「そうじゃ、人間は頭でっかちでどうでもいい事ばかり延々と考え、目が曇っとる。だから考えることをやめるだけで真実が見えてくるのじゃ」

「で、考えるのをやめるのが深呼吸?」

「そうじゃ、人間は深呼吸している間は思考が鈍るようにできとるんじゃ。じゃから深呼吸し続けるだけで真実が見えてくる。簡単な話じゃ」

「えーー……」

 蒼はいきなりの話についていけない。

「ええから、やってみろ! 七秒かけてゆっくりと息を吸い、四秒止めて、八秒かけてゆっくりと息を吐く。はい! やってみろ」

 二人は首を傾げながらお互いの顔を見合ったが、何でもやってみないことには話が進まない。諦めて腰をかけると深呼吸を始めた。

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。
 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

「いいぞ、いいぞ。雑念湧いてもほっとけ、いいな?」

 最初は雑念だらけの蒼だったが、気にせず深呼吸し続けていくとふと急に落ちていく感覚に包まれた。それは今まで感じたことの無い、全てから解放される様な不思議な感覚だった。

 おぉぉぉ……。

 感覚が鋭くなり、洞窟の隅々まで意識が行き届き、レヴィアやムーシュの呼吸までありありと分かってくる。それはまさに真実というべき圧倒的な解像度だった。

 今まで自分は何を見ていたんだろう……。

 ぼんやりとした頭で、蒼は今まで気がつかなかった世界のありように愕然とした。

 蒼は青い光を纏う岩の本当の姿も把握していく。それは単に光を放つ岩ではなかった。たしかにその向こうに広い世界が広がっているのが感じ取れる。

 蒼はヨロヨロと立ち上がると、そっと岩に手を潜らせ、そのまま岩に吸い込まれるようにして消えていった。

41. 乾いた破裂音

「あれ? ここ?」

 荒涼とした風景が目前に広がり、蒼は困惑する。来る前に聞いていた生命溢れる大森林は、今や冷たい岩肌と砂に覆われた荒地へと姿を変えていた。

「なんじゃ、これは……?」「えっ……?」

 後からやってきたレヴィアとムーシュも、予期せぬ状況に戸惑いの色を浮かべている。

「ここで間違いないの?」

「ちぃと待ってろ」

 レヴィアは手近な岩をゴリっと削るとその表面をなでていく。すると、文字が浮き出て上の方へと流れていった。岩面がパソコン画面のようになったのだ。

「うーん、間違いは無いようじゃな。どうやら奴の運営が失敗しているっぽいのう」

「たった数十年でこんなになっちゃうものかな?」

「いやいや、ここは時間の流れが速いからもう数百年は経ってるじゃろ」

「えっ!? そんなことってあるの?」

「処理する量が少なきゃ次々と時間は流れる。これだけ人口が少なければ相当速く流れるじゃろうな」

 人の数によって紡がれる時間の流れが変わるというこの世界を織り成す不思議な構造に、蒼は驚きとともに深い困惑を覚えた。

「世界の運営をなめとるからじゃ。バカめが……」

 レヴィアは岩面に手を走らせ、浮かび上がる文字やグラフを食い入るように見つめながら、必死に何かを追い求める。

 ボーっと画面を見つめる蒼の後ろから近づいたムーシュは、嬉しそうに蒼を抱き上げる。

「もうすぐ主様の呪いも解けるんですね」

「まだ分かんないけどね」

 蒼は苦笑する。レヴィアは自信満々だが、本当にサイノンを倒せるかどうかなんて蒼には分かりようがなかった。それに、わざわざ自分を同行させたシアンの意図がいまだに分からず、不安を駆り立てる。

「上手くいったらムーシュが羊の丸焼きご馳走しますよ! 魔王城の美味しいお店知ってるんですから!」

 ムーシュは蒼をキュッと抱きしめると、喜びに身を任せて軽やかに左右に揺れ動いた。

「あー、あまり死亡フラグ立てないで……」

「死亡フラグ? 何ですかそれ?」

「物語では、決戦の前に成功した時のことを言った人は死んじゃうんだよ」

「きゃははは! これは物語じゃなくて現実ですから、大丈夫ですよぉ」

 ムーシュは幸せを噛みしめるように、蒼の柔らかなほっぺたに頬を寄せた。

「あれ……? なんか主様今日は柔らかいですね」

 蒼は息を呑む。否応なしに自分の中で進行する若返りの恐怖が、背筋をゾクッと走った。

「大丈夫! サイノン倒して呪いは解いてもらうんだから!」

 ムーシュを引き剥がし、ぴょんと軽快に地面に跳び降りる。だが、その躍動感の裏では、冷え冷えとした不安が心を蝕むように渦巻いていた。

       ◇

「よーし、見つけたぞ! ターゲットロックオン!」

 レヴィアが岩面をパシパシ叩きながら顔を輝かせ、嬉しそうに声を上げた。

 岩面を覗き込むとそこには宙に浮かぶ石板モノリスが不気味に揺らめく映像が映っていた。その邪悪に満ちた造形は、言葉では言い表せない何か異様なオーラを放っている。サイノンの狂気が具現化したかのようなその光景は、蒼が予想していたものを遥かに超える禍々しさで、彼の心の奥底に名状しがたい恐怖を呼び覚ます。

「地軸補正ヨシ! 効果最大! セキュリティロック解除!」

 レヴィアは迷いのない手つきで画面を操り、その眼差しは集中の色を深めていった。

 運命の瞬間が近づいている……。蒼は緊張で震える指先でムーシュの腕をギュッと掴み、ゴクリと喉を鳴らした。

 レヴィアはチラッと蒼を見る。

「俺でお主も卒業じゃ! よう見とけ!」

 蒼は静かにうなずくとキュッと口を結び、大きく深呼吸をしてその時を待った。

「死にさらせーー!」

 レヴィアは真紅の瞳をキラリと輝かせると、激しい熱情を隠さず岩面をバシッと叩く。

 刹那、遠くの空に一筋の漆黒の柱がシュッと立ち上った。

 衛星軌道より撃ち下ろされた、空間をえぐる特殊攻撃が一瞬のうちに石板モノリスを貫き、石板モノリスは両端を残し、漆黒の円柱に飲み込まれてこの世界から消し飛んだ。

 ズン!

 石板モノリスの両端は爆発炎上しながらゆっくりと崩落し、最後には焼け爛れた遺骸が荒地に墜落して天を裂くような大爆発を起こした。世界を震わせる衝撃波が白い繭のように広がっていき、凄絶な力でキノコ雲を天に向かって噴き上げていく。

「ヨシ! ざまぁみろ! おたんこなすがぁ!」

 閃光が地平線を裂く中、レヴィアは力強く拳を高く掲げ、心からの歓喜をその身全体で表現した。

「おぉ! これでミッションコンプリートだね。やったぁ!」

 蒼は無邪気さを湛えた瞳で、小さな可憐な手を振り上げ軽やかに跳ねた。

 パン!

 その時、予期せぬ乾いた破裂音が荒れ地に鋭く、そして不穏に響き渡る。

 ぐふっ!

