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異世界最速の英雄 ~転生5秒で魔王を撃破した最強幼女の冒険物語~ 50~59

50. 竜の子

「な、なんだ……、コレは……」

 追いついてきた大天使も目の前に広がる未知の奇観に息をのんだ。

「あの実は食べられるんですかね?」

 オディールの目は期待に満ちて輝いていたが、大天使は静かに首を横に振った。

「お前は余計なことをするなよ? イミグレーションで……」

 そんなお小言をこぼす大天使を尻目に、オディールは好奇心に駆られてかけだした。

「おい待て!」

「きゃははは! そーれっ!」

 オディールは無邪気な笑顔で、重そうに垂れ下がっているビーチボール大の白い果実に飛びついた。その果実は幻想的な光を放ち、果物というよりもむしろ一つの宝石のようである。また、滑らかで硬質な表面を持ち、触れると温かく岩のように堅牢だった。

 どっせい!

 オディールはそのまま力任せに果実をもぎ取って着地したが、その果実の予想外の重さに手が滑り、床に落ちて転がり始めた。

 あっ!

 コロコロと転がった果実は緩やかな傾斜を加速しながら落ちていき、そのまま岩に激突する。

 グシャ!

 嫌な音が空洞に響き渡り、見ていたみんなは青くなる。

「あぁっ!」「何やってんだお前は!」「あわわわわ……」

 オディールは慌てて駆けよって息を呑み、そのヒビの入った果実に手を伸ばすと慎重に持ち上げた。

 すると、彼女の掌の中でほんのりと熱を帯び、パキッ、パキッと内側から叩かれる力によって、殻が割れ始めた。驚くべきことにそれは果実ではなく、卵だったのだ。

「お前、危ないぞ、手放せ!」

 大天使の声には緊迫感がこもり、切羽詰まって叫ぶが、オディールは子供のような無邪気な瞳で、その神秘的な孵化の様子に夢中になっていた。

「大丈夫ですってぇ。そろそろ生まれますよ!」

 直後、力強い一撃が殻を弾き飛ばし、光の粒子が舞い散った。

 一体何が出てくるのか、みんな固唾を飲んで見守る。

 すると、漆黒の鱗に覆われた竜の子がゆっくりと卵から顔をのぞかせ、つぶらな真紅の瞳で眠たげに辺りを見回す。

「あれ? ここはどこじゃ?」

 煌めく瞳を持つ竜の子は、オディールの姿を捉えると目を輝かせ、彼女の滑らかな肩に触れながら深い感情を込めて視線を交わした。

「ま、まさか、オ、オディール?。お主か? お主が助けてくれたんか!?」

 大天使たちはいきなり話し出した竜の子に、驚きの表情を隠せない。こんな次元のはざまに生まれた存在は、何とオディールの知己だったのだ。

「あれ? レヴィア……、かな? ぼ、僕じゃないよ。助けたのは。久しぶりだね。こんなところで何やってんの?」

 オディールは突如として現れたかつての友に温かな微笑みを送りながら、いつくしむように頭をなでた。

「何って……、我は殺されたんじゃ。それで、命のスープに溶けていって、このままじゃ消えてしまうと必死にあがいていたら……いきなり何かの力で引き上げられてここに出たんじゃ」

 異空間で死んだら次元のはざまに産み落とされた、という摩訶不思議な話に一行は首をかしげる。
 
「じゃあ、この樹は命の樹……ってことかな?」

 神秘的な力を発揮して見せた不思議な枝ぶりを繁らせる伝説の巨木を、オディールは畏敬の念とともに見上げた。

「それより……サイノンはどうなったんじゃ?」

「いや、それがね……。その、何て言うか……」

 今の混沌とした状況を伝えようとしたオディールだったが、その絶望的な状況を表す言葉が見つからず、宙を見上げて固まってしまう。

 すると、シアンの部下だった男性が前に出てくる。

「レヴィア……さんですね。復活されて何よりです。この度はシアン師が大変にご迷惑をおかけしました……」

 シアンの野心的な計画とその悲劇的な帰結について、男性は重々しく、そして悔やむように語り始めた。

「あー、そ。あの方のやりそうなことじゃな。で、そのシアンを追いかけてきたという影の幼児。そりゃ蒼じゃろ。蒼が受精卵の向こうに行っちまって上位神の力を身に着けて暴走しとるんじゃろうな」

 レヴィアは肩をすくめながら首を振った。シアンのやったシステムの不定動作を誘うやり方はハッカーがやるような禁じ手であり、副作用も大きく、一般には許されない。

「だとすると止めるには上位神の協力がいるってことだね?」

 オディールはレヴィアの顔をのぞきこむ。

「まぁそうじゃろうな。しかし……、どうやって上位神にお願いしたものかじゃよなぁ」

「それは『サイノンへの協力を責めるような形にならないように』って事?」

「そうじゃ。上位神にとってみたら我々なんぞゲームのキャラクター同然じゃからな。メンツにかかわるような話をしたとたん抹殺されるじゃろう」

 レヴィアは重いため息をついて首を振る。

「えーーっ! 中にはまともな上位神もいると……思うよ?」

「ん? お主、上位神に詳しいんか?」

「あ、いや、そんなことある訳ないじゃん。想像だけどね」

「想像で偉大なる神を語るな! 馬鹿もんが! 上位神との交渉には数兆人に及ぶ人々の未来がかかっておるんだぞ!」

 大天使は怒鳴りつける。その瞳の奥には、重責の重みに耐え切れぬほどの焦燥が垣間見えた。

51. 脂ぎった中年男

「ごめんなさーい」

 素直にペコリを頭を下げ、頭をかくオディール。

「そもそもお前は……」

 お小言モードに入った大天使。

「あっ! あれ何かな!」

 オディールは巨木の裏手に、静かにたたずむ石造りの美しいアーチを見つけ、興奮して指を伸ばした。

「えっ?」「あれは……?」「おぉぉぉ……」

 洞窟の中で、初めて目にした神秘的な建造物。それはイミグレーションの謎を解き明かす鍵だろう。

「見てきまーす!」

 オディールはわれ先に駆け出した。

「待てというに!」

 大天使は手を伸ばしたが、オディールは楽しそうに行ってしまう。その奔放さに大天使は頭を抱えた。

         ◇

 古代からの風格を湛えた石造りのアーチの奥に、伝説の白虎とも思える雄大な神獣の巨像がたたずんでいる。その精緻で今にも飛びかかってきそうな彫刻は地を這うように身構え、こちらに向けて広げた大口の中から、鋭利な牙を露わにしていた。牙の隙間からは、深淵のような黒闇がのぞいている。

 その神秘的な巨像にオディールは小首をかしげた。

「どうしてお前は勝手に先に行くのだ!」

 大天使が顔を真っ赤にしながら追いかけてきて怒鳴る。

 その時、まるで伝説の中から飛び出したかのように、石造りのアーチが太陽のような眩しい黄金色の輝きを放ち、全てを光で包んだ。

 うわぁ!

