友達や、関わる人へ思うこと

私は人間関係を損得で捉える節がある

本当はそんなの否定したい
友人関係、恋人関係、夫婦関係が損得ありきであってたまるかと思っている

なのに、いま自分が、相手にどんな得を感じているかを探ってしまう、考えてしまう。めちゃくちゃ苦しい。やめたい。でもやめられない。カッパえびせんじゃあるまいし、やめたらいいのに。

カッパえびせんならどんなによかったか、実際は中学時代に父から言われた言葉(💩)。
友人関係なんて損得でしかない。利益のある人にしか人は寄ってこない。そうでなければ下心があるか、お前を利用しようとする人だ。

思春期真っ盛りで、人間関係に躓きながら必死で友人と思いたい人と繋がっていたくて、自己犠牲に走ろうとする私が痛々しかったのかもしれないけれど、最後に出た言葉が、家族を蔑ろにするな、家族より友人を信じたり、大切にするなんておかしいぞ、だったから、やっぱり真っ当な言葉ではなかった様な気、もする。

娘のプライバシーや個性を蔑ろにする親と、尊重して一緒に笑ってくれる人、大切にするなら後者だし、友人と思いたいのは間違っていなかったと信じたい。

父からのカッパえびせん、ではなく💩みたいな言葉に猛反発したけれど、私に賛同してくれる人は誰も居なかったし、実際友人関係だってあったかなかったか分からない状態で、当たらずとも遠からず、というか図星だった。
私が考えるような、信じるような繋がりを、私が構築出来ていなかった事を見抜かれていたし、言い当てられた。それからの学生生活からも、社会人になってからも、益々否定なんて出来なくなっていった。

いつしか納得してしまい私自身が言うようになった。
中学生の私が違う、誰か助けてと泣いているのをずっと感じていたけれど、大人になっても私には救えなくて、ただ傍観するだけ。

相互さんが、私と同じように考えるご友人の話を呟いていたから、つい食いついてしまった。救われたくて。

損得と表現する事は一理ある事
ただ人により寂しさを感じるだろう事
など
父の💩を否定するには至らないし難しい事だけれど、その表現を寂しいと感じて、否定した過去を持つ方と話せた事だけでも私は浮かばれた
私の思いを否定されなかった事は大きいと思う
見ず知らずの私に時間とスマホタップの労力を割いて下さって、有り難しとは本当にこの事だ。

話してみて、沈んでいた澱が動いて、どこかへ流れて行った
泥をさらしたら出てきた思いがあって、砂金だといけないから忘れないように書いておきたい

私が人といる時に、今得ている得、を考えるのは、父を否定したい、自分が安心したいからかもしれない

この人にはこんな得があるの、だから付き合っていいでしょと、許しを得たい気持ち、付き合っていいんだよねと確かめたい気持ち
何にしてもなんだか失礼だし、相手が知ったら寂しいだろうから、言わないけれど、底にあるのはあなたと居たい気持ちだから許して欲しい
どんな事があっても付き合って行きたいから、でも得という表現になってしまってやっぱり申し訳ないけれど、いつかそんな事を思わないように鋭意努力はして行くので…。

思えば私は人に対して損を考えた事がなくて、
いま損してるな、この人と居ると損だとか、思った事もなかった
むしろ損とは、私と居る事、私が他人に与えるのみの事で…。
だから許して欲しいというか、浅ましい感じだけど…、すみません。

うまく言葉に出来たか分からないし、砂金じゃなかったと思う時も来るかもしれないけれど、取っておきたかった。
以上です。これからも出来ればよろしくお願いします…したいです…






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