 目を大きく見開き、レヴィアは胸を押さえながら凍りつく。

 直後、レヴィアの胸元から押さえきれぬ闇が湧き上がった。漆黒の触手がイソギンチャクのようにウネウネと吹きだしてきて、あっという間にレヴィアを包み込んでしまう。

 あわわわわ……。

 あまりのことに言葉を失った蒼は恐怖に震えながら後ずさりし、首を振る。

 漆黒の塊と化したレヴィアはシューっと蒸気を上げながらすぅっと消えていってしまった。

42. 地獄からの招待状

「レ、レヴィアぁぁぁ! な、なぜ……?」

 慌てて振り返ると、無表情のムーシュが硝煙の上がる拳銃を持ち、ボーっと突っ立っている。

「ム、ムーシュ……? ど、どういうことだ……?」

 理解し難い展開に、蒼の顔には驚愕と困惑が浮かび、眉間には深い皺が刻まれた。

 だが、ムーシュは無言のまま、冷酷にも銃口を蒼に向ける。

「お前……止めろよ?」

 蒼はずさりしながらムーシュの目を鋭く見据えた。

 真紅の瞳を大きく見開きながらガタガタと身を震わせるムーシュ。

 漆黒の拳銃の撃鉄がガチャリと起こされ、緊迫が最高潮に達した……。

 ゴクリとのどを鳴らす蒼。

 しかし、ムーシュは身を震わせるばかりだった。

 突如、ムーシュが唇を開き、言葉を放つ。

「なんだ、こいつは奴隷なのか。役に立たねぇなぁ!」

 ムーシュはそう言いながら、糸の切れた操り人形のようにガクリとひざを折って崩れた。

「ム、ムーシュぅ!」

 蒼は慌てて駆け寄り、ムーシュの崩れ落ちる身体を受け止めた。今の邪悪な言葉は、サイノンに違いない。サイノンがムーシュの身体を乗っ取り、レヴィアを冷酷に撃ち抜いたのだ。

 サイノン討伐は失敗し、レヴィアも失われたという受け入れがたい現実が蒼の心を切り裂き、深い絶望をもたらす。

「に、逃げなきゃ……」

 顔面蒼白の蒼は、逃走方法を必死に考える。しかし、レヴィアなき今、この空間を脱出する方法など分かりようがない。蒼の前には果てしない荒れ地が、ただ無情に広がっているだけだった。

 死の冷たい恐怖が、蒼の胸を鋭い爪で掴むように襲う。神の力を操るサイノンになど到底勝てるわけがないし、逃げる方法も分からない。蒼に残されたのは、静かな絶望と共に迫る死のみだった。

 くぅぅぅ……。

 じわっと悪い汗が湧いてくる。

「ま、マズいぞ、ムーシュ! おい、ムーシュぅ!!」

 蒼はムーシュを揺り動かす。しかし、ムーシュは身体を乗っ取られた後遺症か、ぼーっと心ここにあらずという感じで虚空を見つめている。

 ヴォン!

 不穏な電子音が荒野を裂くように響き渡った。

 突如として現れたのは、巨大な石版モノリス。その漆黒に輝く石版が天を塞ぐように立ちはだかり、蒼は恐れと畏怖に打ちのめされ、言葉を失い後ずさる。

 太陽を覆い隠しながら近づいてくるその巨大構造物は、まさに悪を煮詰めたようなすさまじい禍々しさを放ちながら蒼を圧倒した。

『はーっはっはっは! どうかね我が電子ビットストーン浮岩城フォートレスは? ん?』

 自己陶酔に浸る中年男の声が、荒れ野に響き渡る。

 絶望が蒼の心を包み込む。蒼の目の前に広がる漆黒の壁は、地獄からの招待状のように、彼の言葉を奪った。

 直後、ピュン! という電子音が空間を切り裂くように響き、電子ビットストーン浮岩城フォートレスから閃光が放たれた。

 ズン! と大地を揺るがす衝撃が走り、土煙が舞い上がる。

 蒼は腕で顔を覆いながら険しい目でその煙をにらんだ。

 土煙が風に流される中からグレーのジャケットを纏った、ひょろりとした中年の男が姿を現す。彼の眼鏡越しの目は狡猾な笑みを浮かべながら、蒼に向かってゆるやかに手を挙げた。

「やぁやぁ、女神の手先の諸君、ご苦労。だが……、ドラゴンは死んだぞ? お前らは何を見せてくれるんだ? ん?」

 蒼の心臓が早鐘を打つ中、サイノンがツカツカと距離を詰めてきた。震える手で鑑定を試みるも、その結果は予想通り――――レヴィアと同じ、突き抜けるような高レベル。勝てるはずがないという現実が、蒼の胸を苛烈に打ちのめした。

「お、お前はなぜこんなことをやっているんだ? 何百年もやって砂漠しか作れないような運営は明らかに失敗じゃないか!」

 一生懸命に言葉を紡ぐ蒼だったが、サイノンはどこか虚空を見つめながら、それをまるで聞こえてないように無視した。

「んー? お前、日本出身の呪われた転生者……こんなところで何やってんだ?」

 蒼のデータをのぞきこみ、けげんそうに首をひねるサイノン。

「し、知らないよ! ただ……、成り行きで……」

 蒼はいたたまれなくなってうつむいた。天使に呪われ、訳も分からず死地におくりこまれたなど情けなくて到底口にできない。

「はっ、女神たちはどうしようもないな。こんなの送り込んで何がしたいんだ? 俺はな、上位神の力を受けながら実験をしてるんだよ。実際電子ビットストーン浮岩城フォートレスだって女神レベルの攻撃なら復活できただろ? これがお前らの限界ってわけさ」

 くぅぅぅ……。

 蒼は静かな絶望に包まれ、ゆっくりと首を振る。レヴィアが放った、あの凄まじい攻撃でさえも無力なのだ。上位神の力とはもはや理不尽にしか見えない。

「見たまえ! この電子ビットストーン浮岩城フォートレスの風格を! 直線を基調としたシンプルで力強い造形……美しいとは思わんかね?」

 超巨大な漆黒の一枚岩に入る青く輝くスリット群。そして時折、ポーンという電子音とともに漆黒の表面を、赤や黄色の波紋が水面のように同心円を描きながら広がっていく。

「これこそが新しい世界の象徴、お前ら旧世界の連中を一掃し、これからこの電子ビットストーン浮岩城フォートレスを中心とする新世界が始まるのだ!」

 サイノンは得意げに、興奮と誇りに満ちた声で叫んだ。

 蒼はチラッとモノリスを見上げ、

「ただのでかい墓石だ……」

 とつぶやき、深く大きくため息をつく。

 サイノンは急に真顔になるとキッと蒼をにらんだ。

「まぁ、もう死ぬ君たちと話しても無意味だがな」

 そう言うとジャケットの内ポケットから、漆黒の拳銃を静かに取り出し、蒼に銃口を向けた。その銃は電子ビットストーン浮岩城フォートレスと同じ素材のように見え、艶消しの黒が周囲のあらゆる光を呑み込んでいる。部品の継ぎ目からは、鮮やかな青い光が漏れ、サイノンが蒼をニヤリとにらむと、その光がいっそう一層、不気味な輝きを放った。

43. ピンクに輝く魔石

 くっ!

