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このままの自分でいってくる

介護の仕事をしているとき
利用者さんの奥さんの目の様子を見て
私は色々なものを感じて引きずっていた。

目を見て話するけれど、瞳は私の胸に突き刺さるので、あまり私は相手の瞳に自分の焦点を集中させない。

私は、感じる事が容易く
感じる自分に振り回されるから。

けど
感じたことなど
ましてや私の受け取りかたなど

本当なんかじゃない。

いつだって目に見える部分は、多くの真実のなかのほんのひとカケラだ。

目の前にあるスリッパも、980円で買ってここにあるけれど

私が見えてない背後に多くの行程があって
思いと、労力と、時間を紡ぎ、距離を経て
そのなかのひとカケラが、ここにあるだけ。

潜在意識と顕在意識のように
私の目に見えているものは、全くもってひとカケラでしかないんだ。

目に見えるだけ、聞こえているだけでも
可視光線の範囲で物質を視覚的に捉えている私には、虫の目、鳥の目のように紫外線は見えないし、イルカやコウモリのように超音波も聞こえない。

世界はもっと様々な光景に満ち
いろんな音が渦巻いている。

あの太陽が雲間から光を照らしているように、繊細でダイナミックで巨大な、けれども一瞬も定まらない、儚いもの

世界は、目の前のものたちは
そういうものを背後に山ほど背負って、いまここに一瞬、現れている。

だから、本当は瞳の奥には60兆の細胞や、80年分の言葉や、数えきれない幸運と、同じ数の不運やなんかがあって

私がはかり知れるものではないんだ。

全てのものが、目に見えない聞こえない遥かなもので作られているからこそ
そのなかの貴重な一部分を

いつも感じて生きる。

それで十分だ。

私は仕事で会話しているとき
つい、あいだで適当なことを言ってしまうことがある。
場を取り繕うんだ。

けれど、言葉なんかホントはそんなに必要ないんだろう。
私は自分の中から言葉や表情で考えを絞り出す。
だから、現れている言葉、表情それ以上に
なにかから
きっと受けとられていると思う。

落胆だったり
期待だったり
疑いだったり
安堵だったり

隠そうとしても隠れてない。
見られたくなくても分かられている。

私のカケラをすでに感じてくれていて
その上で誰もが
赦してくれているのではないか。

もう、だから
自分であればいい、とおもうんだ。

今日は初めての会合に参加します。
ちょっと緊張するけど
このままいっちゃいたいと思います。

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