 あたふたと焦り、驚く大天使。

 煌めく光が収まってくると、アーチのところに不思議な小人が浮かんでいた。その大きさは赤ちゃんくらいだったが、顔は脂ぎった中年の男で、薄くなった頭髪がぺったりと頭皮にくっついている。グレーのベストを着込んだ小人は、オディールたちを探るような目で一瞥いちべつし、狡猾な笑みを口元に浮かべた。

「あーら、これはこれはようこそイミグレーションへ。ぐふふふふ」

 大天使はオディールをどかせると、一歩前へと進み、胸に手を当てながら深い敬意を込めて会釈をした。

「これはこれは官吏様。我々は女神ヴィーナのところの者です。この度は……」

「堅苦しい挨拶なんて要らないよ! 金星ヴィーナスはあの口の向こう。誰から入るんだい? ぐふっぐふっ……」

 官吏は冷徹さが宿った瞳で冷ややかに言葉を投げかけると、一行の者たちを挑発するようにゆっくりと見回し、嗜虐しぎゃく的な笑みを浮かべた。

「あの口を通る……だけですか?」

 石造りとは思えないほどの生命感に満ちた白虎の石像を、大天使は怪訝そうな眼差しで見つめる。石像の口は四つん這いで進むには十分な大きさだったが、ところどころ漆黒に染まった尖鋭な牙が威嚇的に光り、未知の恐怖を予感させていた。

「通るだけー。でも、邪心を持つ者は噛み殺されるから気を付けてね。ぐふふ……」

「えっ!? では、通れないものは殺される……ってことですか?」

「そうだね。ちなみにまだ誰も通れた者なんていないんだけど。くはははは!」

 官吏はこらえきれず甲高い笑いを響かせた。

「ちょ、ちょっと待ってください。みんな殺された……ってことですか?」

「そうだよ? あの牙の黒いのはみんな血さ。最後は数百年前だったかな? こんなところに来る連中はみんな訳アリ。とても金星ヴィーナスに入れる資格なんてない連中ばかりさ」

「あ、いや、我々は難民ですよ。訳なんてない。ただ避難してきた……」

「あー、そういうのはいいから! 早く入った入った! 嫌なら通らなくていい。ただ、この次元からの出口はここしかないんだけどね。ぎゃははは!」

 官吏の嗜虐的な欲望を隠すことなく嗤った。

 大天使は、その力強い手でこぶしをギュッと握りながら、奥歯を強く噛み締める。自分たちを弄ぶことしか考えていないこの小人には何を言っても無駄だろう。大天使は燃えさかる怒りを鎮め、じっと我慢する。

 オディールはテッテッテと白虎の像まで走り寄ると、その威圧的な牙をじっと見つめた。確かに黒い塗料のようなものが牙の隙間に溜まっている。数百年前の血だと言われればそうかもしれない。

「オ、オディール、お、お前行ってみるか?」

 大天使の表情には痛みと憂いが混ざり合い、震える声で話しかけた。

「えっ!? ぼ、僕に行かせるの? うーん。だったら、今後僕のやる事に文句言わないって約束してくれる?」

 オディールは挑戦的な瞳で返した。

「え……? お前が何をしても?」

「そう。何でも」

 オディールは腰に手を添え、得意げな微笑みを浮かべながら颯爽と返す。

「まぁ、分かった。申し訳ないが先鋒をお願いする」

 大天使は深々と頭を下げた。

「よーし、そうしたら……」

 オディールはワンピースのすそを少したくし上げてキュッと結び、助走のための距離を取った。

52. 鱗のお守り

 ジッと白虎の口をにらみ、呼吸を整えるオディール――――。

「あー、飛び込もうったって無駄ですよ。白虎の牙が閉じるのに1ミリ秒もかかりませんからね。くふふふ……」

 その様子を見ていた官吏は毒を帯びた微笑を見せた。

 えっ……?

 オディールは眉をひそめ、凍りつく。

「邪心が無ければ……嚙まれないんですよね?」

 引きつった微笑みを浮かべ、改めて小人に聞くオディール。

「もちろん、そうですよ? でも今までたくさんの人が挑戦してきましたが、なぜか全員噛み殺されちゃったんですよねぇ。ぐふっぐふっ……」

 小人の残酷な笑いに、オディールは冷たくにらみ返した。

 レヴィアが翼をバサバサ鳴らしながら慌てて飛んでくる。

「オディール、こんなの止めるんじゃ。こんな無謀な事せんでええ。本当に出口がここだけかなんてわからんじゃないか」

 オディールの腕をギュッとつかみ、熱を込めて説得するその真紅の瞳には涙が切なく光っていた。

 しかし、オディールは不屈の決意を瞳に宿しながら首を振る。

「僕たちの肩には数兆人の未来がかかっているんだよ? このくらいは大したことないって」

「いやいや、死んだら終わりなんじゃ!」

「はははは、レヴィアはさっきまで死んでたじゃん」

 オディールは屈託のない晴れやかな笑いを見せる。

 レヴィアは口をとがらせ、オディールをジト目で見ると、指先を自分のわき腹に滑らせ、力を込めた。

 いてっ!

 そう言うと、顔を歪めながら、黒く鈍い光を放つ欠片かけらを無言でオディールに渡す。

 え……?

「ドラゴンの鱗は幸運のお守りにもなるんじゃ。持っとけ」

 レヴィアは今にもこぼれそうな涙をたたえながら言った。

「ありがと。……。でもちょっと何か臭うよ?」

 オディールは鱗を受け取ると、くんくんと嗅いでみて眉を寄せる。

「バッカもん! 返せ!」

 レヴィアは真っ赤になると、怒りに燃える瞳でオディールに飛びかかった。

「うそうそ。ありがとっ!」

 オディールはレヴィアを優しく抱きしめると、ほっぺたにチュッ! とキスをする。

 え? あ……。

 レヴィアはちょっと恥ずかしげにうつむいた。

「さーて、幸運のお守りも手に入れたし、イッツ、ショーターーイム!」

 オディールはレヴィアをそっと地面に下ろすと軽くピョンピョンと跳んで、競技直前の陸上選手のように手足をクルクルと回した。

「死体の掃除、大変なんですから、頑張ってくださいね。ぐふふふふ」

 官吏の口元からは、邪悪な笑みがこぼれた。

 オディールは冷めた目でその官吏を一瞥いちべつし、フンと鼻を鳴らすと、大きく息をつく。

 じっと白虎の口を見つめるオディール――――。

 はっ!

 気合を入れた直後、一気に全力で白虎へ向かって駆けだした。

 オディールの鮮やかな動きに全員が息を呑む。足音のリズムが、戦場のドラムのように響きわたった。

 そいやー!

 オディールはまるで高校球児のようにヘッドスライディングをしながら、一気に口の中へと飛ぶ。

 刹那、ギラっと白虎の瞳が神秘的な光を放ち、オディールめがけて牙が動き出す。

 直後、雷のような轟音が鳴り響き、舞い上がる土煙――――。

 視界が土煙に閉ざされる中、レヴィアはたまらず駆け出す。そして、白虎の巨大な口からオディールの白く細い足首が露わになっているのを見て、レヴィアは息をのみ、悲痛な叫びをあげた。

「オ、オディールぅぅぅ!」

 すると、白虎の口がゴゴゴゴと石の擦れる音を立てながら、少しずつ開いていく。

 えっ……?

