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音楽のパワー 聴くこと、知ること

 最近、音楽をやっていて疲弊する事が多い。トシのせいだろう。自分が第一線でやり続けられていないからヒマなせいで余計なことを考えているせいだとも思う。

 しかしこのムシャクシャする感情をどこから来たものか考察せずに放置するととんでもなく蓄積しそうなのでツイッターの140文字の世界で終わらせずに、ここに明文化することにした。

 結論から言ってしまえば「音楽を聴かないで音楽を語っている人が多すぎる」につきる。

 私は音楽こそが全てで、その体験にこそ意味があると過信しているせいもあり、彼らが音楽より"高度な遊び" をしているようで、同時に音楽それ自体をバカにしている感じがして腹だたしい。

 たとえば、他人の音楽体験(雑誌のレビューやDJプレイ)を、あたかも自分の体験のように語ったり、パクる事により自分の地位や見栄を演出する人間や、音楽に適当なジャンル名を付けて、なんでもかんでもジャンクフードのように扱う人たちだ。

私の好きなピアニスト/音楽家のWAマシューは、彼の本にこう書いている。

 ぼくの考えでは、音楽は内部からの知的な証明によって明らかになるのだ。逆に音楽はその共鳴作用によってきみの心を照らし出しもする。音楽が音楽になるためには、流れを意識することだけが必要なのだ。ただ聴くことだけが必要なのだ。
(大きな耳,  アラジン・マシュー 井上哲彰訳, 1996, p.61)

 あたりまえだが、音楽は時間芸術であるから、特殊な現代アートをのぞいて、音楽が鳴っているその時間に、人が立ち会う必要がある。
 スピーカーが揺れている事が事実であっても、そこにあなたがいて、あなたが何か感じる事が本当に大事なのであって、電気でスピーカーを揺らす行為自体には何の意味もない。
 針を飛ばして曲を数秒視聴したり、部屋で垂れ流してlast fmなどが再生数をカウントする事は音楽を"聴いた"行為とは言えないだろう。

 音のもたらす連想と感動をひきおこす根本の力は、各自の感じ方によって決定されるのである。その感じる力を、直観とも感受性ともいえよう。しかし、どの言葉もその真髄をあらわすことはできない。それはむしろ生命と称した方がよいかもしれない。(中略) 音響がわれわれの中に入ってきて、われわれの生命と融合する。そこに音楽の内容がわれわれの人生経験と同質のものとるなる。そして、その人間だけの理解と感動とができあがるのである。
(音楽と生きる, 村田武雄, 1969, p.15)

 説教くさい文章を引用してしまったが、音楽に感動できる心を持つことはそれ自体人間的な体験であって、生きた心地がする体験なのかもしれない。

 それは素晴らしい行為ではあるし、本当に大事にしたい事ではあるが、やはり人間はそうもいってはいられない。

 人間は、その言葉が”人の間”と書くように他者がいる事によって、はじめて自分自身を意識できるし、その違いを比べる事なくしてはどういった体験だったのかを改めて認識する事はできないだろう。

 音楽と人との間のピュアな体験はあったとしても、その価値観の違いは言葉を通じてはじめて明確化される。

 ただ、言葉を使う事は便利だが、言葉自体には落とし穴もある。

 言語(ラング)とはいわば言語活動(ランガージュ)の総体からパロール*をマイナスしたものと言っても良い。ラングはひとつの社会制度であり、同時に価値の体系である。(中略)これはランガージュの社会的側面であって、個人は自分ひとりで作り出すことも変更を加えることもできない。ラングは本質的に集団の契約であって、もし人がコミュニケーションを行おうと思えば、全体として認めて従わなければならないものである。さらに、このラングという社会的産物は、それ自体のルールを持ったゲームのように、自律的なものである。すなわち、ある習得期間の後でなければ運用することができない。価値の体系としてみると、ラングはある数の要素で構成されているが、この要素の各々は、ある一定の物の等価物として機能すると同時に、より大きな関係式の一項として働いており、(中略) それぞれの記号は貨幣のようなものである。
(零度のエクリチュール, ロラン・バルト, 渡辺淳 沢村昂一訳1971, p.99)
*パロール : 各個人の持っている言語観や言語使用

 音楽を説明するにあたって、私達は言葉を使わないといけないが、それぞれの言葉自体にはすでに社会的な価値が含まれている。
音楽のマーケットで作られたジャンルなどの言葉ならなおさらだろう。

 例えばディスコについて話をするのに、ツバキハウスの話をするのかパラダイスガラージの話をするのか、モーラム・ディスコの話をするか、はたまたステインアライブか、ハイエナジーかニューディスコかノー・ウェイヴからのディスコパンクかなど、その言葉の持つ背景が大きければ大きいほど、使う言葉によって、他者からこの人はこのへんの人とラベリングされる可能性は高い。

 初めて共通の言葉を話すことで打ち解けることもあるし全く悪い事ではない(それが本来の目的)だろうが、このラベリングや他人との差異化ばかりに快感を覚えている人もいる。私からすればそういうのは本当にバカバカしい。

