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写真を撮る意味は必要だったのか?

コロナのせいもあるのだけれど
撮影に出かけるとが激減して
毎月2.3回いっていた撮影も月1あるかないか
ぐらいなのがもう1年以上つづいている
その中で私の中で起きた変化について

第一波の頃とは比べ物にならない
コロナ感染者が爆発的にふえ
また、撮影からは遠ざかりそうな雰囲気である
何となく、最近は
そんなに写真を撮ることを必死にすることや
写真を撮ってることを特別視する必要があるのだろうか?
と思うことが増えてきた

撮ることの意味みたいなことを
言語化するそれがなんだか芸術家みたいでカッコイイ、言語化している人間が、写真を理解していると、思っていた事もあるのだが
最近の技術の進化で写真を撮ることっていうのは
特別なカメラを持っていなきゃできないことでもなく、なんなら携帯で充分で猫も杓子もボタンを押せさえすれば撮れる時代に、
写真を撮ってることがそんなに特別なことなのか?
という疑問を持ってしまった。
周りの人間の発していた
「写真を撮ることがすばらしく特別なこと」
に感化されて自分もそうなんだ!
神聖で素晴らしい行為なのだと思うようになってから、
写真を撮ることの意味を考えることが多くなり、答えが見つかったと思っても、また違う気がして
悩むみたいな事を繰り返していた。
意味が無いと撮ってはいけない。
みたいな事に思考が支配されいたんだろうな
写真を撮って何やってんだろうっていう虚無感や空っぽ感が凄かった
いいねが増えようと、フォロワーが増えようと
それが埋まることはなかった
後、写真を撮ることを特別な神聖なものとして
いる自分に酔いしれていたんだろうな

撮影に思い立った時に行けなくなって
カメラを持たない日が増えて、
少し距離ができるようになったら、
自分の作ったご飯や、空や、さして意味の無いしょーのないものを
目に入る何かをただなんの意味も持たず
撮ることが増えた、あ、撮りたい
ただそれだけでシャッターをきるようになった

私の中に撮りたいに、意味はない
ただなんとなくそれが撮りたい
そこに小難しい意味はなく
ご飯食べたい、寝たい、
お尻が痒いから掻きむしる
みたいなことだったのだなぁと
最近、カメラを始めた頃の感じに戻ってきている気がしていて、退化なのかもしれないし
他人からしたら、撮ることをかっこよく語れない奴はダメな奴と言われるのかもしれんけど

虚無感を感じることが少なくなって
撮る!楽しい!が増えたよ
っていう最近の話
そして
同僚から貰った美味しい生サラミを
冷蔵庫に入れ忘れたことを今きづいた
午前6時・・・

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