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発見ってワラエル

尊い感情
『愛』が欲望だったとは。

ワガママは醜い、とか
自分勝手は下品、とか

欲というものに対して
歪んだ道徳観に遮られてしまって
私は愛の広さがよく見えていないんだ。


話を聞いたり読んで
うん、そうだよね
知ってる
って思っていても
実際に自分の腑に落ちる感覚があると

ああ
そうだったのか、こういうことだったのか
と、まるで知らなかったみたいに思う。

何度も聞いてても、わかってたようで
分かってなかったと
やっとわかるんだ。

そのタイミングがくるまで
何度も聞いたり目にすることで
理解の扉は知らずに近づく。


愛とは許しである一面にばかり、囚われていた。

自由を許す
ありのままを許す
全てを許し、信頼する。

『~ねばならない』『~するべき』の結婚制度とは逆で

『~して欲しい』『~のはず』の期待とは逆で

受け止め、与え、許すもの。

そういう懐の深さが愛なんだと思っていた。


もちろん、それも愛なんだけれど

『~が好き』『~がしたい』『~が欲しい』という気持ち
ああ、それか。
その発するエネルギーそのものが愛なのか。

私たちの生そのものが
望みそのものが
自由な欲求の表明が

どこまでも自由に拡大していく、それらが
このフィールドそのものだったんだ。

望むエネルギー

自由に望み表現する
欲望は自由で愛なんだ。

それが
この世界のなりたちで
そのために生きている。

生きてなくても(生きる自由さえある)
愛そのもので存在している。



なんか、
それしかないんだって。
怒りも悪も愛だって。
だって、それしかないんだから。

分かった風でわからない。
立ち位置がちがってたら
見えてこない。

あるとき
ちょっと立ち位置がずれただけで
あ、そうか、と
なんか見え方が変わってハッとする。

ちょっとずつずれて見ると
自分が動くと見え方も変わる。

動く。
ずれる。
ちがった面から
見れるようになる。

全方向、どこから見ても
結局同じものを見るだけだけど

あ、そうなのね
いや、そういうことか

と笑っちゃう。
なんだ
って笑う。

悟りは笑いなんだって。

そうやって、楽しくなっていくのが人生か。

ああ
なんだか、何をするのも怖くない気がしてくる。
「いーよ」
って言える。
「オッケー」って。

今までも「いいよ」「大丈夫」「かまへんよ」と同じ言葉を言っていたけれど
スタンスが違うと、ほんまが違うわ。

まじのまじでほんまもんの「かまへんよ」が出る。
なんて軽いんだ。

望むこと欲しいこと好きなこと

愛すること与えること許すこと

それはまとめてまるっと一緒。


yesしかない。
OKしかない。

やばいな。宇宙。懐深すぎやろ。


ケーキたべたいOKよ







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