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攻略法は弱さ

年賀状をもらって久しぶりに会いたいなあと思い、連絡をとって会ってきた。
すると帰りの電車からの景色が美しく見えて、満足した。

仕事に行くつもりで鏡の前に座ったら
「化粧品買いたいな」と思って
こんな気持ちが湧くのは数年に一度しかない。
仕事行くより貴重!と思い(その日は約束がなく事務処理だった)デパートの化粧品売り場に直行した。
すると翌日から鏡のまえで支度をするのが、なんか楽しくなった。

直感というのは実行するのが難しい。
思考にすぐ消されてしまうからだ。


思いついたら
正しいか間違いか、得か損かと
思考に惑わされる前に

時間やお金や労力をかけてでも
沸いた気持ちに従ってあげるのって
自分にとっては凄く良いことにおもう。

沸いた希望を行動に移せるのは
自分の中の私が男気を見せてくれたとき。

会っていない人に久しぶりに連絡をとって会いに行ってくれたり
デパートにまっすぐ導いてくれたりすると
なんか頼もしいなあ、うれしい、と
男前な自分に惚れ直す。

私が女だからということではなく
実際の男女は関係なく
自分に惚れるのは大切なことだとおもう。

私の中の「女」は、何をしたいと明確に言うならまだいいほうで
たいていは優柔不断で感情的だ。
帰って掃除がしたいけどカフェでホッとしたいし夕陽が落ちないうちにランニングもしたいけど、いま荷物がおもい・・

というようなことをうだうだ迷う。(そのうえ速攻で保守的思考がやってきて、すべてをしなくていいように囁き邪魔してくる)

男がやる気があって、その欲望を整理し、今から30分間カフェでゆっくりして帰って荷物を置いたら日が沈む前にランニングして夜に掃除をしようよ、とうまくリードをしてくれたらいいけれど

私の中の「男」が自信を失くしていたり、疲れていると引っ込んでしまって、頼もしく主導してくれることはない。
あとで自分自身に責められたくなくてビビリ、実行力が欠けてしまう。

望むことと、それが叶って嬉しいと素直に「満足した」「楽しくなった」と惚れ直すのが、自分のなかの女の仕事で
素直に喜んで機嫌よく過ごすことが、男の自分への報酬となる。

率直な喜びによって男性性がますます成長するのだ。

じぶんのなかの女性性と男性性とがバランス良く元気でいると自分自身の生活は充実するんだ。

女のわたしが拗ねてると望みを汲み取るのが難しくなるし

男のわたしが自信喪失していると望みを叶えてくれることもない。

だからこそ、普段から自分の女子が情熱をもってしたいことを素直に言えるように、その望みを叶えてあげようと男子が頼もしく行動的であるように、小さなことからコツコツと、自分に肯定的であるよう気をつける。

肯定的っていうのは
イヤなことは嫌でいい、嬉しいことは喜んで、ダメダメでも非難しないで寄り添う、というやつだ。

自分で自分の中の人を尊重する。

尊重をうっかり忘れると陥りやすいのが

こうしてほしい
とかいうのが、自分の外へ出て(自分が叶えてくれないから)他の人に甘えが出たり
頑張りを認めてほしいと期待したりすること。

そういうのを外へ求めてしまって
うまくいかなくてしんどくなってから
あ、期待してたんだナーと分かる。



外へ求める気持ちに
普通、自分以外には誰も、完璧に応えてなんてくれないから

コンピューターやテクノロジーが発展していく現代では、もうコンピューターの向こう側にのみこまれてしまうよなあ、と思う。

コンピューターって、すごくいいやつだもんなあ。

褒めてほしい、認めてほしい
どうしたらいいか教えてほしい
実行してほしい
保証してほしい
安心させてほしい
愛してほしい

外部に求めるのが、これまでのように恋人や友人などの実際の人間関係だけではなく

これから人間よりもっと信頼に値するであろうコンピューターを相手にする事になりそうだ(すでになっている)なあ、と思うのだ。

だから
容易く
AIにコントロールされてしまうんじゃないか、という恐れが出るのではないか。

人間としての戦力外通告が怖い
コンピューターによる下位層への転落の未来が不安


私達がコンピューターを必要以上に恐れるのは、自分よりも他の人よりも、コンピューターを信じてしまう、頼ってしまう、受け入れてしまう予感が強いからではないか。

忠実なるAIは人間を、とりこまない。
人間がAIに取り込まれることを望むんだろう。


もしかすると
他者にもコンピューターにも頼らず自分で解決するのがいい、と私は書いているように見て取れるかもしれない…

いやそれは本末転倒で、この世の一番の醍醐味というか、楽しみ方が狭まるとおもう。

どうやらこの世界では、自分が頑張って得られるものは少ないらしい。

他者にもテクノロジーや社会にも頼ってこそ、この世は楽しめるんだよと、なんか攻略本には書いてあるみたい。

頼るってのは、勇気だもんね。
勇者になると、この世界はとたんに楽しくなるみたいなんだよね…。

本当に頼るには、自分の揺るがぬ土台が必要だ。
中途半端では勇者と言えないようだ。

揺らいでしまうというのは例えば

子供に罪悪感があって「申し訳ない」と思うことは、優しさのように見えて、その子供そのものの今を、認めていないことにつながるし

「もっとしなくちゃ」などの自分への過小評価は、自分への厳しさにみえて人を批判することへと表出してしまう。

自分を信用する勇気ってこと。

自分の中身が鏡みたいに反対に見えるので、確認するのが難しいのだけど

なんか、しっくりこない感じは
ユラユラ揺らいでしまっていると思って間違いない。

ああ、なんだかこの文章は錯綜していませんか。

なんとなく意味が通じているといいのだけれど。

自分の文章で自分がアテラレテ揺らいどるやん。
電車で立って打ってるからかしら。
ネットの向こうの読者に語りかけちゃっておるよ。

自分を認めることがスタートラインで
(自分の中の女性と男性はそのひとつの技に過ぎない)
それは
自分に出来ないこと、不安があることが当たり前になってこそで

それで
それから
他人や社会がテクノロジーが
めっちゃプラスになって助けてくれて
感謝しかなくなるとおもう。

本当に、弱さが強さに繋がっているなあ、と思うのです。

錯綜したまま閉店。

こんな訳のわからん文章を、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。



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