 中から現れたのはオディールの明るい笑顔だった。

「なんか、牙折れちゃったけど、条件は『通れたらOK』だからこれはセーフなんですよね? くふふふ……」

 四方に散乱する鋭利な牙の破片たちを前にして、官吏は顔が引きつった。

「あ、あ、あ、聖なる石像が……。まさか……」

「では、先に行ってるから早くみんなもおいで~。大天使様はちゃんと願い聞いてよ? きゃははは!」

 輝く笑顔を湛えながら、オディールは石像の影の奥深く、神秘的な闇へと消えていった。

        ◇

 オディールがゆっくりと瞼を開けると、目の前には黄金の楽園が広がっていた――――。

 うわぁぁぁ……。

 煌めく太陽の下、丘を埋め尽くすネモフィラのような花々は黄金色に輝き、それぞれが太陽の粒子のようにキラキラと輝いていた。まるで神々が丘全体を黄金の絨毯じゅうたんで飾り立てたかのようである。

 その黄金の海の中央に、壮麗な純白の建物がひときわ目を引く。その三角屋根は青空に向かってそびえ、黄金の世界の遠い伝説を静かに守っているかのようだった。

「オディールぅぅぅ!」

 振り返ると、レヴィアが金髪おかっぱの女の子の姿で、涙と共に全身を震わせながら飛びついてくる。

「おわぁ! レヴィちゃん。うふふ……。鱗のお守りありがと……」

 オディールはレヴィアをキュッと抱きしめると、輝く太陽のような金髪を優しく撫でた。

「あんまり無茶はせんでくれ」

 レヴィアは涙をポロポロとこぼしながら、切なくも優しい声で言葉を紡いだ。

「ははは、でも無茶しないと数兆人は救えないんだよねぇ……」

 オディールはうんざりした様子で重く深いため息をついた。

53. 神の桃

「おぉぉぉ……」「何と素晴らしい……」「素敵……」

 残りのメンバーもやってきて、それぞれがこの世ならざる光景の前で息をのむ。

 そこへ、鬱陶し気な様子で官吏が姿を現した。

「ふん、なんだってこんなことになるんだよ……」

 官吏は、懐疑の影を目に宿し、オディールをギロリとにらむ。

「お前は誰の加護を得てるんだ? 牙を折るなんてありえんのだけど?」

「加護? そんなものある訳ないじゃん。あれはドラゴンの鱗のおかげだってぇ。きゃははは!」

 オディールは無邪気な歓びを振りまくように笑う。

「そんな訳あるかい! だがまぁ通れちゃった以上は案内はせんとな。ふぅ……。ついてこい!」

 官吏は深いため息を漏らすと、不満げにその額に皺を寄せながら、三角屋根の建物に向かって飛び始めた。

「あっ、あそこ行くの? やったぁ! よし、レヴィちゃん競争だ!」

 オディールは歓喜に満ちた声を上げ、野を駆ける子鹿のように金色の花びらを蹴りちらしながら軽快に走り出した。

「あっ! おい、お前勝手に……」

 大天使が怒鳴ろうとしたその刹那、オディールは軽やかに後ろを向き、

「約束、約束ぅ!」

 そう言って人差し指を楽し気に振りながら、碧い瞳でいたずらっ子のウインクをする。そして、笑い声を響かせながら風のように駆けていった。

        ◇

 純白のファサードが天に向かって尖る、この壮大な三角屋根の建物は、繊細かつ豪華な装飾で飾り立てられた荘厳なチャペルだった。

 一歩足を踏み入れると、目に飛び込んできたのは神話から抜け出したかの如き純白の幻獣の浮彫。真っ白だった壁は、内側からはまるで水晶のように透明へと変わり、まるで黄金色に輝く花々の上に幻獣が浮いているかのように見える。その壮麗さは、ここで結婚式を挙げたらこの上ないと思わせるものだった。

「うわぁ……素敵……」

 静かに両手を組んだオディールの碧眼が輝きを増す。

「お前たちはここで待ってろ。この世界の神、ヴェルゼウス様にはすでに連絡済みだ」

 官吏は参列者席を指さし、つまらなそうに言った。

「ヴェルゼウス様は僕らの世界を直して……くれるかなぁ?」

 オディールは首を傾げながら恐る恐る官吏に問いかけた。

「はぁ? そんなのワシは知らん。ただ、一般論として言えば、そんなことしてもヴェルゼウス様には何のメリットもないからねぇ」

 官吏は冷やかな笑いをこぼしながら、肩をすくめる。

「メ、メリットって、数兆人の人の命がかかってるんだよ!?」

 命の尊厳を踏みにじるような計算高い発想に、オディールは猛然と反抗した。

「何兆いようがそれはお宅らの都合でしょ? うちらには何の関係もない」

「そ、そんな……」

 横で見守っていた大天使は、沈黙を守ることができず口をはさむ。

「関係ないってことはないはずですよ? 女神ヴィーナはヴェルゼウス様の後輩、同じく世界を造られている仲間同士じゃないですか!」

「あー、うるさいな。そんなのはワシにはどうでもいい事。直接言ってくれ。あそこの桃でも食べて待ってろ」

 官吏は、壇上に積まれた桃を指し示し、面倒事から逃げるようにすうっと消えていった。

 ハードな交渉になりそうな重苦しい雰囲気の中、一行はお互いの顔を見合って、無言のうちに溜息を漏らす。

 そんな空気を気にもせず、オディールは真っ先に桃を取ってその濃厚な香りを楽しんだ。桃色の豊潤な肉質はすっかり熟しており、馥郁ふくいくとした高貴で芳醇な香りが鼻をくすぐって、彼女を幸せな微笑みへと誘った。

