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高校に進学してから、母への感情は収まった代わりに、父への嫌悪感が上がってきた。

夕方に自宅の電話が鳴ると私たちは緊張した。父から、仕事を辞めたいという電話の可能性があるからで、私が幼い頃からあったように思うが、その頻度は増していた。その度に、母の顔は当然曇る。
休日も仕事の事ばかり、考えるのは勝手だけれど、何かと些細な事でも愚痴に結びつけて冗談も本気で捉えて笑わない父のせいで、和やかだった空気がなくなる。
本当に鬱陶しくなった。

1度自分に不都合な事が起こると解決するまで執拗に追及し、二度と起こらないように執拗に防御策を求め、脅迫する。少しでも片鱗があれば1から10まで命令し、その通りにしないとヒステリーを起こす。

問題への予防策は必要だけれど、度を越していた。

何しろこちらへの脅迫が凄まじい。
父の話を遮ったり、適当にあしらう素振りをすると激怒し、机を叩き、甲高い大声で十数時間。
休憩を挟んで話し続ける。
興奮し過ぎて食べたもの、飲んだものを床に吐き出し、そのままにした事もあった。片付けはもちろんしない。汚いと言って抵抗しようものなら、また激怒する。俺の苦労を分かっていないからそう言う、今のでどこまで話したか忘れた馬鹿野郎め、最初から話すぞと言うのだ。

下手をすると夜中、枕元に来ても、日を跨いでも壊れたテープのように、同じ内容を繰り返し、相手がわかったと言うまで、言ってもまだ分かっていないに違いないと決めつけ、話続ける。

私は今でもトラウマになっているし、今は更に度を増している為に母は追い詰められている。相手の予定なんてお構い無しで吐き出し続ける。
養われているというだけで、私たちは尻拭いと、感情のゴミ箱と、機嫌が良い時の家族としての話し相手をさせられた。
私は、両親が笑うように、計算した会話を選んで話した。2人が、父が笑う度に、嬉しさはあれど虚しさと、そんな事をする自分の冷たさから、心と表情が死ぬ感覚が、今でも容易に蘇る。

自虐ネタとして笑い話にも出来るけれど、決定的な事かあった。
父から、自分が旧友の集まりに泊まりがけで行くためのホテルを探してくれと頼まれた。正確には、父が自分で効率よく探せなくて、イライラして当たられたくないし、犠牲になる母を見たくなくて、私が笑顔で引き受けた。簡単に出来ると思っていた。

ところが、注文が多かった。1日、2日経っても該当する所は見つからない。眠たいのを抑えて夜までやっても見つからない。日を追う事に部屋はなくなるのに、妥協しない。
無関係かもしれないが私は体調が悪くなった。
その翌日は付き合っていた人とのデートの日で、その前に片付けてしまいたかったし、もし出来なくても予定があるから、時間になったら切り上げさせて貰うからと了承を得て、当日は体調不良を隠して、ひとりで早朝から検索を再開した。

父が起きてきて、見付からない現状を伝えた。また新たな要望と、妥協点を織り交ぜて検索しても、見付からない。できる限りの事はした。約束の時間になった。父に、もう出掛ける時間になったからと切り上げようとした瞬間、

なんだよ!!!と声を荒らげ、地団駄を踏んだ。普通に吃驚した。
良い大人が地団駄。しかもこちらは、事前に伝えておいたし、恐らく私はデートに行く事を察していただろうに。

唖然としたし、怒りで私も荒らげて、事前に伝えたでしょうと言った。それだけで消耗した。
本当はこんな事したくなかった。父親の用事と彼氏とのデート、どちらを大切にしたいかなんて明白で、体力を温存したかったのに、私は。

私に怒鳴られた父は、あぁそうだな、もう出来ないんだな?もういいわかった、自分でやると、全く納得していない。
むしろ自分が妥協してやったと言わんばかりの態度で去って行った。

急いで支度して、悔しくて泣きたくてしんどくて、でも笑顔で家を出た。
もう二度と手伝いたくなかった。でも、家で父の次にパソコンが出来るのは私だけで、仕事の手伝いもさせられた。Excelで分からない事があると数時間掛かる。
関数をこう使えば良いと伝えたら、
関数を使うのはズルい事だから、それを使わない方法を考えて教えてくれ。
教える時は電気屋のお姉さんが教えるように優しい口調で、同じ事を何度聞いても優しくゆっくり教えろと言われた事もあった。馬鹿か?と思うし、怖気が走る。

そんな事を望むなら教室に行けと言うと、教室は望むことをピンポイントで教えてくれない、余分な知識は要らない、いま必要な事だけを教えてくれればいいんだ等と言った。

なら私に金をよこせと今なら言いたいが、言ったら言ったで恐らく、教えてくれなくて良い、どうせ俺をATMだと見てるんだろう、家族から金を取るのか、などと言うだろうし、鬱憤や時間の犠牲が母や姉に行くであろう事を思うと従うしかなかった。

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