 冷汗が蒼のほほをつたう。例え勝てない相手でも、全力で立ち向かうしか道はない。諦めたらそこで人生終了なのだ。

 蒼は猛烈な力で地を蹴った。一瞬で舞い上がる土砂がサイノンへと襲いかかる。その隙に横っ飛びに跳び、サイノンの死角に入った蒼は大きな岩を踏み台にして、レベル三百のすさまじい跳躍力を生かし、全力でサイノンに殴りかかった。それは時間にしたらミリ秒クラスの目にも止まらない早業だった――――。

 が、サイノンはほほ笑んでいた。

 サイノンに襲いかかる蒼の可愛いこぶしは徐々に遅くなり、スローモーションのように遅々として進まない。やがてほぼ空中で止まった状態になってしまった。どうやら時間を操られているようである。

 くぅぅぅ……。

 サイノンの拳は幻のように消え、刹那、激しい衝撃が蒼を襲い、全身を貫いた。

 ぐはっ!

 まるでピンポン玉のように弾かれた蒼の身体は岩を砕きながら高く跳ね上がり、そして、クルクルと回りながら落ちてきて、荒れ地に叩きつけられ、転がった。

 ゴフッと低い音を立てて、蒼の口から血が噴き出る。

 会心の攻撃でも全く歯が立たず、敵の攻撃も見えない。その圧倒的な力の前に、絶望が静かに蒼の心を覆いつくしていく。

「あぁっ……、ぬ、主様ぁ……。ひっ!」

 ムーシュがよろめきながら駆け寄るが、ぼろ雑巾のようになって転がる蒼の虚ろな瞳を見て石のように固まった。

「奴隷! 邪魔だ、どけ……」

 サイノンはツカツカと近づきながら、容赦なく蒼に拳銃を向けてくる。

「ダ、ダメ……」

 ムーシュは腕を大きく広げ、蒼の前に身を投じた。その瞳からは、数多の思いが涙となってあふれだした。

 蒼は何とかしようと思うものの脳震盪のうしんとうのようで身体が上手く動かない。

「じゃあ、お前から死ね」

 サイノンはかちりと撃鉄を起こし、ムーシュに照準を合わせる。

 目に涙を浮かべながら静かに首を振るムーシュ。

「ダ、ダメだ……。逃げろ……」

 蒼は言うことを聞かない身体をヨロヨロと動かしながら、ムーシュに手を伸ばす。

 だが、蒼の方を振り向いたムーシュは寂しげな微笑みを浮かべただけだった。

 刹那、蒼の中に今までムーシュと過ごしてきた楽しい日々のイメージがブワッと湧き上がる。彼女のいたずらに満ちた眼差しは、常に何か新しい笑いをもたらし、その無邪気さが周囲を照らし出す。時に手を焼かせるその性格も、今や蒼にとってはかけがえのない宝物だった。もうムーシュなしの人生など考えられない。かけがえない存在として蒼の中に大きな位置を占めていた。

 それが今、失われようとしている――――。

「止めろ! 僕が何でもやる。だからムーシュには手を出さないでくれ!」

 蒼は悲痛な叫びを上げる。

 パン!

 軽い破裂音が無情にも荒野を切り裂くように響き渡った――――。

 大きく見開かれる真紅の瞳、静かに崩れ落ちる身体……。

 ああっ!

 どさりと地面に力なく横たわるムーシュ。

 蒼があわてて抱き起こそうとした時、震える唇は「ありがとう」と、動いたように見えた。

 蒼の心は激しい鼓動を伴って暴れ、目の前が真っ暗になる。

「ム、ムーシュぅ!」

 脱力する腕、光を失う瞳……。その現実感のない光景に蒼は凍り付く。

 次の瞬間、ムーシュの身体はすうっと消えていき、ピンクに輝く魔石となって転がった。

「お、おい、嘘だろ? いやだよぉぉぉ」

 蒼はピンクの輝きを抱きしめ、絶叫する。

 転生してからというもの、ずっと一緒だったかわいい小悪魔。どこか抜けていて、だけどその愛嬌に心奪われる愛しい仲間。それが今、永遠の別れを迎え、ただの石となってしまった。

 うわぁぁ!

 絶望が叫び声を引き裂き、蒼は自分の不甲斐なさに打ちひしがれた。何が世界最強だ、かけがえのない者一人守れない力に何の意味があるのか。蒼は全てが嫌になり涙を流しながら地面に突っ伏した。

「はっ、奴隷が死んだだけで大騒ぎ、何なのおたく?」

 サイノンは軽蔑の色を浮かべ、冷ややかに言葉を紡いだ。

「こ、この野郎……」

 蒼の目からは激しい怒りがほとばしり、獰猛どうもうに歪む顔でサイノンをじっと見据えた。

「あー、怖い怖い。お前もすぐに奴隷のところに送ってやろう」

 無慈悲な冷笑を浮かべ、サイノンは拳銃を蒼に向ける。撃鉄を起こすカチリとした金属音が静まり返った荒野に響いた。

 蒼はムーシュの魔石をギュッと握り締める。蒼の体内には燃え盛るマグマの如く、抑えがたい怒りのネルギーが渦巻いた。ムーシュの無念を晴らさなければならない、その一心に燃え、死ぬことさえももはやどうでも良かった。ただ一点、サイノンを地に叩きつけることだけ、これが蒼の全てとなっている。その思いは猛々しい嵐となり、頭を駆け巡り、こぶしには無尽蔵のエネルギーを集約させていった。

 その時だった、ムーシュの魔石がひときわ明るく輝きを放った。その輝きは蒼の精神と直結し、静かに響く波紋を送り込んだ。波紋が心に刻むイメージ、それはムーシュの得意魔法【目つぶしの魔法】の呪文だった。この瞬間、未知の力が蒼の中で目覚めた。そう、目つぶしの魔法が、蒼の魂に刻まれたのである。

44. 受精卵の罠

 蒼はこぶしに集めた全てのエネルギーを魔力に転化して、目つぶしの魔法に注ぎ込んだ。

「ムーシュの力だ、食らえ!」

 辺り一面を覆い尽くすように放たれたピンクの激光が、サイノンの瞳を直撃する。目を逸らす間も与えず、その桁外れのエネルギーは彼の視界の全てを奪い、網膜を焼いた。

 くっ!

 サイノンは予想外の目つぶしに一瞬ひるむ。それはムーシュが遺してくれた最後の千載一遇のチャンスだった。

 嵐のような怒りとともに、蒼はサイノンに向かって猛然と飛びかかり、渾身の蹴りがまばゆいほどの速さで放たれた。

 セイッ!

