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ピタゴラスイッチ!

もしも、ジャングルで動物のように育ったとしたら、自分のアイデンティティーってどうなると思いますか?

人間社会でないところで育ったら、はたして私は私だったのかな?

親兄弟、街、学校、他人、テレビ
そういうものから無数の「私」が作り出される。
怖がり、優しさ、拗ね、怒りんぼう、冷徹漢、目立ちたがり、真面目、楽天家、お調子者
どれも、私の一部として作られていく。

本当の私って?それらの一面と、その一つ一つの反面と、あわせて何十個もの特徴をぜーんぶひっくるめて私なんだけれど

社会で生まれ育たなかったら?
意識的な外的要素がなかったら?

生まれ落ちた瞬間から
ジャングルで一人きりなら?

私はどんな私だったのかな?
もともとの私って?

電車で目を閉じる。
いまから仕事に行くんだけれど、仕事が無い自分になってみる。
仕事が無い…
私…。

仕事が存在しない自分になる。
やらなくてはならないことがなくなる。
気合いも愛想も計算も要らなくなる。
急ぐこともなく、整えることもない。
きちんとしなくていい気がする。
役割が無くなった自分になってみて…
自分を感じる。
電車にのっている、ただの私。

つぎは年齢を外す。

年寄りの自分なら、年寄りとして、電車の中でも「年寄りだ」という顔をして座っているだろう。
子供なら、子供として電車の中に居るだろう。

目の前の女子高生は、高校生として電車に居てることが、見てとれる。
高校生だからね、という態度になっている。私も、高校生だからなあ、と思って見ている。

だれもが、レッテルを持ち
レッテルを見る。

自分の年齢を外してみる。
何歳でもない自分になる。
高校生でもなければ、子供でも大人でもない。
母親でもなく、娘でもない。
一人前でもなく、役に立つものでも立たないものでもない。
年齢にひっついているものを外した私になってみる。

私は私だ、と呼吸する。

また、性別を捨ててみる。

女という概念を自分から外す。
しかし男でもない。

心なしか、体が、膝あたりが緩まる。

私は体が小さく弱いものでもなく、守られるものでもなく、誰かを支えたり、たしなめたり、責めるものでもなく、わきまえるものでもない。ジェンダーを越える。
ただ、私であろうとする。

社会的なカテゴリーを
あらゆる分類を
レッテルを
電車に揺られながら外していくのだ。


その先には?なにがある?
私が見える?

私はそれら何でもなければ、いったい、何なんだ?
何がしたくて、私は生きている?


アルゴリズムで生きている。
縁だ。
縁起で生きているんだ。

私がしたこと
答えたこと
こう思ったのも
感じたのも
怒ったのも悲しんだのも
喜んだのも満足したのも

私が自ら起こしているのでははなく、アルゴリズムによって、無数に広がる関係性からスイッチをつないでつないで、私を押すんだ。

自分の過去の全ての出来事が繋がって、ここにこうして起こっている。私が現れている。

ポンと、レールに置かれた(誕生した)私

そこからピタゴラスイッチは複雑に、豊かに展開しながら延々と進む。

ボールは、法則にのっとって、連鎖して、沢山の絡み合う縁起とエネルギーに突き動かされる。

あるときは、じょうごの中へと飛び出して
ぐるーりぐるーりと円周をゆっくり回転していると思えば
みるみる中心に向かって速度を上げてゆき
ものすごいエネルギーで回転して
そしてストンと真下へ落下する。
遠心力に振り回される混乱と、そこからの解放。

解放されたと思いきや、また次のステージで無数の関係性で繋がり押されて動き出す。

食べ歩きをしたい!と昨夜
まるで、私の中から沸いてきたと思うんだけれど
過去に映像を見たから。誰かが市場の話をしてたから。美味しそうな色を匂いを知っているから。一緒に食べ歩き方をしたい人が存在するから。そういう経験や楽しい記憶があるから。

そして街のありかたや、美味しい魚介類や、調理法や、この国の安全、お仕事、お給料、などなど、豊富な縁がつながりスイッチとなって私の気持ちを起こす。
勝手に沸き起こったようでいて、沢山のそうなるべき「きっかけ」がある。