 早速皮をむいてみるとつるんと簡単にむけ、透明感のあるジューシーな中身が姿を現す。

 たまらずかぶりつくと、夏の太陽を凝縮したような蜜の甘みが爆発し、その後を清涼感のある酸味が口の中を駆け巡る。

 うほぉ……。

 緊張で砂漠のように乾いた喉を潤すため、オディールは飢えた狼のごとくむしゃぶりついた。

「う、美味いのか?」

 レヴィアはそんなオディールの様子を不安を抱きつつ見守る。

「いやぁ、神の国は最高だね。うっしっし」

 オディールは一気に種までしゃぶりつくすと、すぐさま二個目へと手を伸ばした。

「神の世界のものを食べちゃいかん、とか聞いたことないのか?」

 レヴィアはゴクリとのどを鳴らしながら言う。

「何言ってんの、長丁場になりそうだからレヴィアも食べときな」

 オディールは微笑みを浮かべながら、滴る果汁の桃を差し出した。

 レヴィアは一瞬ためらったものの、喉の渇きに負け、静かにその甘露を受け取る。

     ◇

 桃を食べ終わったレヴィアは、無力感に身を委ねるように、静かに肩を落とした。

「なぁ、うちらの世界はどうなっちゃうんじゃろ……?」

 レヴィアが視線を落としたその時、頬を伝う悲しみの雫が彼女の手に静かに落ちた。

 オディールは桃を手早く頬張りながらも、そんなレヴィアの背中をやさしくポンポンと叩く。

「大丈夫だってぇ。世界はあるべき姿に必ず戻る。どんなに悪意が捻じ曲げようとしても最後には必ず定まった姿に落ち着いていくんだよ」

 さわやかな風が金色の花畑にウェーブを作りながら渡っていくのを、オディールは目を細めながら眺めた。

「そうは言っても……。お主は強いなぁ……」

 レヴィアは口をとがらせる。

「レヴィちゃん、信じよう。僕らはきっと上手くいく。これは言霊だよ?」

 陽気な笑顔で、オディールはレヴィアの背を軽妙に叩いた。

「きっと……上手くいく……」

「そうそう。はい、もう一個むいてあげるからどんどん食べて」

 レヴィアは自分に言い聞かせるように静かにうなずく。

「きっと上手くいく……。きっと上手くいく……」

 レヴィアは何度か繰り返すと、オディールにむいてもらった桃を、決意のこもった目でガブリとかじった。

54. 天を突く鎮魂の聖所

 太陽が地平線に傾き始めると、世界はゆっくりと燃えるオレンジ色に包まれた。じりじりとした焦燥感に苛まれながら長い一日が終わっていく。

 何の進展もない状況に皆が待ちくたびれたころ、突如として、大地を揺るがす重低音が、一行の骨の髄まで震わせた。

「な、何だこれは……?」

 大天使は不穏な予感に身を震わせ、冷汗を浮かべる。

 直後、深淵のような闇がチャペルを静かに飲み込んでいった。

 へっ!? 何!?

 あわてて外へと目を向ける一行。

 そこには積乱雲が渦を巻きながら巨大な塔のように天に向かって成長しており、ときおりパリパリと煌めく青い雷光が不穏な美しさを放っていた。

 突如現れた視界を覆いつくす巨大な積乱雲に、一行は不安そうに互いの顔を見合わせる。その十キロはあろうかという巨大積乱雲は、まるで生きているようにゆっくりと回転しながらモコモコと育っていく。

 轟くような風が吹き荒れ、美しき花びらたちはきらめく金粉のように舞い上がった。堂々たるチャペルは、その突風に身を震わせ、ギシギシと古木のようにうめきを上げる。

 ゴロゴロと大地を響かせるすさまじい重低音の雷鳴は、まるで終末の序曲のように恐怖に固まるみんなを更なる絶望へと導いた。

 雷を身にまといながら一行の頭上に迫る積乱雲の姿には、何者かの意志が働いているような気配を感じる。きっとヴェルゼウスだろう。

「はーい、お待たせしました。どうやらおいでになられたようですな。くふふふ……」

 いきなり官吏が戻ってきて空中でくるりと回り、薄暗い影の中で一筋の冷やかな微笑みを見せた。

「あれが……ヴェルゼウス様?」

 オディールは恐る恐る積乱雲を指さす。

「さよう! あれこそがヴェルゼウス様の居城【穹霄の雷塔ボルトブリス・ピーク】、天空の要塞ですぞ!」

「えっ!? 雲の中になんて住めるの?」

 驚きで目を見張りつつ、オディールは小首をかしげた。

「かーーっ! これだから人間は……。雲は身にまとっとるだけだ。中はそれはそれは立派な城なんだぞ?」

 官吏は胸を張って誇らしげな微笑みを浮かべた。

 目を凝らして見てみると、確かにゆったりと回るすじの入った側面の奥には幾何学的な模様がうっすらと透けており、雷光が走ると浮き彫りにされる。あれが窓や出入り口なのかもしれない。

「あのモコモコと湧き上がっているのも建物?」

 オディールが指さすと、官吏はニヤッと笑う。

「ふふっ、聞いて驚け。あそこはなぁ、死者の魂が群れをなし永遠の安息を求める聖域、鎮魂の儀式が行われる聖所さ。ヴェルゼウス様の世界では毎日数千万人の命が途絶える。それは老衰にせよ、突然の災禍にせよ、不慮の事故にせよ、亡くなれば必ずここへと導かれる。ここでヴェルゼウス様の神聖なる儀式を経て、再び命の源泉、生命のエリクシルへと昇華させられるのだよ」

「えっ!? あれみんな死者!?」

 目の前に広がる天を突く積乱雲は、ただの気象現象にあらず。そのモコモコと盛り上がっていくところは、終わりを迎えた魂たちが形作る聖所だった。オディールはその驚異に、心の奥から溢れるため息を抑えきれなかった。死者も、自分の魂がこんなにも壮大な自然の彫刻を作り出すとは思ってもいなかっただろう。

 その時だった。空は突如、激しい光と共に割れるような轟音を放ち、雷が地を裂く。チャペルは閃光に呑まれ、そして世界が震えるような激震が大地を駆け抜けた。

 うわぁ! ひぃぃぃ! キャーー!

 絶大な衝撃がみんなの骨まで突き抜け、身を縮める。

 カツカツカツ。

 やがて訪れた静寂の中、確かな足音が敬虔なチャペルに響いた。

 へっ!?

 オディールが顔を上げると荘重なローブをまとった男たちが、あたかも次元を超えた旅人のように壁をすり抜けながら次々と入ってくる。

 官吏は緊張を帯びた面持ちで、杖を携えた堂々たる男を壇上へと導いた。そのヴェルゼウスと思われる筋骨たくましい男は、尋常でないオーラを放ち、ただ座るだけで周囲を圧倒する。従者たちは、ベージュのローブを着込み、まるで軍隊のように椅子の後ろで直立不動の姿勢で、厳かに並んでいった。

 ヴェルゼウスは金彩の細密な刺繍を配したマジェスティックブルーのローブを力強くはためかせ、その厳しいまなざしで一行を圧倒する。

「お前らか、ヴィーナのところから来たという衆生の者どもは? ん?」

 ついに運命の時が来た。数兆人に及ぶ人々の運命はこれからの交渉にかかっている。

 大天使はすっと前に出てひざまずく。

「はっ、女神ヴィーナに仕える者達でございます。この度はお時間を取っていただき……」

「そういうのはいい。本題を言ってくれ。こっちも忙しいんでな」

 不満を丸出しにヴェルゼウスは頬杖を突き、冷ややかな眼差しで大天使を眺める。彼の眉間に刻まれた小さなしわは、ここに居ること自体が一種の苦痛であることを物語っていた。

「はっ! 失礼しました。この度、女神ヴィーナの統べる世界は不可思議なアンノウンの襲撃を受け数百億人の死者を出し、女神ヴィーナも落命。今は世界を凍結しております。ついてはヴェルゼウス様のお力でアンノウンの討伐と女神ヴィーナの再生をお願いできればと……」

 フン! と鼻で笑うヴェルゼウス。

「ワシに何のメリットがあるのかね? ん?」

 微かに灯っていた希望の炎は無慈悲に吹き消され、一行は過酷な運命の渦中へと叩き込まれた。ヴェルゼウスにとって、ライバルとも言える後輩の自滅は好都合であり、手を貸すべき時ではなかったのだ。