 衝撃波を伴いながら、サイノンのこめかみ目がけ閃光のように迫る蒼の脚――――。

 だが、炸裂するほんの寸前、サイノンもまた緊迫した状況を感じ取り、慌てて後ろに跳び退いた。

 果たして、乾いた音が荒れ野に響き、蒼の振りぬいた蹴りは拳銃を弾き飛ばすにとどまってしまう。

 あと一歩……。そのわずかな距離が及ばず、蒼の奇襲は空振りに終わってしまったのだ。

「くっ! もう一丁!」

 畳みかける蒼だったが、サイノンは素早く目を治してしまう。こうなればもはや蒼に勝ち目はなかった。

 次の瞬間、サイノンの目にもとまらぬ蹴りを食らい、蒼はピンポン玉のように弾き飛ばされる。音速を超えて吹き飛ばされた蒼は衝撃波を放ちながら、上空の電子ビットストーン浮岩城フォートレスまで打ち上げられると底面に当たって跳ね返された。

 ズン! と地を揺るがす衝撃音を放ちながら、蒼の体が無情にも地面に叩きつけられ、土埃が激しく舞い上がる。

 蒼は全身の骨を砕かれ、もはや指一本動かせなかった。

「ゴミが! よくもこの俺様に触れやがったな!」

 怒髪天を衝くサイノンは蒼の金髪を荒々しく鷲掴みにし、乱暴に引き上げる。満身創痍の蒼は手足をだらんと揺らし、もはや息も絶え絶えだった。

 蒼の唇からは暗い血が滴り、うつろな目でサイノンをただ見ることしかできない。

 せっかくのムーシュの魔法も生かせず、ただ殺されるのを待つばかりとなってしまった蒼の中には言い表せないほどの無念が渦巻く。

「お前も今すぐあの奴隷の元へ送ってやろう」

 勝ち誇るサイノンに、蒼はブフッと血しぶきを吹きかける。それが蒼のできる最後の抵抗だった。

 くわっ!

 サイノンは憤怒の形相で、顔に浮かんだ無数の赤い斑点を激しくぬぐい去った。

「この野郎……。ただ殺すだけじゃ飽きたらん。よし、こうしよう。お前の呪いを加速してやる。お前はみずからの呪いで死ぬのだ。受精卵へと戻る恐怖におののきながら死ね!」

 蒼を無慈悲にも地面に叩きつけたサイノンは、病的なほど歪んだ笑みを浮かべながら指をパチンと鳴らした。

「や、止めろ……」

 蒼は何とか逃れようとするが、もはや体は動かず、サイノンの冷酷な仕打ちを止められない。

 長かった金髪はどんどんと短く薄くなり、歯は消え去り、手足は縮んでいく。

「くははは! まるで生物の授業だな。こんなのは俺も初めて見るぞ。実に興味深い」

 サイノンは嬉しそうに蒼の若返りのさまを楽しんでいた。

 蒼は必死に身体を動かそうとするが、もはや筋肉も新生児レベルまで落ちた蒼には身動き一つとれなかった。

「ひゃ、ひゃめへ……」

 その言葉を最後に蒼は目も開けられなくなり、徐々に胎児へと堕ちていく。

 手はやがてヒレになり、足は縮み、尾っぽが生え、どんどん豆粒みたいに縮んでいった。

「はっはっは! ザマァないな。女神の手先よ安らかに眠り給え。はっはっは!」

 サイノンは勝ち誇り、受精卵へと一直線に堕ちていく蒼を嗤った。

 そしてその時がやってくる。

 豆粒サイズにまで縮んだ蒼は最後、一ミリにも満たない点、受精卵へと化してしまったのだ。

 だが、その瞬間、予想もつかないことが起こる。

 受精卵の周りの空間がぐにゃりと歪んだのだ。

 直後、受精卵を中心に空間にひびが入り、眩い閃光とともに、世界の隅々まで爆発的に無数のヒビが走っていく。

 はぁっ!?

 サイノンは慌てて逃げながら焦った。なぜ、受精卵がこんな反応を起こすのか全く理解できなかったのだ。

 空間のひびは電子ビットストーン浮岩城フォートレスすらもズタズタに引き裂き、あちこちから火の手が上がる。

「おい! ちょっと待てよ、どういうことだよ!」

 真っ青になって逃げながら叫ぶサイノン。

 この時、サイノンの中に一つの仮説がよぎった。

 それは『年齢がマイナスの人間の処理は未定義であり、システムが不定動作している』というものだった。確かに今まで年齢がマイナスの人間がこの世に存在したことなどない。だから、システムはその存在を処理できず、暴走してしまっているのかもしれない。

「バ、バカな! そのくらいエラー処理が何とかしてくれるはずじゃないのか?」

 サイノンは真っ青になりながら頭を抱えた。

 そうこうしている間にも空間の亀裂は世界を破壊し続けていく。電子ビットストーン浮岩城フォートレスは激しい爆発音を立てながら次々と崩落していく。

「うわぁ! 止めろ、止めてくれぃ!」

 サイノンは受精卵を消し飛ばそうと慌てて空間操作スキルを放ち、漆黒の筋が次々と受精卵めがけて飛んだ。しかし、受精卵の周りには無数の空間の亀裂が走り、エネルギーが暴走しており、スキルはその空間の崩壊をむしろ助長してしまうだけだった。

 受精卵は歪んだ空間の向こうで激しい閃光を放ち続け、とても近づくこともできない。

「くぅぅぅ……。な、何とかしないと……」

 サイノンは頭を抱えるが、こんなシステムの不定動作に対応する方法など知りようがない。ただ、壊れ続けていく世界を眺めているしかできなかった。

「あぁ、俺の世界がぁぁ!」

 サイノンが叫んだ時だった。

「きゃははは!」

 崩壊の進む荒れ地に笑い声が響き渡った。

45. 木霊する狂気

 慌てて視線を空へと向けると、青い髪をなびかせる大天使シアンが、腰に軽やかに手を当て、楽しげに輝きながら宙に浮かんでいた。

「き、貴様……。こ、これはお前の筋書きだったのか?」

「くふふふ、そうだよぉ。君は慎重すぎるほど慎重だからね、普通のやり方じゃシッポを出さないじゃないか。でも僕の可愛い人間爆弾ならやってくれると思ったんだよね。くふふふ」

 シアンは悪戯いたずらっぽい笑顔を見せる。自分が罠だと思いもしない蒼と、好奇心旺盛なサイノン。そこに前代未聞の若返りという興味深い呪いを仕込めばサイノンは結末を見てみたくなるに違いない。シアンの奇想天外な策略はこうして成就したのだった。