 これは極端な例だが、「ナイト・テンポ」「WINK」「真夜中のドア」「昭和歌謡」という4つのパスワードみたいなのを唱える事によってそっちの人を演出することはできるだろうが、それは音楽の本質ではない。
ゲームの裏技をインターネットで調べるように、こういった扉を開けるためのキーワードみたいなのは、ウェブや雑誌にいくらでも書いてあるし、WINKの楽曲を聴いたことなくても適当に語る事はできるだろう。
はたして音楽を聴かないでこういった言葉ばかりを集める事になんの意味があるのだろうか。
 おそらく、それで仲間が増えれば、一時的な承認欲求は解消されるだろうが、全く人間の行動としてはテンポラリーなものだろう。たとえば、こういったハイプなものを上澄みだけすくう人は、それ自体が一般化すると興味が別にうつってしまうからである。

 私たちは意識的にせよ無意識的にせよ、誰もが他者との差異をしるしづけようとして、日常の慣習行動の中で、自己卓越化の試みを繰り返している。ただし、卓越性がひとたび誰の手にも入りうるようになってしまったら、つまり他からきわだっていたはずの特性が上昇志向をもった個人や集団によって獲得され、所有化され、通俗化してしまったら、それはたちまちありふれた月並みな特性の位置に転落し、もはや卓越化の手段としては昨日できなくなる。プチブルが正統的文化を所有化するや否や、それは正統的文化である事をやめてしまう
(差異と欲望, 石井洋二郎, 1993, p.237)

 おそらく、今、シティ・ポップ、和モノ、ライトメロウなんかがこの状況にあるのではないだろうか。かつては一部の人間がリサイクルショップから鳥山雄二や林哲司など、プロデューサーの名前などを頼りにしないと買えなかったような物が、今やYouTubeを検索すれば2秒でわかってしまったり、レコード屋に行けばいつでも手にはいる。こうなってくると本当に知識があってディグをしていた人で手元に音源がそろっている人や、そういった音楽を本当に愛していた、続ける熱意がある人以外は、差異化を図りづらい。

 コミュニティの絆がしだいに浸食されて脆弱になり、集団をまとめ上げていた集合体が最終的に機能しなくなたっために、個々の成員が自己規定や自己主張、自己配慮の負担を引き受けることになる。言い換えると、すべてを自分自身の資源や能力や勤勉さに頼らなければならない。(中略)基本的に、他の売り手ことをゼロサムゲームにおける実際の、あるいは仮想の競争相手とみなさざるを得ない。というのも、隣人や仕事仲間や通行人など周囲の人々も同じゲームに参加することになり、無意識のうちにお互いを悪意をもった競争相手とみなし、そうでないことが証明されるまでは、そうみなすことになるからである。
(自分とは違った人たちとどう向き合うか, ジグムンド・バウマン, 伊藤茂訳 2017, p.110)

 これはある意味レトリックであるが、例えば地球が丸いと証明されなければ、地球は平の可能性があると言い続けるフラットアース信者と同じで、そんなものは無いと言われなければ”ある”と言いきれてしまうのが最近のインターネットのはやりだけれど、勤勉でない人が作る新しいジャンルもわりとこういった風潮が強い。
 それはChee Shimizuさん以降に通俗化されてしまったあとの『オブスキュア』の定義であったり、『ジャスコテック』のようなものもそうだが、一概に、本来あるものを見ない事にして、面白がる儀式のようなものだ 

 ある音楽をオブスキュア(不明瞭)なものとして扱う時、それが本来、一部の国では代表的に有名なものであっても、その消費者達の間で知られていなければもうそれはオブスキュアたりえてしまう。このふり幅がすごい。

 また、ジャズコテックとは本来ジャスコでかかっていそうなフュージョンを定義する言葉のはずだが、ジャズへの理解や機材への理解もなければ、いかにそのプレイヤーがヴィルトゥオーソであり、素晴らしいプレイをしていても、それを評価しなければジャスコと言えてしまうのである。

 結局のところそういったものは言葉上のゲームをしているにすぎず、インターネットで拡張した大学のサークルのような物なので、音楽そのものではないだろう。

 一方でそのような扱いはある意味で音楽を冒涜しているようで、私はあまり好きではない。

 芸術を生むような労働は自発的な物であって、一つには労働それ自体のために、一つはそれを用いる人に快楽を与えるような、あるものを生み出そうとして、行われるのだ。(中略)この直接的な感覚的な快楽は、巧みに仕事をしている巧妙な労働者の手工のうちに常に存在しているというようなこと、その仕事の自由と個性とが増せば増すほど快楽も増大するというようなこと、そういうことを非芸術的な人々に説明するのは困難であろう。
(民衆の芸術, ウィリアム・モリス, 中橋一夫訳 1953, p.45)

 私達がコンビニで買うチキンはもともと生きていた鶏であったり、誰かが生んで、誰かが殺して、誰かが調理したからその姿になっているように、音楽だって土からレコードの姿のまま自動的に生えてきたわけではない。
5分の曲を作るために、2時間かけたかもしれないし人によっては何年もついやして作った1曲だったりする。私達が1曲から得られる快楽やパワーというのは、その裏にはアーティストの苦悩がありアーティストの人生や体験などから紡ぎ出された結晶だろう。

 もちろん、工業的に生産された音楽はある。もとはと言えば、ライブラリー音楽、エレベーターミュージックのようなものがレアグルーヴやニューエイジなどの切り口で、鑑賞の対象になったのがはじまりのハズだ。

 それが今では、もともと鑑賞たりうる作品として制作されたものを、ジャンクフードのように消費してしまっているのではないだろうか。

 私のような買い物癖があり、あまたの音楽を無造作に買っている人間が言うには説得力がないと思うが、この大量消費社会の中で、私達はもっと音楽を聴くこと、その音楽について知ることを大事にしたほうがいいんじゃないかと思う。


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