火の顔/アンティゴネを観劇して

はじめに

 「ぼくらのサバイバルウォーズ」で一目惚れをしてからというもの、2022年のサマパラ、バンクパック、幻奏のフイルム、2023年のスプパラ等、複数の現場を通して、私は川﨑星輝くんという存在にすっかり沼ってしまった。ここに、一生に一回の初主演のレポートを記録する。

 ネタバレの宝庫ですので、こんなタイミングで投稿します。

火の顔

 “ぴったりと敷き詰める“ ことに対して、クルトは執着をもっている。この敷き詰めるという表現は母の胎内や家族という水槽の中に閉じこもっているクルトそのものであり、小さく灯った火でもある。火は密閉された空間では燃え続けることができない。そのまま消えていくだけだ。そんなマッチの先の弱々しい火のように、どこか危うく、頼りなさすら感じるクルトの姿から「火の顔」は始まった。しかし、姉の恋人という存在がクルトの閉じ切った世界に風穴をあける。小さく灯った火が風によって酸素を含んで炎へと変わっていくように、姉の恋人という外の世界の風に触れ、クルトの内からこれまで知り得なかった嫉妬や羨望が湧き出したことで、小さな灯が炎へと変わっていく。
 劇中では、どこか弱々しかったクルトの視線がどんどんと自信に満ち溢れていくのがわかる。その姿を見て、私は幼い頃の自分を想像した。幼少期の私は自己を特別な存在として過信していたし、体から溢れ出るエネルギーをコントロールすることもなく、そして、それが許されていた。きっと誰しもが幼い頃までは自分自身を唯一の個であると信じていて、自ら風を起こして炎として燃えることができていただろう。しかし、大半の人間は社会経験を通して常識という概念を知り、慣習に従って自らを制御し、個を捨て、身を置く集団の中の一部となる。言い換えれば、私たちは人生のどこかで、他者からの評価や期待に応えるために自らの魅せ方を知り、自らの意思や感情を無意識に押し殺すのだと思う。他者との円滑な対人関係を構築する上で自らの意思や感情を制御することは必要不可欠だが、そうして私たちは大人になると同時に、自ら風を起こして炎として燃えることができなくなっていくようにも思う。だからこそ、大人の私たちが炎として燃え続けるには、外の世界の風が必要なのだ。

 劇中でクルトが母親に甘える場面がある。ベッドの上で母に甘えるその姿に、思わず劇とは関係のない私のオタクの炎が燃え上がってしまったが、その普段の反抗的な態度とは正反対に、可愛らしく甘えるクルトの姿は、まさに子どもから大人への変貌だった。個を捨て、家族という集団に溶け込んでいくようなその瞬間が、私は、クルトが踏み出した大人への一歩だったのではないかと感じる。上着を着て、靴を履き、鞄を持つクルトの表情はいつの間にか子どもから、すっかりと大人になっていく。そんな劇中のクルトはとても落ち着いた様子で、どこか冷めた目で、周囲や自身を客観視している。もしかしたら、大人になってしまったクルトは、自らの力でもう燃えることができないことに、気づいていたのではないだろうか。だからこそ、放火を繰り返すことで自らに火をくべようとしていたのかもしれない。子どものように、密封された世界の中でも自らを燃やして生き続けていたいというクルトの願望とは裏腹に、大人になってしまったクルトは外の世界の風を受け入れない限りもう燃えることができなくなっている。それにもかかわらず、クルトは外の世界を拒絶し、元の密封された世界へ引きこもってしまう。外の世界の風を拒否したクルトには、炎となる術はもうない。

 両親を殺し、愛したはずの姉をも拒絶し、閉ざされた空間を恐怖で支配するクルトの姿はまるでアドルフ・ヒトラーのような独裁者だ。自信に満ち溢れていたはずのクルトの目は次第にかげり、まるで何かに恐怖しているかのような態度に戻ってしまう。この、劇中のクルトの変化が視線や指先ひとつひとつに素晴らしく表現されていた。自ら炎を燃やす「子どもでいたい」という思いを諦めてしまうのはきっと簡単だ、強情な信念を捨てて、ひとたび目を瞑ってしまえば当たり前のように人間は、何かを失って大人になる。しかし、クルトは子どもであることを諦めない。そのために外の世界を拒絶し、排他し、自ら孤立していく様がとても切ない。歴史の中で悪と呼ばるような独裁者たちも、こんな風に、最期の瞬間には孤独を感じていたのだろうか。