55. 絶望の確執

「メ、メリット……で、ございますか? それは女神ヴィーナ再生後にヴィーナより何らかのお礼を……」

「ふんっ! バカバカしい……」

 冷ややかな薄笑いをたたえたヴェルゼウスは、愚かさに呆れたかのように、ゆっくりと首を振った。

「ヴィーナは自滅した。そしたら奴の世界も全部破棄。それがこの宇宙のルールだ。なぜ俺が再生などやらねばならんのだ?」

 ヴェルゼウスは肩をすくめ、お付きの男たちは不吉な旋律を奏でるようにゲラゲラと笑い声を響かせる。

「我々の世界には数兆人の人がいて、無数の豊かな文化を実現しております。これらの一部の導入でもヴェルゼウス様にはメリットになるかと……」

 必死に弁明する大天使。しかし、これは逆効果だった。

「くだらん!」

 ヴェルゼウスは激高すると杖で床をガン! と突く。

「ヴィーナのところの文化など認めん! 文化であればうちの方がよほど豊かで高尚だ! 実に不愉快だ!」

 ピシャーン!

 まるで天が裂けるかのような轟きとともに、稲妻が猛烈な勢いで落ち、地面がその衝撃に揺れ動く。

 静まり返るチャペル――――。

 くっ……。

 大天使は下唇を噛み、頭を垂れた。

 六十万年の時を超えた偉大な文化と、数兆にも及ぶ命の結晶が、今、滅びの淵に立たされている。スタッフたちは追い詰められて言葉を失い、ただ震えるばかりだった。

 震えるレヴィアの指がオディールの腕に絡みつき、その涙ぐんだ真紅の瞳が切ない訴えを浮かべる。オディールはその潤んだ眼差しを優しく受け止め、手をやさしくなでながらうなずく。

 ふぅと大きく息をついたオディールは凛とした姿勢で立ち上がり、手を上げる。

「あのぉ、ちょっとよろしいでしょうか?」

「なんだ? 小娘」

 ヴェルゼウスがオディールの方を向き、眉をピクッと動かす。その目には荒れ狂う海のような激しい不機嫌さが宿っていた。

「アンノウンはこちらの世界の力を使って動いている形跡があります」

 微笑みをたたえながら淡々と核心を突いたオディールに、大天使は焦りにかられて立ち上がり、彼女の口を塞ごうと手を伸ばした。

「ちょっと! お前それは……」

「邪魔するな!」

 ヴェルゼウスは雷鳴の如く怒声を轟かせて大天使を制止する。

「小娘……。我らの陰謀……とでもいうのか?」

 冷ややかな笑みでオディールに聞く、落ち着いた声の裏には不穏な響きが含まれていた。

「いえ、とんでもないです。ただ、この世界の力を使っている以上、アンノウンもここに来ちゃう可能性があるかなぁって」

「は? この世界もそいつにやられることを心配しとるのか? はははっ! これは傑作だ!」

 ヴェルゼウスは、傲慢さあふれる嗤いを振りまき、従者たちもすぐさまその嘲笑に呼応し、陰湿な合唱のようにゲラゲラと低い笑い声を響かせた。

「女神ヴィーナですら殺されたんですよ? ちゃんとした対策が必……」

 刹那、ヴェルゼウスの杖が石造りの床を打ち砕き、衝撃音がチャペル内に響き渡った。

「おい……小娘……。俺をヴィーナと同列に語るんじゃねーぞ……」

 緊張が刃のように空間を切り裂く中、ヴェルゼウスの目は雷鳴を内包した嵐の前触れのようにオディールを睨みつける。

 その獰猛なまなざしは、ヴィーナと彼の間にただならぬ確執があることを物語っていた。

 オディールは、その激しい視線を避けるかのように、静かに宙を仰ぐ。

「ヴェルゼウス様、彼女はまだ見習のスタッフでして……」

 大天使は必死に取り繕う。

 と、その時、オディールは目の端に黒い影が横切るのに気がついた。

「あ、あいつ……」

 オディールは、満開の金色の花々の中で弾けるように跳ねる影の幼児に目を奪われ、静かな興奮を込めて指を差した。

「いた! いました。あいつですよ。アンノウン」

「何ぃ?」

 ヴェルゼウスは怪訝な表情で指さす先を凝視した。そこには、世にも奇怪な影が踊っている。

 ステータスを呼び出せば、目に映ったのは混沌とした数値群。この世の秩序を乱す禁忌のバグから誕生した怪物だった。

「はっ! あんな奴にヴィーナは殺されたのか? はっはっは! 何と間抜けな最期だよ!」

「お気をつけください。ああ見えて手ごわいので……」

 オディールは恐る恐る声をかける。

「小娘……、バカにすんなよ? あんなのは瞬殺だ!」

 ヴェルゼウスの顔は憤怒で歪んだ。

「も、もし、討ち漏らしがあれば僕たちの方で処理してもいいですよね?」

 オディールは気迫に押しつぶされそうになりながら声を絞り出す。

「勝手にしろ。だが、このワシが討ち漏らすなど万に一つもないのだ! ハッ!」

 ヴェルゼウスの掌からは幻想的なオーラが発せられ、不思議な力の渦がアンノウンへと突き進む。

 直後、アンノウンの周囲が揺れ、空間が海の波のようにうねり出した。続いて渦巻く力が空間を引き裂き、空間そのものがねじれながら渦を巻いていく。アンノウンはその混沌から逃れんと奮闘するが、空間のゆがみは彼を捉え、逃げ道を塞いだ。

56. 狩場のチャペル

 おぉぉぉ……。うわぁ……。

 観る者すべてが、ヴェルゼウスの息を呑むほどの空間操作術に圧倒される。現実を歪めて閉じ込め、全てを粉々に粉砕していくその圧倒的な力の前に、皆畏敬の念を禁じえなかった。

 どんどんねじれる速度は上がり、やがて竜巻のようにして周りを巻き込みながら空高く輝く白い柱となって、天を穿つかのように堂々とそびえ立つ。

「はっはっはー! これで一丁上がり。どうだ? 俺とヴィーナ、どっちが優秀か分かったか? ん?」

 ヴェルゼウスは勝ち誇った微笑みでオディールを見下ろしたが、彼女はただ黙って、じっとヴェルゼウスを見つめ返すだけだった。

 その時、古びたチャペルの石壁が微かに震え、不気味な暗いシルエットが躍るように滑り込んできた。その黒い影は楽しそうにピョコピョコと飛び跳ねながら一行に近づいてくる。

 え? へっ!? な、何だ……?

 驚きのあまり、誰もが凍りついているその時、影は参列席の足元をすり抜けヴェルゼウスの前にまで進んだ。

「逃げて!」

 顔面蒼白のオディールは震える声で叫びながら駆け出す。もはやチャペルはアンノウンの狩場になってしまったのだ。オディールは動揺するレヴィアの手をぐいと引いて、チャペルの裏手へと急いで身を潜めた。

「お、お前……。なぜこんなところに……」

 完璧な攻撃を潜り抜けたという信じがたい光景に、ヴェルゼウスは身動き一つできずに影を見つめた。

 影は楽しそうにニコッと笑うと口を開いた。

Deathデス

 刹那、ヴェルゼウスは紫色の輝きに呑み込まれ、椅子から崩れ落ちていく。

 う、うわぁぁぁ! ヴェルゼウス様ぁぁぁ! ひぃぃぃぃ!