「くっ! 俺としたことが……。だが、壊れかけとは言えここは俺の世界。上位神の力もあるのだ。お前には負けんよ」

 サイノンは顔の前で複雑に両手を動かし、空気を切り裂くように印を組む。彼の目は炎のように輝き、「ふん!」という気合の叫びと共に、周囲の空気までが震えた。

 直後、ビー玉サイズの黒い粒子が無数、空間から湧き上がり、それらがまるで生き物のように躍動するとシアンを取り囲むドームを形成していく。

「おりょりょ?」

 シアンはその不思議な挙動に心を奪われ、好奇心旺盛にその黒い粒子群をキョロキョロと見回した。

「死ねぃ!」

 刹那、黒い粒子は鋭いとげとなり、邪悪な意志を持ってシアンに向かって矢のように飛んでいった。

 あっという間に真っ黒に蹂躙されつくされるシアン。

「はーっはっはっは! ざまぁねーな!」

 大笑いするサイノンだったが、耳元で誰かがささやいた。

「君がね?」

 シアンは無傷で余裕を見せ、サイノンは慌てて全力で空間跳躍し、必死に逃げる。

「くぅ、化け物め! なぜ攻撃が効かんのだ!」

 百キロほど離れた海辺に逃げてきたサイノンは空中に画面を広げ、必死にシアンのデータを追っていく。

「えーい、奴はどこ行った?」

 百キロ離れていても、地平線の向こうでどんどんと進む空間崩壊は見て取れるほど状況は厳しかった。

「早く倒さないと……。隠ぺいステルススキルを使ってるな……。だが上位神の力を使えば……。これでどうだ?」

 画面に赤い点がピコっと点滅した。

「馬鹿め! 居場所さえわかればこっちのもんだ。最大出力で焼き殺してやる」

 冷汗が額に滲むサイノンはこわばった笑みを浮かべながら、神経質に画面を叩き続けていく。

「えーと、この座標の場所は……」

 急いでズームアップしていくサイノン。

「ここだよ?」

 またしても楽しそうな声が真後ろから聞こえる。

「うひぃ!」

 何とシアンはサイノンの肩越しに同じ画面を見ていたのだった。

 慌てたサイノンは再度空間跳躍し、今度は遠く数千キロ離れた雪山のそばまで逃げ出す。

 だが、サイノンが見たのはドーム状に自分を囲む黒い粒子のあつまりだった。

『君自慢の上位神の力という奴を見せてごらん。くふふふ……』

 どこからともなく飛んでくるテレパシーにサイノンは奥歯をきしませる。

「くうっ! こんなものいくらでも逃げ出してやる……。あれっ!?」

 サイノンは急いで空間跳躍しようとしたが、さっきまで動いていた術式が、今は完全に沈黙している。そのありえないロックに心臓の鼓動が早鐘を打つ。

「ならばこうだ!」

 サイノンは空間を割ろうとしたが、一向に割れず。さらに衝撃波で粒子を吹き飛ばそうとしたが何の効果も表れなかった。

「な、なぜだ! なぜおまえはこんなことができるんだよぉ!」

 絶望がサイノンの心を覆い、恐怖に駆られた彼の喉から屈辱にまみれた絶叫があふれ出す。

『はい! 十秒前―、九、八……』

 楽しそうにカウントダウンするシアンの声が頭に響いてくる。

 万策尽き果てたサイノンに残された手段は、上位神の力を解放しこの世界もろとも自爆することだけだった。

「くぅぅぅ……。ただでは死なん! 思い知れ、このあばずれが!!」

 サイノンは瞳に炎を宿しながら、激しい怒りを込めて印を結ぶ。

 刹那、世界は耐え難いほどの閃光で満ち溢れ、全てを飲み込んでいく。その光は空間を何億度もの熱で満たし、全ての存在そのものが蒸発し、無に還っていった。

「くはーっ! はっはっは!」

 最期の瞬間、サイノンは狂気に満ちた笑い声を響かせ、その声は世界が完全に消滅するまで木霊こだまし続けた。

46. 闇からの使者

「くふぅ……。危ない危ない」

 水瓶宮アクエリアスの執務室にふわっと戻ってきたシアンは、ヨロヨロと空中を飛ぶと、ふんわりと浮かぶパステルピンクの愛らしいチェアに、身体をどさりと投げ出した。

 風光明媚な山岳地帯の上空をゆったりと飛ぶ、クリスタルでできた空飛ぶ大水槽、水瓶宮アクエリアス。その大理石で造られた壮麗な艦橋の最上階が艦長であるシアンの執務室だった。

「ふぅ……。これで今までの失敗は帳消し。女神様、ご褒美何くれるかなぁ……。うっしっし」

 深い安堵の息をつき、その胸に広がる幸福感に身を委ねると、いたずらっ子のように笑った。

 指先をツーっと空中で動かすシアン。空間がシュルっと指先の動きに応じて裂け、そこから極上のコーヒーが現れる。香ばしい匂いが部屋中を優雅に満たし、調和のとれた馥郁ふくいくたるアロマが豊かなハーモニーを奏でる。

「疲れた時にはコレだよね」

 シアンは幸せそうに香りを一通り楽しんだ後、一口コーヒーを含む。上質な音楽のような甘い旋律が、次第にスパイシーなリズムへと変わり、最後には心地よい苦味が鼻をくすぐった。

 んふぅ……。

 満ち足りた笑みを浮かべながら、彼女は眼下に広がる青く輝く大水槽を静かに眺めた。

 陽光が水面で踊り、その向こうには、イルカの【ピィ助】​が銀色の魚たちと生命力溢れる躍動とともに戯れている。

 楽しそうにうなずいたシアンは、澄み切った空気に口笛を響かせた。その音に応えるように、ピィ助はヒレで力強く水を蹴り、ものすごい速度で水面へと進路をとる――――。

 バシュッ!

 水面を銀の矢のように切り裂いたピィ助は、キラキラとした水しぶきで虹をかけながら空中で一回転し、再び深い青の大水槽へと溶け込んでいった。

「ふふっ、いい子ね」

 シアンは嬉しそうにうなずいた。と、この時、視界の隅を何やら黒い影がすっと動いていく。

 ん……?

 短い手足に大きな頭で幼児の形をした影は壁をすっと通り抜け、そのまま水瓶宮アクエリアスの大水槽へと落ちていく。

「いや、ちょっと、お前何者だ!?」

 シアンは慌てて窓からピョンと飛び出し、デッキに飛び降りると大水槽をのぞきこむ。

 すると、小さな黒い影が気持ちよさそうに、日の光を浴びながらゆったりと水の流れに身をゆだねている。その影はタピオカのようなスライム状で向こう側が透けて見える不気味な姿だった。

 影は水中のレースに参加するかのように、カラフルな魚たちを追いかけながら泳ぎ始める。やがて、好奇心旺盛なピィ助が近づいてくると、影はピィ助の滑らかな背びれに手をかけ、背中に乗り込んだ。

「あっ! 僕のピィ助に何すんだよ!」

 怒りに目を光らせたシアンは、ふん! と、気合を入れると力強く光の鎖を影へと放つ。魔力が水中を切り裂く音が、周囲の静寂を破った。

 水中を蛇のようにうねうねと突き進む鎖はピィ助を追いかけ、あっという間にシュルシュルと影を捕縛する。

「不届きなやろーだ!」

 シアンはプンプンと怒りながら鎖を引き上げ、影をデッキに転がした。

 キューキュー! と、変な鳴き声を立てながら影は蠢く。

 この騒動に乗組員たちもぞろぞろとデッキに集まってくる。そのまるで幽霊のような不気味な影が光の鎖に縛られもがいているさまに皆、怪訝そうな顔をして首をひねっていた。

 シアンは鑑定をかけたが結果は不定。それはこの世界の者ではないことを表していた。

 部下の金髪碧眼の女性【オディール】はシアンに駆け寄ると進言する。

「シアン様、こんなアンノウン危険ですよ。女神様に見てもらいましょう」

 しかしそんな部下をシアンは鼻で笑う。

「君はいつも心配ばかりだなぁ。大丈夫だってぇ。今まで僕がどれだけ訳の分からない化け物と対峙してきたか知ってるでしょ? どんな気味悪い連中だって僕に傷一つつけられなかったんだよ?」