 クルトが自身にガソリンを撒いて自死する場面では、外の世界の風を拒絶し、大人になることを放棄した表情が、とても綺麗で、美しいとすら思ってしまった。私はここで泣いた。18歳の川﨑星輝という演者は、舞台の上ですら、刻一刻と大人へ近づいている。そんな18歳の川﨑星輝だからこそ、こんなにも刹那的で儚いクルトを演じられたのだと思う。吉祥寺シアターの舞台上で、私の目の前で、クルトは確かに生き、その命の炎を燃やしていた。

アンティゴネ

 独裁者であるテーバイの王クレオンは自身が掲げる正義を守りたいがために、それ以外の正義を認めず、逆らう者を制圧し、最後には孤立してしまう。一方、アンティゴネも、人間が人間であるために社会の規律に背き、自身が信じる正義を守るためであれば躊躇いなく死を受け入れてしまう。私は、クレオンとアンティゴネは似ていると感じた。クレオンとアンティゴネは対立関係として書かれてはいるものの、頑迷、過度、他を顧みないともいえるその異常な正義感で、命を簡単に捨ててしまうような選択ができる人間であるからだ。2人の違いは、犠牲となる命が、他人のものか、自分のものか、たったそれだけである。自らが信じる正義で善悪の基準をつけ、他人を定義し、その規律から外れたものとの共存を拒否し、異端として認めない。そんな独裁者の資質が彼、彼女にはある。しかし、そんな極端な生き方ができるのはごく一部の人間であり、生きている人間の大半が、才覚と大胆さを持ち合わせるクレオンやアンティゴネのような人材を、ただ担ぎ上げるだけの傍観者である。担ぎ上げられた当初のクレオンやアンティゴネは、きっと独裁者ではなく、ただのリーダーだった。しかし、傍観者の無責任な追従こそが、リーダーを独裁者にたらしめるのだと思う。クレオンが、親衛隊将校や愛人、民衆から支持され、戦争で勝ち続けなければならなくなったように。アンティゴネが、本来埋葬に加担していないはずの妹イスメネから最終的に共犯者であると背中を押されたように。そうして傍観者から担ぎ上げられた彼らは、後に引けなくなり、独裁者として過度に自らの正義を主張し、そして破滅してしまったのではないか。傍観者は無責任であり、自らの正義や共存について考えることすら放棄している。その証拠に、親衛隊将校や愛人、妹のイスメネは自身の主張をコロコロと変え、簡単に手のひらを翻すことができる。そして劇中、吉祥寺シアターに座る観客も同様に傍観者だ。私たちこそが、目の前で、クレオンとアンティゴネを独裁者にしたのだ。

 本劇では、叙事的演劇の異化効果により傍観者である観客にも“考える”チャンスが与えられる。観客にむけた大浦千佳さんの演技、眼差しが凄かった。そして観客が“考える”ことで傍観者から脱却する機会を得る。しかし、私はその機会を無駄にする。クレオンとアンティゴネの問いかけに、私自身の芯のある答えはなく、声も出せず、ただただ目を逸らしたくなる気持ちにすらなってしまうのだ(舞台だから…とは勿論思うのだけれど、舞台ではなく会社や街であっても私は同じように傍観していただろう)。
 現代に置き換えたリアリティのある演出は、自分自身がこの世界に確かに生きており、傍観者で居続けてはならないということを強く感じさせてくれた。アンティゴネの華奢で小さな身体には、未婚であることを嘆く弱さと、自身の正義を貫く強さが対立しているが、どちらも確かに、同じひとりの人間アンティゴネである。そんな自身の矛盾に張り裂けそうなアンティゴネと婚約し、愛しているはずのハイモンは劇中でのアンティゴネとの 接点がほとんどない。アンティゴネは常に自身の正義を見つめており、ハイモンの視線や苦悩にはまったく気づかない。そしてハイモンの愛は、世界を閉ざして死んでしまったアンティゴネに最後まで届かない。柔らかで優しい外の世界の風であったはずのハイモンすら、アンティゴネは拒絶した。そして、そんなアンティゴネを追って、ハイモンも自死する。

