「九龍東インド公司小史」

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■「九龍東インド公司小史」 


 よく知られているように、現代を代表する大コングロマリット、九龍有限公司の母体となった組織は16世紀末に成立した九龍東インド公司である。
 九龍東インド公司(以下、九龍)は、多数の〈武装仙人〉からなる私設軍隊を組織し、マラッカ諸島からホルムズ海峡へ至るまでの広い範囲を武力によって実行支配することで、多くの植民地を築いた。
 こうして、17世紀半ばには強大な権力を握った九龍であるが、この公司の興隆と衰退の歴史的な経緯について論じた先行研究は驚くほど少ない。本稿では、大航海時代からの大陸の海上政策とともに公司の変遷を追い、謎の多い九龍の歴史を明らかにする足掛かりとしたい。

○大陸と「大航海時代」

 九龍の歴史を追うには、まずは15世紀の状況を概観する必要があるだろう。大陸の明帝国は、当初は民間人が外海へ出ることを禁じる「海禁」政策をとった *1。しかし、1405年に永楽帝 *2の命を受けた鄭和 *3が東南アジアからアフリカ、そして新大陸へ至るまでの大遠征を行い、これが大成功を収めたことによって、「海上貿易は帝国に莫大な富をもたらす」という認識が生まれ、「海禁令」は解かれた。これを機に、多くの民間人が商売のため、海へと繰り出すことになる *4。
 世に言う「大航海時代」の始まりである。

 この時代、とくに活躍したのは〈武装仙人〉たちである。外海は危険が多く、15世紀半ば頃まで、マラッカ海峡以西へ進出した商船が、無事に大陸に戻る可能性は約65パーセント。乗組員の生存率は50パーセントを切っていたとされる。そこで、商人たちは安全に航海を行うため、仙人たちと協力関係を築くことになった。
 仙人たちは戦闘力に優れ、錬丹術によって海上でも疫病を治癒することができるため、遠海に進出するにあたって無くてはならない存在となったのである *5。こうして海上へ出た仙人たちは、商船を現地民から守るために銃火器で武装していたことから、〈武装仙人〉と呼びならわされている *6。

○「九龍東インド公司」の勃興

 15後半から16世紀初頭にかけ、商人と武装仙人たちは、各地に貿易のための組合を盛んにつくるようになる。その勢力は、貿易の便が良かった杭州および広州に自然と集中するようになった。なかでも広州には、16世紀半ばの時点で50以上の組合が存在した。この広州の諸組合の組織改編・統廃合が行われた結果、1598年に九龍東インド公司(九龍東印度公司)が発足する *7。
 九龍は、400隻超の武装商船、約1100人の武装仙人を抱えており、明帝国中枢にも強い影響力を持っていた。公司のトップである13人の「董事(取締役)」から成る「十三人会」や、各船の船長となった「経理(執行役員)」には、条約締結権や植民地の経営権などの特権が与えられており、九龍は単なる貿易に留まらず、東南アジアやインド亜大陸の各地を武力で制圧し、広大な植民地を築き上げた。
 ところで、この時代の九龍東インド公司が武装仙人や傭兵から成る強力な私設軍隊を持っていたことから、現代の九龍有限公司にも私設軍隊が存在するのではないかという風説が流れることが往々にしてあるが、これは根も葉もない噂に過ぎないだろう。九龍は1842年の南京条約によって武装解除され、完全にその戦闘能力を失っている。

○衰退の九龍

 九龍東インド公司の最盛期は、清朝から莫大な出資を受けた18世紀初頭だろう *8。この頃、九龍はインドのムガル帝国の沿岸部ほぼ全域を植民地とし、莫大な利益を上げていた。しかし、この覇権が崩されたのは1757年の「プラッシーの戦い」である。これは、インド東部のベンガル地方、プラッシー村において英仏連合軍と九龍軍が衝突した戦争である。異例の軍事力を持っていた九龍であったが、両国の連合艦隊の前には多勢に無勢であり、大敗を喫することとなる。これ以降、インド亜大陸の覇権は清および九龍から、イギリス・フランスへ移ることとなる。
 植民地が縮小され、その勢力を失った18世紀後半の九龍を、さらに弱体化させたと言われているのが第8代董事長の和珅(ヘシェン) *9である。ヘシェンは歴代皇帝の寵臣として出世を重ね、プラッシーの戦いの責任を取って前董事長が辞任した直後、1757年に九龍東インド公司の董事長となった。
董事長に就任した時点で齢百を超えていたと言われるヘシェンは、伝説的な人物と言っていい。まず、ヘシェンはほとんど眠ることが無かったと伝えられている。それに対して食欲は非常に旺盛で、一日のほとんどの時間を食事に費やしていた。清朝皇帝に謁見する際にも食べることを止めなかったという逸話まで残されている。また一人で一騎当千の力を持ち、生涯に素手で倒した虎の数は135頭と記録されている。
 このヘシェンは九龍に圧政を敷き、九龍の私設軍を私的に利用し、多額の賄賂を蓄えていた。当然、公司内の士気は下がり、多数の武装仙人が離脱する事態となった。財政的にも困窮し、東南アジアの多くの植民地を手放さざるを得ない状況へと陥ることとなる。もはや18世紀末の九龍に、イギリス東インド会社や、新興アメリカ勢力に伍する力は残されていなかった。
 このヘシェン体制は1799年に軍事クーデターによって打倒されるが、時すでに遅しであった。ホルムズ海峡からマラッカ海峡に至るまでの広大な植民地帝国を築き上げた九龍東インド公司の姿は見る影もなく、衰退の一途を辿るばかりである。ついには1840年のアヘン戦争での敗北を機に全面的武装解除を強いられ、九龍東インド公司は事実上解体された。

