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開かずの箱

ADHDの診断をされて二カ月が経ちました。
変わらず経過観察の日常を送っています。

診断がおりたからといって私自身の何かが変わることは全くないのですが、どうしても日常で不便だなと思うことの工夫をしていく必要はどうしてもでてきます。
現在の悩みは睡眠のリズムがどうしても不眠がちであることと、不安障害が強いこと、感覚過敏の中でも外へ出ると聴覚がどうしても音を拾いすぎてつらいことです。

仕事は引き続き探している状態なので、ケアレスミスなどの悩みは今のところ休戦です。
逆にいえばこの問題を解決できたらかなり過ごしやすい生活が送れるのでは?とも思っていて、比較的順調に見えるステップです。

ある一点においては。

子供の頃に、この特性のせいで周りに合わせられず授業で全く違うことをしたり人の表情が読めなかったりしたことなどで、周りからずいぶん孤立していたのですが、そのときのつらかった思い出に整理がついていないことが、今の自分にとってとても大きいです。

言葉にするのはとても難しいのですが、周りに馴染めない、同じことができない特性はある意味自業自得とも言える部分があって。
不便だと思う道具の使い方や、授業でわからないことを人に聞けないことなど、自分で解決できたかもしれないことから逃げた部分はたくさんありましたし、そのことの後悔も確かにあります。
でも1番つらかったのは、そういう自分の弱点につけ込んで見下されたり、やりたいことを全否定されたり、言葉の暴力をぶつけられ、他のクラスメイトや担任の先生からも、誰にも助けてもらえなかったことでした。
私は、家庭環境においては両親にとても恵まれ、愛されていたことも今とてもよく理解しているつもりです。毎日それを思い出さない日はありません。
ただもし、いじめにあっているからもう学校へ行きたくないと言ったときに、他へ逃げる場所を一緒に探してもらえるほどの余裕が両親には無かったのだと当時すでに気づいていました。
そのときに私がしなければいけなかったのは、両親に心配をかけないように学校でされたことを隠すことではなく、きちんと自分をさらけ出して助けを求めることでした。

そういう、自分が当時にしてほしかったことを飲み込んで生きてきたことは、今の自分がどうありたいかを殺してしまうには十分な生活でした。
ADHDであることを受け止めることは、周りと同じような生活を送りたかった自分と、それができない自分との折り合いをつけていくことに繋がります。

私は絵を描いて生きていきたかったし、今まさにそれを選ぼうと分岐点に立っています。でも長年普通でいようとしたことが、想像力を外へだそうもがく自分を抑圧します。やりたかったことを否定されてきたことで自分をさらけ出すことを諦め、絵を描いてきた人たちにも心を閉ざして生きてきたため、出会った作家さんへの踏み込み方が分からず、お客として立つことで安心している上で本当に伝えたいことに蓋をしてきました。

こうやって、ちいさなちいさな破片の一つ一つを拾い上げてもう一度形を作り上げていくことに、時折とても胸が押しつぶされそうなほど切なくなります。私はどうしたかった?どういう言葉で伝えたかった?どんな人と一緒にいたかった?してもらったことが嬉しかった時、どんな表情をしたかった?

この時間はいつまで続くかわからないし、もしかしたら一生あることかもしれないし、これを後悔と捉えて振り向かずに生きていくことは何かが違うように思います。
それでも見えない世界の破片を探していかなければいけないのだと。

投薬の方向性が決まり、生活の質が変わったらもう少し見えてくるものがあると信じるしかありません。私は作品をつくるしかないし、人へもう少し出会っていく必要があります。いつかもう少し自分へかけられる言葉が優しくあれたらと今は思います。






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