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「非常にはっきりとわからない展」の感想のような何か

分けられないものがはっきりと見えてしまう気持ち悪さ


 僕らは非常にはっきりとわからない世界を生きているのだけど、普段はそれに気づかない。だってわからないのは気持ちがわるいから。
 本当は何もわかっていないけれど、とりあえずわかっていると思い込める状況にはしておかないと生きてはいられない。「分かる」というのは、一つには分節化だろうが、人間の主観が入らない無分節の存在こそがホンモノかもしれない。けれど、分節されていないぐにょぐにょとした無秩序の存在は気持ちが悪すぎるので、そんなのを見ても、マロニエの根を見たロカンタンのように嘔吐をもよおすことになる。
 だから、半透明のビニールで覆って文節化できないようにされていると、とっても気持ちが悪い。

 人間の目の性能が良すぎるせいで、僕らはものを目で見て客観的に把握できているような気になってしまうけど、本当はぜんぜんそんなことはなくて、曖昧にものを見ている。例えば視界には必ず盲点があって、そこは絶対に見えていないはずなのに、脳が適当に補ってくれているおかげでその欠落を意識しないでいられる。
 欠け欠けのぼんやりとした視界を脳が再統合して、最後におまけのように意識がついてくる。五感のフィルターを通してしか世界が把握できないことを認めるのであれば、カントが言うもの自体は不可知であって、僕たちは、非常にはっきりとよくわからない世界を生きているにすぎない。しかし、脳が何となくよくわからない世界を適当に再構成してくれるおかげで、普段はそのことに気がつかないでいられる。だから、曖昧にものを見ていることを自覚させられると、非常にゾッとする。気分が悪くなる。

 この、ものすごい気持ちの悪さを感じないように僕らは文化的な世界をうまく生きているから、逆に気持ちの悪さを思いださせてくれる体験は貴重だ。気持悪い世界のほうが本当の世界なのかもしれないし。
そして、そのわからない気持ちの悪さを、全く言葉を弄することなく一瞬にして体験させてしまえるのは、現代アートにしかできないすごいことなんじゃないかと思う。

環世界

 それから、非常にはっきりとわからない展が素晴らしかったのは、鑑賞している人たちも巻き込んで一つのインスタレーションにしてしまっていることだった。
 友達と来て「わからないね」と言い合っている二人組、したり顔でうなずくオシャレヒゲメガネのおじさん、手をつないで無言で黙々と歩くカップル、そして「なんだか工事が始まっちゃったみたいで、いつもと受付が違うのね」と話しながら迷い込んできた老夫婦。
 こうした色んな人のなかで展示物を見るのが、最高の体験になる展示だったと思う。客観的な世界がわやくちゃにされてしまっているので、ほかの人の主観的な世界が生き生きと感じられる。そのほかの人の主観的な世界を環世界と言ってしまってもいいかもしれない。

 非常にはっきりとわからない展のミュージアムに、選書して挙げられている3つの本があった。
 ぼくはユクスキュルの『生物から見た世界』しか読んでいないのでその話しかできないけど、これは生物には生物ごと様々な世界(環世界/Umwelt)が存在していると主張している本だ。
 この本に書かれていることをめちゃくちゃ雑にまとめると、生き物は生き物ごとにそれぞれぜんぜん違う世界を生きているんだけど、その世界は客観的な世界では決してなくて、生物その一体だけが感じている世界を抜き出すことはできなくて、まわりの環境と相互のコミュニケーションをとりながら生きている主観世界(環世界)なんだよーということである。

 客観的現実的な世界なんかないくて、主観的な世界があると主張する点では観念論に近いけれど、ユクスキュルが面白いのは、西洋近代では主観に対立する客観(環境)を、主観の方へもっていったところにある。主観である人間が客観である環境・自然世界を一方向的に眺めるのではなくて、生物と環境が双方向的に関わりあう主観的世界(環世界)を唱えたところが何より面白い。この主観世界の双方向性はあらゆるものに応用が効くし(環世界論がサイバネティクスの一つのルーツになったというのは、かなり蓋然性の高い仮説らしい)、今回の展示もその一つかもしれない。

そして開催概要を読む

 非常にはっきりとわからない展の「ごあいさつ」には、こう書かれていた。


 美術館の空間を、地球の運動のように思えるくらいおもいっきり突き放してみせたい」という作家の意図のもと、展示物だけでなく鑑賞者の動きや気づきを含む千葉市美術館の施設全体の状況をひとつのインスタレーションとして展開し、普段とは異なる現実としての美術館に人々を誘います。様々な状況が集積されてゆく動的な展示空間は、訪れる人が理解していたはずの意味や本質を剥がしてゆくように、当たり前のものとしてどこか見過ごされているような現実世界を、新たな感覚から捉え直させる機会となるでしょう。

この試みは成功しているように思える。



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