 みんなその恐怖の光景に恐れ慄き、一斉に散り散りに逃げ惑った。しかし逃れることなど叶わず、無情にも彼らもまた紫の輝きに抱かれ、静かに崩れ落ちていった――――。

        ◇

「オ、オディール、どうなったんじゃ? 物音一つしないじゃないかぁ」

 チャペルの裏手でレヴィアは絶望に声を枯らし、オディールにすがった。しかし、オディールは冷たい碧眼でレヴィアを見据えると、唇に指を当て、首を静かに横に振る。

 周囲の静けさが全てを物語っていた。ヴェルゼウスも仲間もすべてアンノウンの手によって命を奪われたのだろう。

 ヴィーナの世界の崩壊を癒すため、苦難を超えてやってきたのに、ここもまた、アンノウンの破滅的な【即死】によって穢され、壊れてしまった。

 砕けた希望の下で、二人は互いの体温を分かち合い、ドクンドクンという高鳴る心音を感じながらアンノウンに見つからないように息を潜める。

     ◇

 太陽が地平線に沈んでいくと、空は魔法をかけられたかのように茜色から深い群青へとゆっくりと染め上げられていく。夜のとばりが静かに地上へと降りてきた。

 オディールは、ドアの隙間からこっそりと室内をうかがう。もしアンノウンに見つかれば即死である。息をのむギリギリの緊張感の中、オディールは慎重に目を慣らす。そして、闇の中に隠された影がないかと、彼女の瞳は薄暗がりを縫うように動いた。

「ま、まだおるか?」

 レヴィアは震える手でオディールの腕をギュッと握り、こらえきれずに聞く。

「んー、もう居ないみたい……だね」

「ふぅ……。良かったぁ……」

 レヴィアは大きく息をついてほっと胸をなでおろす。

 ドアを開けて中に戻ると、そこに広がる光景はまさに地獄の一幕だった。暗がりの中で、たくさんの無念の表情を凍りつかせた身体が、生前の光を一切失った瞳で虚空を凝視している。

 あわわわわ……。ひぃっ!

 二人は立ちすくんでしまう。

 頭では理解していたものの、実際に知り合いが無残な死体となって折り重なっているのを見た瞬間、それは骨の髄まで沁みる恐怖となった。

「マズい、マズいぞ……。どうすればいいんじゃ……」

 レヴィアは絶望の重みに耐えかね、頭を抱えながら崩れ落ちる。

 亡骸なきがらの間を歩き、オディールは死者たちに黙祷を捧げ、彼らの目をやさしく閉じてゆく。

 ヴェルゼウスが横たわっているところまで行くと、オディールはその象徴的な杖へと手を伸ばした。杖の上部には螺旋状の装飾が巧みに施されており、その中心に宿るサファイアは、薄暗がりの中キラキラと煌びやかな輝きを放っている。

 オディールは杖を拾い上げるとブンブンと振りまわし、何かを思いついたようにニヤッと笑った。

「お主、そんなもんどうするんじゃ?」

 レヴィアが不思議そうに聞くと、オディールはウインクをして外へと飛び出していった。

 外には夕焼けがまだその上部を赤く照らしている壮大な積乱雲が渦を巻いている。

 オディールはそこへ向かって杖を振り回した。

「おーい! おーい!」

 すると、宝石の封印が解けるがの如く、サファイヤが閃光を放ちながらシュオォォォという神秘の旋律を奏で始める。

 やがて、大空を支配する積乱雲はその輝きに応えるかのように光の筋をオディールの方に放つ。それは天界への招待状とも言うべき、荘厳なる光のはしごだった。

「お、お主、まさか……」

 レヴィアが驚愕し、目を丸くすると、オディールはいたずらっ子の笑みを浮かべる。

「なんか入れてくれるみたいだよ? 僕らでアンノウンを何とかしよう!」

「いやいや……。えーーっ!?」

 勝手に上位神の居城に乗り込もうとするオディールの大胆不敵さに、レヴィアはあっけにとられ、言葉を失った。

「さぁ、急ごう!」

 レヴィアの手を握りしめると、オディールは彼女を導きながら、まばゆい光のはしごへと歩みを進める。その瞬間、二人はふわりと軽やかに浮かび上がり、まるで天に至るエスカレーターに乗るかのように、彼らは積乱雲の奥深くへと静かに吸い込まれていった。

57. カニとたわむる

 そこは荘厳な大神殿だった。純白の大理石から削り出された、高くそびえる神獣の姿が列を成し、その最奥には、神獣たちを統べるかのように、巨大なヴェルゼウスの彫像が鎮座している。それはまるで神話から抜け出したかのような圧倒的威厳を放っていた。

 彼の周囲に配された彫像たちは、人ならざる野性的な美を備えた生き物の姿をしており、彼らの眼差しや姿勢には、まるで次の瞬間に息を吹き返すかのような緊張感を漂わせている。

 上方には柔らかな雲がいくつも漂い、その間隙から、光の微粒子がまるで天からの祝福のように降り注ぐ。筋を描きながら淡く降り注ぐ光の中で、微粒子が黄金色の煌めきを放ちながら宙を舞う様は、息をのむ美しさだった。官吏が言っていたようにそれらはかつての住人の魂が放つ欠片なのかもしれない。

 また、神殿には淡く甘い柑橘の香りが漂い、息をするだけで身体中が清められていくような穏やかな神聖さで満たされていた。

「おいおい、こんなところまで来ちゃってどうするつもりじゃ? 敵地ど真ん中じゃないか……」

 レヴィアはその圧倒的なアウェイの雰囲気に委縮し、オディールの腕にすがると、その温もりに救いを求めた。

「ははは、レヴィちゃんはドラゴンのくせに肝っ玉が小さいなぁ」

 陽気にくすくすと笑うオディールをジロっとにらむレヴィア。

「あのなぁ、こんな神の国ではドラゴンの力なぞ何の役にも立たんのじゃ! 今はただのか弱い女の子。何かあったら一瞬で消し飛ばされてしまうわ」

「それを言ったら僕もただの女の子だけどね? くふふふ」

 茶目っ気たっぷりの笑顔でオディールは笑う。

 ふんっ!

