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(最終回) 越後出雲崎、4つの物語

 新潟に出雲崎という町がある。全国的な知名度はけっして高いとは言えないが、「たのしい観光地」としてはなかなかおもしろい場所だ。

 江戸時代、佐渡の金が重要視された。佐渡の小木の港から船で出雲崎に渡り、北国街道、中山道を経由し、佐渡の金を江戸の「御金蔵」に運び込んだ。出雲崎は江戸幕府にとって重要な場所となった。周囲の有力名藩、高田藩、長岡藩、新発田藩ににらみをきかせるため出雲崎は天領とされた。

 佐渡が金なら、出雲崎にも、ちょっとしたおもしろいものがあった。石油である。出雲崎の石油に関しては、古くは『日本書紀』にも、「燃ゆる水」が越国(こしのくに)から朝廷に献上された、との記述が見られる。

 出雲崎付近の海岸線にはしばしば油が漂着、また付近からは「草水(くそうず・臭い水の意)と呼ばれる「水」が湧出し、江戸時代からすでに、石油の存在は確認されていた。その後、明治時代の外国人技師たちによる本格的な油田探索により、海岸を埋め立て油井をつくり掘削を開始、1892(明治25)年には、アメリカからの技術提供による機械掘り油井第一号となった(尼瀬油田)。後の日本石油(現ENEOS)の誕生である。

 1980年代まで採掘が続いたが現在は終了し、簡素な記念公園と「石油記念館」がある。また、その建物には、天領時代を誇示するべく、(小さいわりにはなかなかハイテクな)「天領出雲崎時代館」なるものが併設されている。

 実は、出雲崎が誇るものはまだある。良い子はみんな知っている、良寛さんである。おさらいをすると、良寛さんは、江戸時代後期の曹洞宗のお坊さんで、歌人、書家としても名を成した。岡山の円通寺で修行を重ねた立派な人だが、何よりも有名なのは子どもたちを愛し、積極的に子どもたちと触れ合ったことだ。その様子が子ども向けの童話になり、良い子の頭の中にインプットされた。この「案件」に関しても、良寛の生誕地を記念した「良寛堂」と、功績を讃えた小さな記念館が建てられている。

 足早に紹介したが、「天領」「石油」「良寛さま」と、出雲崎はその土地の上にバラバラな時代の「出来事」がレイヤーのように積み重なりひとつの空間を形成している。AとBとCを足した重層的な景色。その全部を足してみたら、抜けのいい海っぺりの景色しかないという「構図」がなんとなくいい。

 私はさらにおもしろいことに気がついていた。いかに元の天領とは言え、江戸・東京を中心とした中央集権下での発展に取り残され、海沿いの寒村は衰退し、ただ「行きにくい」だけの場所となっていた。そこに現れたのが田中角栄である。

 新潟の英雄・角さんは、「道路は文化だ」と言い放ち、孤立しがちな新潟の各地を中央へと「近づけて」いった。東京への大動脈となる三国トンネルの開通(国道17号)に始まり、そこへと連なる毛細血管のように新潟の各地に道路網を広げていった。田中角栄元総理の生家は隣接する地域(西山町・現柏崎市)。出雲崎もその恩恵にじゅうぶんに預かっている。すなわち、出雲崎も、角さんの息のかかっている場所、「天領」「良寛さま」「石油」「田中角栄」、4つの目のレイヤーの完成である。

 近年、メタ観光という言葉が注目されている。観光とは実際に見ているものに含まれる価値や物語を消費すること。ひとつの場所を(時代やジャンルを超えた)さまざまな見方で楽しむことができれば、観光地の魅力は増し、観光そのものもさらにおもしろくなる、という考え方だ。

 出雲崎の出来はまだまだだ。ポテンシャルはあるが、まだまだ魅力に乏しい。最後の最後に、おもしろいサンプル出会った。そんなわけで、今回が最終回。観光地を「たのしむ」ため、金を使い、頭を使い、全身で意味、思想、物語、企てを味わった。観光はおもしろい。旅行解禁、バンザイである。

〜2021年12月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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何もないのに4つも物語のある場所


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昔の出雲崎の風景(天領出雲崎時代館)



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