「いやまぁ、シアン様は確かに宇宙最強ではおられるとは思うんですが……」

「それに、こいつにはもう次元結界クロノスヴェールをかけてあるんだゾ。どんな攻撃も無効さ。コイツを調べたら何か面白いことが分かりそうだし。くふふふ……」

 シアンは不気味なアンノウンも好奇心を満たすオモチャにしか見えなかった。

「私は神殿に逃げてますからね……」

 オディールはそう言うとそそくさと艦橋の方へと駆けていく。

「心配性だなぁ……。さてと……。お前は何者だ! ピィ助をオモチャにするとは許しがたいゾ!」

 影をにらみつけ、ギュッと光の鎖を引き絞るシアン。

 影は苦しそうに身もだえをすると、シアンに獰猛どうもうなまなざしを投げかけた。

「おう! 何か言ってみろ!」

 シアンは一歩も引かず、その鮮烈な碧い瞳で闘志を燃やし、にらみつける。

 すると、影はシアンに向かって口を開いた。

Deathデス

 刹那、シアンは紫の光をぶわっと纏うと、瞳はその色彩を失い、光が消えると同時に力なく膝を折り、静かに崩れ落ちた。

 一瞬の静寂の後、見守る者たちの間に緊迫の波紋が広がる。

「えっ!? シアン様……?」

 スタッフの一人が駆け寄り、激しくシアンをゆさぶったが、彼女から漂うのはもはやこの世ならざる静けさだけだった。

「し、死んでる……」

 彼は恐怖のあまり腰を抜かし、立ち上がることもできず、無様に後退しながら、震える手足で這いずり始めた。

 うわぁぁ! ひぃぃぃ!

 恐怖に満ちた瞬間、乗組員たちはパニックに陥り、慌てて逃げまどう。

 大天使シアン、その名は宇宙の隅々にまで轟き、彼女の力は星々の運命をも揺るがすほど絶大なものだった。繰り出す技はまるで芸術のように洗練されており、いかなる攻撃も効かず、どんな存在もシアンとの戦いだけは避けていた程である。

 しかし、そんなシアンが瞬殺され、足元に転がっている。これはただの敗北ではなく、神々の住む世界の基盤自体が揺らぐ、未曾有の大災害の兆しであった。

 ウキャキャキャ!

 光の鎖がほどけた影は邪悪な笑みを浮かべ、闇から出てきた滅びの使者のように、興奮しながら乗組員たちを追い始めた。

47. アポカリプス

 星々がきらめく宇宙の果て、太陽系の辺境に静かに浮かぶ深い碧の宝石、海王星。それはガスで構成された地球の4倍の大きさの美しい碧色の惑星だった。内部は全てが凍りつく氷点下二百度の世界であり、ダイヤモンド粒の嵐が吹き荒れている。この極寒の深淵に、地球を創造し運命を司る壮大なるシステム【ジグラート】が無数運用されていた。

 その秘密めいた構造物は、一つ一つが一キロメートルもの巨大さで、漆黒の直方体としてそびえ立つ。壁面の継ぎ目からは、幽冥ゆうめいの世界の灯火かのように、幻想的な青い光が溢れ出ており、古代の神々が造り上げた神秘に満ちている。

 太陽のそばで生み出された電力は何時間もかけてジグラートにまで送られ、その莫大なエネルギーが奇跡のように無数の光コンピューターを駆動し、夢幻のように命を紡ぎ、街、世界を生み出していた。

 その神秘的な碧い惑星の衛星軌道を優雅に漂うのは女神の神殿、長さ数十キロにも及ぶ、氷の結晶から創られた細長い巨大なひし形の構造物であった。この驚異的な構造物は、一片の気泡も含まず、極限まで透明に磨き上げられた純粋な氷から成り立ち、サファイアのような青のニュアンスをはらんでいる。その面々は繊細に彫り上げられ、無数の切り込みから放たれる光が互いに反射し合い、まるで内側から無数の星が輝くかのような壮麗さを放っていた。

 後方の尖ったところは宇宙港であり、そこには星々を渡る巨大な貨物船がいくつも接舷せつげんされ、ジグラートの維持に不可欠な資材を満載している。

 巨大な氷結晶の中心部には直径数百メートルの円筒状の空洞があり、それが細長く回転軸に沿って数キロ続いていた。スペースコロニーとも言うべきこの回転する世界には、息をのむような建築美が凝縮された建物が立ち並び、数千の選ばれし者たちがその中で地球を管理しながら生活を営んでいる。

 公園の区画では人工的ながらも美しい森が広がり、手入れされた緑の樹々が生い茂り、清らかな小川が蛇行しながら流れていた。空中を漂う雲のような、柔らかく光る照明が、この空間を神秘的な輝きで満たし、森の中を歩けば、種々様々な植物の香りに包まれ、四季の移ろいさえも感じることができる。それは衛星軌道上にいることを忘れてしまうほどの穏やかで快適な空間だった。

 そんな穏やかな神殿がにわかに騒がしくなる。

 水瓶宮アクエリアスからゲートを使って逃げてきた乗組員を追いかけて影も入ってきてしまったからだ。

 影はゲートを抜けると、森の向こうにそびえ立つ御影石でできた壮麗な高層構造物に目を奪われる。

 きゃはっ!

 楽しそうに笑った影は構造物にまで駆けると、分厚いグレーの御影みかげ石の壁をすり抜け、構造物へと入っていく。それは、神殿のコアとも言うべき機密区画クロニクルゾーンだった。

 機密の聖域とも呼ぶべき《クロニクルゾーン》は、一歩足を踏み入れると、巨大外資IT企業のオフィスを思わせる、ゆったりとしながらも緊張感の漂う空間が広がっていた。パーティションで個室に区切られた空間には、微かな光が幻想的に舞い、神殿のスタッフたちは幻影のような巨大スクリーンを操りながら、無数の地球のリソースを巧みに管理する。

 この壮大なシステムが稼働し始めてから既に六十万年が経過し、その間に管理下にある地球は一万個を超える規模へと膨れ上がった。それぞれの地球は独自の進化を遂げ、壮大で興味深い物語を紡ぎだしていく。だが、一つの地球にそれこそ何十億の人が暮らしているのだ。それらが円滑に動くためには膨大な保守管理が必要である。そのほとんどはAIが自動的に処理しているが、それでもイレギュラーな事態やプロジェクトの本質にかかわる判断には、女神の意向を受けた数百人に及ぶスタッフの手腕が必要だった。

 そんな神殿の中枢部に影は侵入してしまう。

 リフレッシュスペースでコーヒーを飲みながら歓談しているスタッフたちの足元をすり抜け、ものすごい速度で駆け抜けていく影。

 きゃははは!

 影は奇声を上げながらパーティションをなぎ倒し、コーヒーサーバーを粗暴に打ち砕き、観葉植物を乱暴に転がした。

 キャーー! うわぁぁ! な、なんだ!?

