優先席の葛藤

 交通機関の優先席での振る舞い方が難しいお年頃である。

 正直しんどいので、空いていれば座ることに躊躇いはない。車内を見渡しても、自分より年上と思しき人が見当たらないことも多くなった。だが、腰を下ろした後で、明らかに自分より年配の方がそのエリアに現れることもある。

 先日も夫婦で座っていたら、そういう状況になった。キャリーケースをまごまごと転がしながら、老婦人が乗車してきたのだ。

 「誰が譲るか問題」の勃発である。

 両岸の優先席を埋めている8人のうち、4人は明らかに20代〜30代の女性だった。常識的に考えたら、そこで真っ先に立つべきは私ではないだろう。なにしろ私はそこに躊躇なく座る男だ。だが、誰も立とうとはしない。ずっと手元のスマホに視線を落としている。

 もちろん、彼女たちがみんな「見えない障害」とかを抱えている可能性もないわけではない。妊娠していないともかぎらないだろう。ならば自分が…とも思ったが、その数日前にもちょっとややこしいケースがあったので、私は躊躇ってしまった。

 その日は、やはり夫婦で優先席に座っていたところに、杖をついた老婦人が乗車してきたのだが、向かい側の優先席には3人しか座っていない。ベビーカーを前に置いた子連れの夫婦と、膝の上に赤ん坊を抱いた男性だ。どちらも子がいるせいで、空いているひとり分のスペースがやや狭い。

 そのため老婦人は、そこに座るのを躊躇った。彼女は小柄なのでちょっと詰めれば座れそうだが、そうはしない。それを見て、赤ん坊を抱っこした男性が少し腰を浮かせて譲ろうとする。しかし老婦人が頑なに断るので、男性は諦めた。まあ、赤ん坊を抱っこしたまま立っているのも、それはそれで危ないだろう。

 しかしさすがに杖をついた老人を立たせておくわけにはいかない。私は立ち上がって「あの、どうぞこちらに」と言った。ものすごーく遠慮された。お互いに「いやいや」「いやいや」などとモゴモゴしたやり取りを何度かして、半ば無理やりに座っていただいた。立ってからはあまりそちらを見ないようにしていたが、老婦人は申し訳なさそうにずっと下を向いていたような気がする。

 そのとき思ったのは、私のほうも「この人に席を譲らせるのは心苦しい」と思われるような年格好なのかもしれない、ということだ。だとしたら、譲らずに座っていたほうがいいのか。どうなんだそのへんは。

 …という経験をした数日後だったので、キャリーケースの女性を前にした私はすぐに立てなかった。「おれなのか? このメンバーの中で誰よりもおれが譲るべきなのか? そうなのか?」「このメンバーの中でおれが譲ろうとしたら、老婦人は困惑するのではないか?」などと考えているうちに、いまさら立つのは不自然なタイミングになってしまったのである。

 だが、やはり、いたたまれない。しんどいから座っていたいけれど、何か間違ったことをしている気がする。でも、そのタイミングで「どうぞお座りください」と声をかけるのはものすごくおかしい。「おまえは今の今までどうすべきか悩んでいたのかよ」と思われてしまう(実際そうなんだけど)。しかもそんな間抜けなタイミングで譲ろうとして断られたら惨めだ。

 その場から逃げ出したくなった私は、スマホのメモアプリに「次の駅で隣の車両に移る」と書き込んで隣の妻に見せた。「降りたフリして席を譲っちゃおう大作戦!」の発動である。自分だけ移動するつもりだったが、次の駅で降りたら妻もついてきた。隣の車両に移って、遠くから老婦人の様子を探る。

 同じ場所に立っていた。座る気なかったんかーい。

 還暦前後の年代は、優先席で余計なことを考えず、ただ悠然と座っていればよいのかもしれない。だって、しんどいんだから。

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