 私は、川﨑星輝が演じるハイモンの、どこか優しく、誠実で、真っ直ぐなアンティゴをみつめる表情が私はとても好きだった。アンティゴネよりも幸せにするから、私と結婚してほしい。

2作品を通して

 人間であれば、誰しもが自分なりの“正しさ”を心の奥に秘めているはずだ。ただし、“正しさ”は一つだけとは限らない。そして、その“正しさ”は周囲から見ても同様に正しいとは限らないだろう。しかし、そんなときにこそ、自らで基準をつけ、その基準から外れたものとの共存を拒否してはならない。なぜなら、自分が信じる正義と異なる正義こそが、外の世界の風だからだ。火は風がなければ燃えることができない。もしも外の世界の風を拒絶すれば、私たちもクルトやアンティゴネ、クレオンのように独裁者に成り果てるという結末を迎えてしまうかもしれない。

 「火の顔」では、家庭という密閉された世界に閉じこもっていたクルトが、大人になることを拒絶した結果、孤立して自死する。「アンティゴネ」では、アンティゴネとテーバイの王クレオンが互いの正義を拒絶した結果、両者ともに孤立し、破滅する。彼らがもし外の世界の風を受けて飛び立てていれば、物語の結末は違ったかもしれないが、彼らが外の世界の風を受け入れることはない。なぜなら、その過度ともいえる正しさは、傍観者により無責任に支持されてしまっているからだ。

 「火の顔」では姉オルガが、最初あれだけクルトを気味悪がっていたにも関わらず、自身の精神の不安定さから突如クルトに依存し、そして最後はクルトに罪を押し付けて突き放してしまう。「アンティゴネ」では、クレオンに従順だったはずの親衛隊将校や愛人が、戦争に負けたことでクレオンの過去の判断を責め立て、最後には捨て去ってしまう。一度は支持し、そして簡単に手のひらを翻すのだ。しかし、私も含め、きっと大半の人間が選んできた生き方だとも思う。そんな私たち傍観者の無責任な奉仕のせいで、クルト、アンティゴネ、クレオンは自らの “正しさ”を守ることがどんな犠牲よりも重要になってしまう。そして、自らの“正しさ”を信じることでしか自分を守れなくなってしまったのだと思う。だからこそ、外の世界の風である他者を拒絶し、恐怖し、排斥し、そして、独裁者となってしまった。だからこそ、彼らは孤独になってしまった。彼らを孤独にし、独裁者にたらしめ、そして殺したのは他でもない私たちだったのだ。

 明日の生死も食事も何も心配せず生きている私のような人間もいれば、世界のどこかで命を落としている人間もいる。自分の心、家庭、会社、国。たったひとつの空間という世界のなかで、それぞれの“正しさ”を守りながら共存していくことは難しい。しかし、ひとたび共存を拒絶してしまっては、外の世界の風が吹き入ることはなくなり、最後には独裁者を自らの手で作り上げてしまうかもしれない。自ら湧き出る感情や隣にいる友人、仕事仲間、家族が、いつか外の世界の風として私の心に吹き入ったとき、自らとの違いは時に許し難く感じることもあるかもしれないが、そんなとき、私はきっとこの舞台を思い出すだろう。

 「川﨑星輝」というアイドル、そして演者は、物凄いスピードで心身ともに成長し、そして大人になっているように思う。あどけない表情も、どこか達観したようにみせる視線も、そのひとつひとつを大切に見守っていきたい。貴方にとっての “外の世界の風” が、背中を押してくれる優しい風でありますように。そして、いつだってたくさんの笑顔と幸せで溢れますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?