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濱口竜介『PASSION』

2008年発表。東京藝大映像研究科修了作品の長篇 。

結婚を控えたカップル(智也と果歩)を中心として、同世代の男女六人の恋愛感情のもつれを描いた群像劇。実質的なデビュー作でありながら、今後の濱口作品の主題(暴力と愛情の境界,「私ではないあなたを私はいかに理解しうるか」という問い)が提示されている。人間はどこまで他者と接近しうるのか、人を愛する/人に愛されるということはある意味で暴力ではないのか。それらの問いへの答えを模索するように、六人の男女は接近と離反を繰り返す。

静止していた6人の運動の契機となるのは智也と果歩の結婚報告である。結婚を控えつつも女性にだらしがない智也、密かに果歩に想いを寄せていた健一郎、円満な夫婦生活を送りながらも偶然出会った友人の叔母に惹かれる毅。こうした人物がこれまでの人間関係を破壊し、再構築しようとする様が丹念に描かれる。雨の降るベランダで男女がタバコに火をつける。互いを探るような言葉の往復には、一本の傘を互いに渡し合うという運動が伴う。立ち行かなくなった互いの関係への蟠りを真実を述べることによって清算しようとする場では、真実の泉から汲んだ水(実際はただのヴォルビックだが)を飲み交わす。違う女に心を惹かれながら、妊娠した妻のお腹に耳を寄せる。彼らは互いの心を、心許ない言葉と運動によって通い合わせようとする。

人物が接近を試行する反面、他者(と他者が為す暴力)に対する洞察が掘り下げられることで他者の理解不可能性も示される。自身が担任する生徒の自殺をきっかけに果歩が生徒たちと「暴力」についての意見を交わす場面は、異様な静けさを伴った衝撃を観客に与える。「真の意味で他者の暴力を赦すということは、自分が殺されるのを黙って受け入れることと同義である」といった発言をする果歩であったが、一人の生徒の発言からクラスのほとんどの人間が自殺した生徒に〈暴力〉を振るっていたという事実を突きつけられる。果歩の示した理論は、自分に対して行使される暴力に対する説明にはなっているが、他者が他者に振るう暴力(とそれに対して赦しを与えるのは誰か?という問い)を明らかにするものではなく、果歩は教室を後にするしかない。濱口監督の〈暴力〉に対する洞察の続きは、『親密さ』の劇中詩を待つことになる。

自身が他者に押し付けていた虚像が消え去り、知っているはずの人物から未知の何かが立ち上がる。そういった背筋を冷水が伝うような場面を、濱口竜介の映画は必ず用意している。失った他者との繋がりを回復すること、言い換えれば新たに他者と「出会い直す」ため、濱口作品の登場人物は互いの対話の中にルールを持ち込む(本作における真実の泉ゲーム、『親密さ』における30分間のインタビューなど。こうした他者の未知なるアスペクトを露見させる手法は『ハッピーアワー』においては役作りのための方法としても用いられるようになる。)実質的なデビュー作である『PASSION』においては、以降の濱口作品にみられる「人物や対象物を真正面から捉えるショット」が用いられていない。一観客に過ぎなかった自分がいつの間にか映画に参入してしまっているという経験、他者が異なる何かに変貌していく様を自分自身が目の当たりにするという経験は、『親密さ』以降の作品群によって完成されていく。

人と人は分り合うことができない。他者とぶつかり合うほどに、自分自身のことですら不可解で不気味な存在に思えてしまう。そうした葛藤を抱える中で、本作は健一郎と果歩を捉えたロングショットを迎える。煙突から出る煙を映すカメラが緩やかに右にパンしていく。夜明けの埠頭を歩く二人が、カメラに接近してくる様子が見える。長年抱えてきた想いを伝えた健一郎は、果歩に口づけをする。ずっと煮え切らなかった自分から脱却した喜びから、周囲を叫びながらぐるりと走り回った後、再度健一郎はキスをしようとするが、果歩は健一郎の身をそっと突き放す。それと同時に、奥から来ていたトラックが画面右から左を横切る。単を好きにならずにはいられない人間の残酷さや弱さをそっと抱きしめるような崇高さは筆舌に尽くし難い。

「誰かを好きにならない人生なんて、虚しいだけでしょう?」

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