すべては、私のものではなく、周りから与えられてきたもの。
社会からの恩恵。
縁起によって、アルゴリズムによって
私は日々出来上がる。

だから、寝起きにかかってくる電話がありがたい。疲れてYouTubeに見入って動けないでいる私へのLINEがありがたい。
スイッチだ。
なにかきたぞ。

目の前にあった水に「ありがとう」と思う。水は遥かなどこかから、果てしない仕組みを経て来た。このコップや、注ぎながら飲み残していた昨日の私に感謝する。
水飲めば?とスイッチが押されたからだ。

なにもかも、目に見えない無限の縁によって私は生きている。

今日も、朝から新しい出会いがあった。私のピタゴラスイッチがまた彼方から繋がってきたんだ。


このピタゴラ装置の大きさは宇宙の大きさだ。
だから、この装置のことを思い悩んでも仕方がない。

いまどうして下り坂なんだとか、どおして目の前にドミノの壁が出現したんだ!などと考えても仕方ない。

ただこの時に起こる、ボールが跳んだり跳ねたりぶつかったりする事象を受け入れるしかない。

地球は実は時速何十万キロという早さで動き続けているらしい。
爆走する太陽に必死に食らいついてついていっている。

私たちの乗っかっている地球は、自転しながら太陽の周りを猛スピードで公転しながら銀河を爆走する。
太陽系はいま、銀河のなかの交差点のような渋滞地域へ突入しているという。

地球はこれまで何度も彗星とぶつかっている。現在もあと200年間は、銀河の無数の星と接触する恐れがおおきくなる地帯を横切るらしい。
ほんの500メートルの隕石でさえ、接触すれば壊滅的な被害を受ける。

ピタゴラ装置は壮大で無限大だ。

そんなデンジャラスゾーンを爆走している地球で暮らす私たちは、まったくノホホンとしている。なすすべが無いからだ。

それと同じく、目の前にやってくる日常のデンジャラスゾーンに入ってもなすすべが無い。
ありそうで無い。

実は無い。
コントロールできそうで、出来ない。
予防できそう
努力できそう
頑張ったらなんとかなりそう
本当にそう思えて仕方がない。

嫌なことがあって、嫌な気持ちになる。
なにか問題を解決出来そうな気配がムンムンする。ああしようかこうしようか、どうしよう。こうしたいけどやろうかやめようか。

考えるのが楽しければいい。でも苦しければ、それは止める選択もできる。

何もかもはピタゴラ装置と思えばいい。
自分はボールだと。

環境どころか、その環境に反応する自分の心でさえコントロールできないんだと

うちひしがれたとき、頭が垂れる。
握りしめている手のひらも緩む。手放せる。

ピタゴラ装置は私たちには変えられない。

ひょっとすると、このドミノの壁をどけてくれるかも?(神様の手が)
恐怖の落下ではなく、緩やかで平坦なレールに切り替わるかも?(引き寄せによって)

つい、そんなふうに自分の通る所を誰か何かによって変更してほしいと願ってしまう。

幸運という奇跡を呼び寄せたくなる。

しかし、ボールに出来ることは何もない。
ただ、引力に従うだけだ。

だから、私たちに起こる奇跡とは、ボールであることを受け入れることだ。
起きる現実に対して、悲しんでもいい、苦しんでもいい。
けれども、るつぼに嵌まらない。

呑み込まれてもどうしようもない。
必要以上に思い悩んでも、しんどいだけだ。
ピタゴラ装置で与えられた事にいちいち心を持っていかれていては、人生が重くなる。

むかつくし嫌いだし地団駄を踏むけれど、だから、それが何?
凄い失敗をしたし恥ずかしい。ほんと、やんなっちゃう。じゃあまた明日。

そうやって毎日をただ、感じるだけ。
嫌いを感じる。好きを感じる。
努力してもいいし、しなくてもいい。
ボールの気持ちは自由だ。

ボールである自分を受け入れたとき、それはなんて豊かなことかと解釈がひっくり返るかも知れない。
すべて与えられてきたのかと。

私たちはさまざまな縁起で気持ちが沸き起こっては、過ぎていく。
いずれ、違う場面になる。

苦しみや恐怖、不幸になることでさえ、縁起でおこり、そしてそれを許されている。狂ってもいいし、屍になってもいい。自分のせいではなかったのだ。
私のせいじゃなかったんだ。

ああ、もうなにも自分でしなければならないことはないんだと思う。果てしないこの世界にゆだねよう。
もう、しーらね。



12月だけど大阪はまだポカポカ暖かくて、部屋で日光を浴びてやっと家をでた。




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