 レヴィアは忌々しげに視線をそらす。

 その時だった、甘い少女の声が響いた。

「神の杖、テンペスティロッドをお持ちのお方……。どのようなご用向きでしょうか?」

 目を向けた先に、光輝く白い法衣を纏った小さな女の子が浮かんでいた。彼女は、ゆったりと白い翼を羽ばたかせながら二人のところへと降りてくる。穏やかな微笑みをこちらに向けるその純白の姿は、この世界の天使のようで、見る者の心を穏やかにしてくれた。

「あ、ヴェ、ヴェルゼウス様にね? アンノウンの討伐を任せるって言われているんだ」

「さようですか……。少々お待ちください……」

 天使が軽く手を振ると、空中に複雑な図形を描く透明なスクリーンをが浮かび、無数の符号が即座に踊り出る。彼女はそれをタップし、熱心にその上で情報を追った。

 レヴィアはそんな話があったことを言われて思い出したが、あの緊迫した場面でこんな事態を予見して言質を取っていたオディールの如才なさに舌を巻いた。

「ふむふむ……。なるほどですね……」

 天使はヴェルゼウスの啖呵のところの映像を見つめながらうなずいた。

「確認が取れました。どうぞこちらへ……」

 天使がその白銀の指を空中にゆっくりと舞わせると、青い光が浮かび上がって絡み合い、閃光を放ちながらゲートを形成した。

 おぉ! ほぉ……。

 オディールは得意げにレヴィアに一瞥をくれると、心躍らせながら光のゲートをくぐっていった。

       ◇

 ゲートの先は無数の映像が宙に浮かぶプラネタリウムのような空間だった。奥の方には手のひらサイズの人間の3D像が空中にずらりと並んでいて、それぞれちょこちょこと動いている。
 これらの像は、遠い世界に住む実在の人物の現在の様子をそのまま捉えており、それぞれが見る者の目を惹きつける生々しい生命力で満ち溢れていた。

「うわぁ、なんだこれ! 可愛い!」

 オディールの目は、初めて目にするミニチュアの3D映像に釘付けになった。

 そこには市場を駆け抜ける小さな少年の笑顔があり、書斎で深い思索に耽る学者の姿があり、密やかな交易を行う船乗りたちがギリギリの交渉を行っている。この魔法のような場所では、数え切れないワクワクする物語たちがにぎやかに進行していた。

「こちらは要注意人物のモニターに使っております」

「えっ!? 監視装置なの?」

「画面では見えない事も3Dなら良く見えますからね。群衆の中とかでは圧倒的に良いですよ」

 純白の翼をゆったりと波打たせながら光に満ちた天使は、心温まる笑顔でゾッとすることを言う。

「あー、ならアンノウンをここに出してよ」

 オディールは苦笑いをしながら3D像のエリアを指した。

「少々……お待ちください……」

 天使は空中に輝く画面を召喚する。静かに集中すると、彼女の指はスクリーンをなぞり、そのたびに星屑のようなデータが舞い踊った。

 やがて生き生きとした影の幼児が現れる。

 おぉ! こいつか……。

 川遊びに興じ、元気よくカニを追い回している影を、オディールとレヴィアは興味深そうに見つめた。

「これ……、このまま殺しちゃえば全て解決なんじゃないか?」

 レヴィアは憎々しい表情で影をにらみながら、毒を吐くように言い放った。

「どうやって?」

「そりゃ、単純にシステムの死亡処理メソッドを叩けば……」

 オディールは頭を抱えて宙を仰ぐ。

「かーーっ! 分かってない! コイツのデータは滅茶苦茶なんだ。そんなの下手なメソッドにかけたら結果は不定だよ? 死ぬ保証なんてない。死ななかったらどうなるよ?」

「死ななかったら……? 殺され……る?」

 レヴィアは息を呑んで青ざめる。彼女自身即死スキル持ちなのでこの辺は痛いほどわかっていた。

「そう! 下手に手出しすればヴェルゼウスの二の舞。どんな人だって即死だよ」

「そ、そうじゃな……。だったら、どうするんじゃ?」

 二人は見つめ合い、そして腕を組みながら深く思いを巡らせ……ため息を漏らした。全能と謳われたこの世界の神の術さえ通じない、恐るべきアンノウンに対する打開策は容易には浮かばなかった。

58. ピンクの髪を探せ

「うーん、こいつに殺せない人っているのかな?」

「殺せない? そりゃあさらに上位の神なら……」

「上位の神……かぁ。どうしようかな、うーーーーん……」

 オディールは渋い顔をして考えこむ。

「なんじゃ、お主、知っとるのか?」

「えっ!? し、知る訳ないじゃん。あははは。神以外だったら誰?」

「……。神以外なら……。ムーシュかな? 奴の奴隷の女の子。随分仲良しじゃったからな」

「おぉっ! それいいじゃん。彼女に説得してもらおう!」

 歓喜に輝いた表情で、オディールはグッとサムアップして見せた。

「説得……? 影を説得なんてできんのか? それにもう死んでるって聞いたぞ」

「何でもやってみないと! で、どこで死んだって? レヴィアと同じところ?」

「死んだことあまり言わんでくれよ……。サイノンの空間って聞いたから同じじゃろうな」

「よーし、じゃあお姉さん、ムーシュって娘を出して」

「えっ!? 死者……ですか? 死者は出せませんよ。居るとしたらこの上ですね」

 天使は申し訳なさそうにその純白の翼をかすかに震わせながら、上空を示した。つまり、積乱雲のもこもことした内部に漂っているということだった。

「よーし、レヴィちゃん。ムーシュを探しに行くゾ!」

「ちょ、ちょっと待てい! 数千万人も漂っているんじゃぞ? どうやって探すんじゃ?」

「知らないよ。呼んだら応えてくれるんじゃないの?」

「そんな訳あるかい! 相手はもう死んどって意識は朦朧もうろうとしとるんじゃ。呼びかけになんて応えるかい!」

「あー、もー、すぐにそういう否定から入るの良くないよ? いいから僕を乗せてひとっ飛び飛んでよ」

「えっ!? 我が死者の中を飛ぶのか?」

「数兆人の命運がレヴィちゃんの飛翔にかかってる。いいねぇ、盛り上がるねぇ。ドキュメンタリーだったら凄い重厚なBGMかかってるよ? 『その時……レヴィアは……』 くふふふ」

「……。止めんかい!」

 レヴィアは口をとがらせ、楽しそうなオディールをジト目でにらんだ。

          ◇

 ボン!

 神殿で巨大なドラゴンに変身したレヴィア。オディールは鋼のように硬い黒鱗を力強く掴み、その広大な背に跨がった。

「さっきまで小竜だったのに随分育ったねぇ。きゃははは!」

 オディールは楽しそうにレヴィアの漆黒の鱗をパンパン叩いた。

「あの桃が良かったんじゃろう。知らんけど」

 レヴィアは投げ捨てるように言うと、天に向かってその威風堂々たる翼を広げた。

「おぉ、いいねいいね。最初に会った時のことを思い出したよ!」

「思い出さんでええわ。あんときは痛かったんじゃから……。しっかりつかまってろよ!」

「またまた、照れ屋さんなんだから。くふふふ」

 レヴィアは途轍もない力を後ろ足に溜め込むと、地を弾くようにして一気に跳び上がる。直後、その壮大な翼を嵐のように打ち下ろして高度を上げると雲へと突っ込んでいった。

「おわぁ! もっと優しく飛んでよぉ」

 落ちそうになりながら、必死に鱗の突起にしがみつくオディール。

「知らんわい。堕ちるなよ? 死者をこれ以上増やせんぞ」

 レヴィアはほくそ笑みながらさらに高度を上げていく。

 雲を抜けるとそこは眩いばかりの光の世界だった。薄く透ける無数の死者が光を放ちながら漂い、ゆったりとこの世の物語を胸に秘め、次なる転生へと静かなる準備を整えている。