 いきなりのアンノウンの侵入にスタッフたちはパニックに陥った。彼らは悲鳴を上げながら逃げ惑い、混沌が機密区画クロニクルゾーンを蹂躙した。これまで数十万年にわたって厳重に守られ、侵されることのなかった聖域が、今、未知の脅威に晒されていたのだ。

 影はテーブルの一つの上にトンと跳び乗ると、目の前に広がる巨大な画面に目を奪われる。そこに映し出されているのは、東京の煌びやかな夜景、ニューヨークの休むことを知らない街、ロンドンの霧に濡れた古い石畳、そして北京の古き良き街角の喧騒。それぞれの都市の息吹が画面からあふれ出していた。

 幻惑されたように映像を凝視していた影だったが、くびを傾げ、映像に腕を伸ばすとポツリとつぶやいた。

Deathデス?」

 刹那、全世界の八十億人の人たちが紫色の光に包まれ、一斉に崩れ落ちる――――。

 それは、一切の傷跡も残さず、全人類がこの世界から抹殺されるという、想像を超えた壮絶な光景であった。

 教室で手を挙げる子供たち、電車の中で揺られる乗客たち、自転車に跨る通勤者たち、全てが糸の切れた操り人形のようにガックリと崩れ落ちる。雑踏が途切れ、人の流れは静かに凍りつき、街の活気が突然、宙に消えた。

 高速道路上で、車が一台、また一台と無慈悲にも壁に叩きつけられる。金属が歪む悲鳴、ガラスの破裂する音、後続車が絶望的な連鎖反応で追突し、炎が天へと舞い上がる。その業火に染まった空の下、着陸進入中の飛行機がコントロールを失い、まるで引き寄せられるように高層ビルに突入。ビルをへし折りながら大爆発を起こす。

 駅や商業施設ではエスカレーターの降り口に死体が積み重なり、電車は死体を乗せたまま駅を通過し続けた。それはまるで悪趣味な現代アートのように悪夢を振りまいていく。

 TVのニュースではキャスターが崩れ落ち、無音のままの放送が続き、サッカーの試合ではピクリとも動かない選手、死体の折り重なる観客席をただ流していた。

 八十億人が躍動していた奇跡の星はこの瞬間、全ての輝きを失ってしまう。

 あんなに活気のあった街はただ警報音と犬やカラスの異常な鳴き声、時折上がる爆発の地獄の空間と化し、まさにアポカリプスがやってきてしまった。

 

48. もう、最悪

 ヴィーン! ヴィーン!

 神殿に満ちた静謐せいひつな空気を、突如として非常警報が貫き、かつてない緊張感が神殿中を駆け巡った。

 機密区画クロニクルゾーンの深奥、大理石張りの白亜の執務室で、女神は空中に浮かび上がった警報内容に目をやり、その美しい顔をしかめた。

「あのシアンが殺された……? まさか……」

 シックなクリーム色のドレスに身を包んだ女神は、指先を不思議なリズムで刻む。そして空中に展開される水瓶宮アクエリアスに現れたアンノウンの映像。その不気味な存在に女神はハッとして厳しい表情を浮かべた。

 急いでアンノウンの秘密を解き明かそうと懸命にデータベースを漁ったが、その正体は捉えがたい影のよう。どんな資料にもその存在は記されず、この宇宙の法則から逸脱したかのような不可思議な存在だった。

 その時だった、画面が閃光のように赤く瞬き、恐るべき警告メッセージが浮かび上がってくる。

 第1533番星:大量死亡(7,923,723,549人)

「な、何よこれ!」

 衝撃的な出来事に、女神は言葉を失った。八十億という計り知れない命が、一瞬で消し飛んだのだ。この六十万年という長きにわたる地球創造の歴史の中でこんなことは初めてだった。

 ところが、これだけでは終わらない。

 第2125番星:大量死亡(5,398,874,293人)
 第4928番星:大量死亡(987,329,469人)
 第7292番星:大量死亡(773,297,953人)
      :
      :
      :

 一つまた一つと届く全員死亡の報。それは、この星系で長年築き上げてきた全てを崩壊させるほどの、重大で壮絶な災厄の始まりだった。

「ど、どうなってるのよ!」

 真っ青な顔で画面を凝視する女神は、死者たちの情報を必死で辿った。しかし、亡くなった者たちの死因は全て不明。その原因を解き明かす糸口さえ全くつかめなかった。

「た、大変だわ。みんなを呼ばなきゃ!」

 女神がスタッフに一斉通報を飛ばした時だった。神殿を揺るがすさらなる危機が突如として明らかになる。長年頼りにしてきたスタッフたちの死亡速報が画面を覆い尽くし、止まることなく流れ始めたのだ。

 スタッフ異常事態通知:レオ・アレグリス 死亡(死因:不明)
 スタッフ異常事態通知:水瀬みなせ颯汰そうた 死亡(死因:不明)
 スタッフ異常事態通知:ヴィクトル・ヴュスト 死亡(死因:不明)
 スタッフ異常事態通知:瀬崎せざきゆたか 死亡(死因:不明)
 スタッフ異常事態通知:ベン・オーベ 死亡(死因:不明)
      :
      :
      :

ずらっと並んだ急死したスタッフの名前に女神は凍り付く。愛しき者たちの名が、彼女の心の中で静かな悲鳴となって響き渡った。

「ダ、ダメよ……。こんな……」

 焦燥感に駆られた女神は壁面の緊急停止スイッチに急ぐ。そして、巨大な赤いボタンの保護カバーを力強くを打ち破る。透明な破片がキラキラと宙を舞い、その切迫した瞬間を彩った。

 しかし、次の瞬間、女神の優美な体が紫色の光に飲み込まれ、輝きを放ちながら神秘的なオーラで覆われていく。

「そ、そんな……」

 崩れ落ちるようにして床に沈む女神。

 その琥珀色の瞳からは、光が消え、ただの虚空が広がっていた。

       ◇

「はーい、呼ばれましたよー!」

 元気いっぱいの声とともに、避難していたオディール​が執務室に飛び込んできた。彼女の声にはいつもの軽やかさが満ちており、その明るさが部屋に響いた。

 しかし、そこには床に横たわる女神がいて、オディールは衝撃のあまり言葉を失ってしまう。

「へ? め、女神……さま?」

 恐る恐る近づき、背中をそっとなで、すでに死亡しているのを見てしまったオディールは思わず宙を仰ぎ、言葉を失った。いつも美しく気高く輝いていた、あの圧倒的な女神のオーラは失われ、ただの屍となって床に転がっている。そのあってはならない姿が、オディールを深い絶望のどん底へと突き落とした。

「何よこれぇ……。くぅぅぅ……」

 オディールは事態の重大さに飲み込まれ、その場に立ち尽くしてしまう。

「なんで死んでんの? もぅ……」

 オディールは息を整えようと深く何度も呼吸をする。彼女の視線が重たくテーブルの上にある画面に移ると、死の通知が止まることなく画面を覆いつくしており、彼女の心をさらに暗く染めた。

「うっわ……。もう、最悪……。あいつめ……」

 オディールは深く打ちのめされたように肩を落とし、どうしたらいいのか必死に考える。

 しかし、その事態はあまりにも深刻で、考えが定まらない。

 そうこうしているうちに廊下からバタバタと何人かの慌ただしい足音が、次第に大きくなって聞こえてきた。

49. 奇妙な果実

「失礼します!」

 ノックに続いてドアが静かに開き、現れたのはひげをたくわえたアラサーの大天使だった。彼のクリーム色のローブは光の粒子をまといながら優雅に揺れ、空間に神聖な静寂をもたらした。しかし、オディールの足元に無残に倒れている女神の姿を目にした瞬間、その温かみのある瞳が驚愕の色に染まった。