 九龍東インド公司は20世紀初頭に九龍有限公司として劇的な復活を遂げるわけであるが、この空白の半世紀あまりについての史料はほとんど見つかっていない。19世紀半ばから20世紀半ばの九龍の歴史、さらにその先の九龍有限公司の歴史についてはさらなる研究が必要であろう。賢明なる読者諸氏の批判を待つ。


■クソ長脚注

1:明は「寸板も下海を許さず」と言われた「海禁」政策をとったが、これで禁止されたのは民間の海運であり、各地へ朝貢をうながす朝貢貿易は行われた。鄭和による大遠征成功を機に「海禁令」は解かれた理由には諸説あるが、最近では永楽帝が中華思想による朝貢に拘泥せず、関税などによる貿易の利益を、領土拡大のための軍資金へ回したかったためとする説が主流である。

2:永楽帝(1360-1424):明朝第3代皇帝。専制の強化と、積極的な領土拡大によって、明の全盛期をもたらした。

3:鄭和(1371-1431):明代の武将・航海家・外交官。イスラーム系宦官。

4: とはいえ、15世紀には帝国から許可を得た、限られた商人・仙人しか貿易を行うことができなかった。この制限が徐々に解かれるようになったのは、いわゆる「北虜南倭」によって民が財政的危機に陥った16世紀半ば頃からである。とくに「南倭」、すなわち日本の倭寇に対抗するため、宣徳帝は武装した商船の日本海進出を奨励したと言われる。

5:仙人たちが外海へ出た主目的は、金銭ではなく道教上の教義のためであったと言われている。五経の一つ『礼記』大学篇には「致知在格物、物格而知至」とあるが、これは明代には広く次のように解釈された。すなわち、世界中のあらゆる物(格物)の真理を一つ一つ窮めていくことによって、あらゆる真理が形而上学的に一挙に俯瞰できる「脱然貫通」に至りうる、という解釈である。この「格物致知」による「脱然貫通」には、大陸だけではないあらゆる世界の事物の真理に触れることが重要だとされ、仙人たちが新大陸などに進出する一つの契機となったのである。

6:ただし、この時代において武装仙人たちは無敵ではなかった。彼らが手出しをできなかったほぼ唯一の国、それが日本である。当時の日本海には倭寇と呼ばれる海賊が幅を利かせていた。室町幕府や戦国大名たちはこの倭寇たちを雇い、ある程度の私掠行為を許容する代わりに仙人たちの侵略から領土を守らせたと言う。倭寇たちは、その武力もさることながら、劣勢になるとセップクと呼ばれる集団自殺行為を行うことで知られている。このセップクは大陸の仙人たちを震え上がらせ、今でも大陸人のトラウマになっている。この日本独特の風習が、日本列島を侵略することができなかった理由の一つになったのではないかとする研究も存在する。

7:これは1600年のイギリス東インド会社設立、および1602年のオランダ東インド会社設立に先立つ。九龍東インド公司は世界初の株式会社とされ、現代の株式会社の原型はほとんどこの九龍が形づくったと言っても過言ではない。現代に残る制度としては、株式の発行、董事(取締役)と経理(執行役)の分離、経理を監視する監事の設置(監査制度)などがある。

8:1661年に清朝の康熙帝が即位すると、康熙帝は九龍とほぼ対等な条約を締結。加えて公司に多額の出資を行った。この条約の締結以降、九龍の董事長(社長)は、清朝皇帝から欽差大臣として任命され、その後董事長に就任する形式となった。

9:和珅(ヘシェン)(?-1799):清朝の政治家、九龍東インド公司第8代董事長。類まれなる権謀術数によって董事長にまで上り詰めた。私腹を肥やし、公司を腐敗されたとされる。


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