 その中をレヴィアは強引に突っ切って上昇を続けた。

 死者の魂は実体がなく、まるで幽霊のように体をすり抜けていく。次々と死者が自分の身体を通り抜けていく感覚にレヴィアは鳥肌立てて叫んだ。

「あぁ、もうっ! で、ムーシュをどう探すんじゃ?」

「ほら、呼んで呼んで!」

 オディールはまるでゲームのように死者を巧みに避けながら、楽しそうに言う。

「へ? 我が呼ぶんか?」

「人間ののどじゃこんなの届かないよ。おねがーい」

 レヴィアはお気楽なオディールにムッとしながら、深く息を吸い込む。

「ムーシュ! 今すぐ来い! 蒼が大変なんじゃ! 聞こえたら今すぐ来い!」

 その重低音の叫びは遠雷のように遠くまで鳴り響いた。

 しかし、無数の魂がまとわりついてくるばかりでムーシュらしき魂は見えない。

「ほら、もっと叫んで。ムーシュが成仏しちゃったらアンノウンがこの世界も滅ぼしちゃうぞ?」

「あのなぁ……」

 オディールの他人任せな一言に、レヴィアは不機嫌に眉をひそめたが、その怒りを力に変えて再び叫んだ。レヴィアの肩には数兆という無数の人々の運命が懸かっており、その重みに押し潰されそうになりながらも、彼女は止まることなく叫び続けた。

「ムーシュ! 今すぐ来い! 繰り返す! ムーシュ! すぐに来い!」
 
 レヴィアは巨大な積乱雲に叫びを響かせながらどんどんと昇っていく――――。

 しかし、何の反応もないままついに天井にまで到達してしまう。もう数千万人の魂に声は届いているはずだった。

「なぁ、こんなんじゃ見つからんのじゃないか?」

 レヴィアが疲れた体をねじりながら背中を振り返ると、オディールがピンクの髪の奇妙な影と楽しそうに話している。黒い翼を背中に抱くそのシルエットは、まさにその人、ムーシュだった。

59. 小魚の姿

 へ?

 レヴィアが唖然としているのをしり目にオディールは熱く語っている。

「それでさぁ、蒼の奴にガツンと言ってやって欲しいんだよね」

「わかりました。ムーシュは頑張りますよぉ!」

 半透明のムーシュは死んでても元気にガッツポーズを見せる。

 なんと、ムーシュはすでに見つかっていたのだった。

「な、な、な、なんじゃとぉ!」

 あまりのことに声が裏返るレヴィア。

「あぁ、レヴィアお疲れ! ムーシュが説得してくれるってよ」

 オディールはにこやかに手を上げる。

「ちょっと待てい! ムーシュが見つかったらちゃんと教えろよ!」

「えー、言ったよねぇ?」

「言ってましたよぉ」

 レヴィアはあまりの理不尽さにブルブルと震えた。

 声をからして叫んでいたので気がつかなかったということらしい。

「じゃあ、アンノウンまでひとっ飛びよろしく!」

 オディールはにこやかにパンパンと鱗を叩いた。

「そうやって叩けばよかったじゃろ!」

 レヴィアはプリプリと怒るとこれ見よがしに翼をバサバサと激しく打ちながら、一気に積乱雲の薄い皮を突き破って夕暮れの空へと飛び出した。

       ◇

 川べりまでやってくると、影の幼児が薄暗がりの中で遊んでいるのが見えた。

「よし! ムーシュ! 行け! バッチリ決めてこい!」

 オディールはビシッと影を指さし、ムーシュはニコッと楽しそうに笑うとフワフワと影へとむけて降りていった。

 死んだ魂状態のムーシュは形こそ生前そのままのピンク髪の翼を持った姿だったが、向こうが透けて見え、光をぼぅっと纏っている。それはこの世とあの世の境界に浮かぶ灯火のようにも感じられた。

 無防備にも微笑を浮かべながら降りてくるムーシュに、影は混乱した。愛情豊かに暖かく迎え入れてくれるような態度を向けられたことなどなかったのだ。

「主様、ムーシュが来ましたよぉ」

 ムーシュはすうっと降り立つと、にっこりと笑いながら影に向かって温もりを込めた両手をそっと伸ばした。

 ぐっ、ぐっ……。

 影は何か言おうとしているようだが、言葉にならないようだった。

 影のしぐさを見て、ムーシュは確信する。闇に包まれてはいるが、そこには疑う余地なく蒼の輝きがある。サイノンの冷酷な手によって命を落としたあの時以来の再会に、ムーシュの胸は熱くなり、抑えきれぬ涙が湧き上がってきた。

「なんかひどい目に遭いましたねぇ。でも、ムーシュに任せてくれれば全て解決ですよ? さぁ、一緒に帰りましょう。ね?」

 ムーシュは涙をぬぐいながら小首をかしげた。

 影は、身体の奥底から燃えるように湧き上がる未知の感情に翻弄され、混沌の渦中に放り込まれる。

「さぁ、いつものように胸においで……」

 ムーシュはそう言いながら影の手を取ろうとした。

 その刹那、影が突如として身をよじらせ、震えながら飛びのき、苦しそうに頭を抱えてうずくまった。

「主様、怖くないですよ。ムーシュは主様の忠実な奴隷ですからね?」

 ムーシュは優しく声をかけながら一歩影に迫る。

 その時だった。ムーシュをにらんだ影の目が青くギラッと光り、叫んだ。

Deathデス!」

 えっ……?

 ムーシュは紫色の光に包まれ、その場に崩れ落ちる。

 その様子を見た瞬間、影の中に雷が落ちたような激震が走った。

「うっ……。うっ……」

 頭蓋を砕くような苛烈な痛みが襲い掛かり、影は地に崩れ落ちる。

 ぐぁぁぁぁ!

 影の空気を引き裂くような絶叫があたりに響き渡った。

 重大な過ちを犯し、大切な存在を殺してしまった。その強烈な罪悪感が影の中で爆発してアンノウンを管理するシステムが膨大なエラーを吐いて異常動作を起こす。

 あおむけに倒れ、泡を吹く影――――。

 倒れていたムーシュはむくっと立ち上がり、慌ててそんな影を抱き起こすと、キュッと抱きしめる。

「主様、ムーシュはもう死んでるからこれ以上は殺せないのですよ? さぁいつもの主様に戻るのです……」

 ぐ、ぐぉっ……。

 次の瞬間、急に影が縮み始めた。それはサイノンが幼児の蒼を受精卵まで縮めた逆をいくような急速な退行だった。

 赤ちゃんサイズになり、ネズミサイズになり、オタマジャクシのようになり、最後には点になって川べりの石の上でキラリと光を放つ影――――。

 直後、今度は影ではなく、普通の生き物として逆に大きくなり始める。

 シラスのような小魚の姿になったかと思うと、やがて胎児として腕が生え、足が生え、そこから一気に生命の梯子を駆け上がり、赤ちゃんになり、幼児になり、最後には一人前の青年へと成長を遂げたのだった。

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