「め、女神……様?」

「わ、私じゃないですよ? 私呼ばれてきただけですからね?」

 オディールはワタワタと慌てた様子で声を上げる。

 大天使は駆け寄って女神のそばにひざまずき、彼女がもはやこの世にいないことを確認すると、声なき絶望の叫びとともに頭を振った。

 えっ……? そ、そんな……。 う、うわぁぁぁ……。

 いきなり訪れた終末に神殿のスタッフたちは打ちのめされ、その場に崩れ落ちる。疑問、絶望、受け入れがたい現実への抵抗が渦巻く彼らたちの嗚咽が、部屋に静かに響いた。

 だが、画面には今この瞬間にも残酷な報告が流れ続けている。

「あのぉ……、緊急ボタン押しましょうか?」

 オディールは壁の赤いボタンを指さし、おずおずと進言する。

 これはシステムの緊急停止スイッチ。押せば女神の管理下にあった海王星系の空間はすべて動作を停止し、時間が止まった状態となって凍結されるようになっている。

 重々しい沈黙の中、大天使は悲しみを帯びた目でゆっくりとうなずき、肩を落とした。

「了解デス! ポチっとな!」

 オディールは景気よく、目にも鮮やかな赤いボタンをひっぱたく。

 ヴィーン! ヴィーン! けたたましくサイレンが鳴り、海王星内のジグラートのシステムは一斉に動作を停止する。

 余った膨大な電力が一斉に熱となり、ボッシューー! という壮絶な蒸気の嵐が噴きあがる。すべての地球の時が止まったことがこれで確定したのだった。

 直後、パシューン! という空間を裂くような破裂音とともにオディールら一行は未知の異世界へと吸い込まれ、周囲の全てが未知の色彩と音に溢れた。

         ◇

 その頃、ムーシュは――――。

「あれ……、ここはどこ?」

 ムーシュは黄金色に輝く光の世界をふわふわと漂いながら辺りを見回した。光に満ち溢れたその世界にはゆったりと光の雲が漂い、ところどころ半透明に透けた人がスーッと流れている。

 え……?

 ムーシュは自分の手を見て、自分も透けていることに気がついた。

「あぁ……、死んでしまったのね……。主様はどこかしら……?」

 頭に霞がかかってしまったようにうまく考えがまとまらなかったが、あの状況では蒼も死んでしまっただろう。であればきっとこの死後の世界のどこかにいるに違いないと、キョロキョロと辺りを見回した。

 しかし、意識を蒼に合わせてみても蒼の存在らしきものはどうやっても感じられない。次にレヴィアに合わせてみると、近くに存在を感じることはできた。

 どうやら蒼は死んでいないらしい。ムーシュはそれだけでなんだかうれしくなって思わず涙をポロリとこぼした。

 あの絶望的な状況からどうやって蒼が命をつないだのか分からなかったが、自分の死も無駄ではなかったと思えてくる。

 しかし……、自分はこれからどうなるのだろうか? ムーシュは心細くなりレヴィアの方へツーっと飛んでみた。

 光の雲を越え、ふわふわと飛んで行くと、レヴィアらしき少女が何やらもがきながらゆったりと風に流されている。

 ムーシュが声をかけようと近づいて行くと、いきなり強烈なスポットライトがレヴィアを包む。

 うわぁ!

 思わず顔を覆ってしまうムーシュ。

 そして、レヴィアの存在感がすぅっと消えていくのを感じる。

 え……?

 恐る恐る目を開けると、そこにはもうレヴィアは無かった。

「レヴィア……さん……?」

 あの鮮烈な光には心を温かくするような神々しい波動があった。もしかしたら神の声がかかったのかもしれない。

 ムーシュはまだ物語は終わっていないのだと思った。神々のドタバタに巻き込まれた自分にも声がかかる時が来るかもしれない。

 あの蒼のプニプニしたほっぺたにもう一度頬ずりしたい……。

 ムーシュは両手を組んで一心に、もう一度蒼に出会えることを祈った。

        ◇

 ところ変わって、とある異次元空間。

 緊急ボタンを押したオディールたち一行は、その見知らぬ空間へと飛ばされてきた。

 ドサドサドサッ――――。

 いてっ! うわぁ! ひぃ!

 一行はいきなり薄暗い洞窟に落とされ、彼らの悲鳴が洞窟の奥深くに響き渡る。

 洞窟はどこまでも伸びる不思議な世界への入り口のようだった。岩肌は濡れており、冷たい水が滴り落ちる音が、この閉ざされた空間にひびきわたる。壁には、夜空の星のようにぽつぽつと赤いキノコが光り、ぼんやりとした視界を提供していた。

 ここは……?

 オディールがキョロキョロと見回す。

 元いた世界はすでに凍結されてしまっているはずなので、もう戻れない。しかし、こんな洞窟では希望を見出すこともできず、皆の胸には言葉にならない不安が渦巻いていた。

「どうやら次元の狭間のようだな。どこかにイミグレーションがあって、審査に通れば上位世界へ入れてもらえる……まるで難民だな」

 重い沈黙を破るように、大天使は心なしか声を落とし、打ちひしがれたトーンで話し始めた。

「審査に……落ちたら?」

「一生洞窟の中だ! 言わせるな!」

 怒りに満ちた大天使の目が、オディールを射抜くようににらむ。

 オディールは恥ずかしげに身を縮めた後、いたずらっ子のように応じてペロリと舌を出した。

     ◇

「本当にこっちなんですかぁ? なんだか暑いんですケド?」

 オディールは額の汗をぬぐい、はぁと深いため息をつきながら大天使に目を向けた。

 小一時間ほど洞窟を進んできた一行だったが、蒸し暑く気温も上がってきて疲労が見える。

「以前、女神様は『登る方向に進むといい』とおっしゃっていた。死にたくなければキリキリ歩くんだな!」

 大天使は汗だくになりながら、不快感を隠すことなくオディールをにらんだ。

「はぁい……。……。あっ何かある!」

 薄暗がりが支配する洞窟の先、オディールは薄明かりが射し込んでいるのを目ざとく見つけ、躊躇なく駆け出した。

「あっ! おい! 勝手に走るな!」

 大天使は叫ぶが、好奇心に駆られたオディールは止められない。

 息を切らして駆け上がったオディールは、信じがたいほどの幻想的な風景を見て息を呑んだ。そこに広がるのは広大な地下空洞で、その中心には一本の巨木が、まるで全てを見守る守護者のようにそびえ立っていた。その木は葉を一切持たず、枯れたようにも見えるが、熱い湯の池に根を張り、意思を持っているかのように纏う光を揺らめかせ、垂れさがる枝からは奇妙な果実を実らせていた。

 おぉぉぉぉ……。

 オディールは駆け寄ってその巨木を見上げ、感嘆のため息を漏らした。幹には長い時を経た風格が刻まれ、それでもなお、纏う輝きに生命の脈動が強く感じられた。

 オディールはこの木が、生命の循環と新たな始まりを表しているのかもしれないと感じ、畏敬の念を抱く。もしかしたらこの一見死んでいるような木が、実は彼女に新しい道を教えてくれるのかもしれない。

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